新しくひとつ加えます(2008年8月)。同人誌「あした」9号(2001年)に載せた作品です。作品「下町の娘」の次の世代になる子どもたちの話しです。

ゆびきり

 

   (一)

 浅草の山谷から、隅田川は近い。
   十二月に入ると、風は、きゅうにつめたくなった。
 日はすっかり暮れたのに、町はうすやみにしずみこんだままだ。
    二年まえの十二月八日に、日本は、アメリカやイギリスをあいてに、
戦争をはじめた。 つぎの年の四月十八日には、アメリカ軍のB25中
型爆撃機十六機が、ふいに、日本に飛んできて、東京、川崎、横浜、横
須賀、名古屋、神戸と爆撃した。
 死んだ人四十五人、けがをした人一三五人、焼けた家二九八戸という
被害を日本にあたえた。
 それは、ひろ子が、正徳国民学校の一年生になったばかりのときだっ
た。
   ひろ子の家は、明治通りに面したところで、山家園という葉茶やを開
いている。その日、ひるすぎ、ひろ子は、店のまえで、ひとりでなわと
びをして遊んでいた。
 晴れた日だった。低くとびさっていく飛行機を、ひろ子は、手をとめ
てみあげた。つばさに、日の丸のしるしがなかった。
 あれから、一年はんぐらいがすぎた。ひろ子は二年生になったが、敵
の飛行機は、あの日いらい日本にやってはこない。でも、このごろ、ひ
ろ子のまわりは、ずいぶん変わった。
 山家園の店には、ついこのあいだまで、大きな赤がね(銅)の火鉢が
あった。うえにかかった鉄の茶釜には、いつ客がきてもお茶がいれられ
るように、湯が、シュンシュンと煮えていた。
 その茶釜も火鉢も、いまはない。軍艦や戦闘機をつくるために、政府
から金属類の回収令という命令がだされて、顔を洗うとき使っていた、
赤がねの金だらいまでいっしょにもっていかれてしまった。
 この町がうすぐらいのも、灯火管制という命令がだされたからだ。あ
かりには、黒いぬのきれをかぶせ、窓や戸口には、黒いカーテンをひく。
敵の飛行機が、あかりをたよりに、町をねらいうちするのを防ぐためだ
という。
「夜は、でるんじゃないよ。暗いから、ぶっそうだよ。ひとさらいも、
かっぱらいもいるからね」
 ひろ子は、母親のまきに、きつくいわれている。でも、今夜はとくべ
つ。ひろこは、店で客と話している母親の目を盗んで、裏口から、そっ
とぬけだした。
 山家園は、三間まぐちの大きな店だが、労働館を経営する、山根さん
が持つ五間長屋のうちのひとつだ。
 五軒長屋は、明治通りに面していて、菓子屋、下駄屋、葉茶屋、味噌
屋、榊屋と並んで入っていた。五軒長屋の裏側は、細い路地をはさんで、
労働者が入る、風呂場になっている。
 わかしたての風呂には、ひろ子もときどき入れてもらう。
 労働館の用心棒の水野さんは、労働者が入る前のきれいな湯に、長屋
の人たちを誘ってくれる。しかし、出入り口や窓の戸は、すどうしのガ
ラス戸だから、男や子どもたちは入っても、女たちが入ることはなかっ
た。
 ひろ子は、だだっぴろい洗い場のまえをかけぬけた。
 そのさきに、労働館の帳場がある。
 きょうも、ぼうずあたまの用心棒の水野さんが、すわっていた。四角
いあから顔、そこびかりのする鋭い目つき。
   労働館には、労働者が、たくさん寝とまりしている。戦争がはじまっ
て、隅田川べりの軍需工場は、いそがしい。仕事は、たくさんあるから、
労働者たちのさいふのなかみは、あたたかい。酒を飲む人、博打をする
人、喧嘩のたえまもない。
 町の人たちから、労働者が喧嘩をしているよ、よっぱらって、くだを
まいてるよ、いろいろな通報が入るたび、水野さんは、太いこんぼうを
持ってかけつける。
 水野さんは、まるで、浅草の観音様の仁王様のような顔で、帳面をつ
けていた。
(みつかりませんように)
 ひろ子は、体を低くして、通り過ぎようとした。
「おや、どこへ、いくんだい?」
 頭の上から、水野さんの太い声が、ふってきた。
 ひろ子は、あわてて、胸の前で、手をあわせた。二重まぶたのくっき
りとした目で、じっと、水野さんをみつめた。
「どうしても、いかなきゃなんないの。おかあちゃんには、ないしょ」
 水野さんはぐるっとまわって、帳場からでてきてた。ひろ子のおかっ
ぱ頭に、大きな手をのせると、腰をかがめて、ひろ子の目をのぞきこん
だ。
「ひろ子ちゃんは、べっぴんだから、人さらいに、一番にさらわれるぞ。
でも、だいじな約束でもあるのかい。はやく、帰ってくるんだぜ。へん
な、人には、ぜったいについていくんじゃないよ」
「わかった」
 ひろ子は、言葉をまだいいおえるまえに通りに、とびだした。
 榊屋の横丁をまがると、細野理髪店の路地にかけこんだ。ひろ子は、
ほっとした。

   (二)

   窓にかかった黒い幕のすきまから、だいだい色の光りが、かすかに、
路地にこぼれおちている。その光りをさけたくらがりに、子どもが四人、
頭をくっつけるように、まるくなって、しゃがみこんでいた。
「おお、さむい!」
    ひろ子は、プルプルッと、うすい肩をふるわせて、そのなかに、わり
こんだ。紺がすりのもんぺに、母親のマキが編んだ赤い毛糸のセーター
を着ている。
 なかで、一番としかさのヨシオが、ほっとしたように、まるい目玉を
なごませた。がっちりとした体は、六年生とはおもえないほど、しっか
りしている。
「これで、全員そろったな。どうだい、みんな、ガマグチ、もってきた
ろうな?」
  「ほら、みて!」
   まっさきにいったのは、ツネヨだった。こがらなからだつきで、ひろ
子より一つ年上の三年生。母親に一年前に死なれて弟と父親の三人暮ら
し。けれど、洋服の仕立て屋の子どもらしく、もんぺの上に着ているハ
ーフコートも、きちんとしている。
「どれっ!」
 ヨシオは、ツネヨの手から、黒っぽい布のガマグチをとった。中腰で
たちあがると、ヨシオは、窓からもれてくるあかりのすみに、ガマグチ
をかざした。
 大ぶりのガマグチで、口がねもしっかりしている。
 満足そうにうなずいたヨシオに、さよが、小さな赤いガマグチを、そ
っと、さしだした。
さよの父親は、目が見えない。でも、母親がついて、もみ療治を頼まれ
たさきをまわって、さよをかしらに、五人の子どもを育てている。
 さよは、こがらな母親ににて、やせて背が小さい。でも、すばしっこ
いところも母親にそっくりで、オハジキ、オテダマ、ナワトビ、勝負を
かける遊びで、ほとんど、ともだちに負けることはない。
 さよのガマグチを、ひっくりかえしてよくみていたヨシオが、口がね
をパチパチやりながら、さよに、ガマグチをつきかえした。
「不合格! 口がねが、バカになっちゃってんじゃないか」
「だって、あたいんち、これっきゃ、ないもん」
 さよが、鼻にかかった声でいいながら、じっと、ヨシオをみつめる。
その目はちょっとうるんで、十歳の子どもらしくないしぐさだ。
 ツネヨが、ひろ子の耳のそばで、ささやいた。
「いやだね、子どものくせに、色目なんて使っちゃって」
 ツネヨのいいかたも、まるで、おとなみたいなくちぶりだ。きっと、
母親が近所のうわさ話しをするときのまねをしているのだろう。
「うん」
 ひろ子は、こくっとうなずいた。ひろ子もヨシオにあんな声で話しか
けてみたい。でも、男まさりの母親に育てられた自分には、お手本がな
くて、声のだしようがわからない。
「チェッ! しょうがねえなあ。じゃあ、さよちゃん、口がねんとこ、
ぎゅうっとつかんで、かけだすんだぞ」
 ヨシオが、ガマグチをさよにかえすと、「よかった。だから、すき」
 さよは、じょうだんぽくにこっと笑って、ガマグチをだきしめた。
 じっとみつめるさよから、ヨシオは、ついと目そらした。ヨシオは、
ひろ子をゆびさした。
「おい、おまいのはどうだ?」
 ヨシオは、このあいだから、声がしゃがれている。声がわりのせいだ
が、きゅうに大人びたようにみえる。
 ひろ子は、返事ができずに、上目使いに、ヨシオの目をみかえした。
「気持わるいなあ。なに、見てんだよう。早く、ガマグチ、だせよ」
「あたい、ないの・・・」
 ひろ子は、やっといった。母親のマキにさいふを貸してくれるように
と頼んだけれど、わけをいいなとせめられて、だまって、店からとびだ
してきてしまった。
 ひろ子の父親の長蔵は、静岡の出身だった。製茶工場を営んでいる長
兄が生産した茶を取り寄せて、卸売りと小売りの店をはっていたが、小
僧二人と親戚の若者一人、それに、子守りの女の子をおいて、このあた
りでは、かなり手びろく商売をしていた。
 ヨシオが、ぐいっと、にらんだ。
「なんだって、おまいのうちに、さいふがないって。あれだけのおもて
店をはってるってのに、よくいえるなあ。ああいいさ。そんなら、おま
いだけ、おいてけぼりだからな」
「いやよ。あたいも、つれていって!」
 ひろ子は、ヨシオの腕をつかんで、ゆさぶった。
「だから、二年ぼうずは、やなんだよ。ガマグチ持ってこないやつは、
つれてけないって、いったろ。おまいは、おあしを、どこへ入れるつも
りだい?」
「ここへ入れる」
 とっさに、ひろ子は、セーターについている二つのポケットに、手さ
きをつっこんだ。
 ヨシオは、あきれたように、顔をしかめた。
「いいポケットだけどさ、ふたがないじゃないか。かけだせば、おあし
が、こぼれちゃうぞ。あきらめな。つれてけないよ。おまいのことで、
みんなにめいわくがかかるからな。帰れ!」
「いやっ!」
 ひろ子は、強く首をふった。どうしても、みんなといっしょに、行き
たいとおもう。
「いいわよ。おいてけぼりにするんなら、あんたたちのこと、おかあちゃ
んに、いいつけちゃうから。イーダ!」
 一本ぬけている上の前歯をおもいきりつきだして、ひろ子は、くるり
と後ろを向いた。
「チェッ! まちなよ」
 ヨシオが、いまいましそうにしたうちをして、ひろ子の肩をぐいっと
つかんだ。
「しょうがねえなあ。チビのくせに、悪いことだけは、一人まえなんだ
から。しかたねえ。おいらのガマグチ、かしてやらあ」
「あらっ、じゃあ、ヨシオちゃんは、どうすんのよ?」
    さよが、ふまんそうに、ほっぺたをふくらませた。
「だいじょうぶだよ。みてくれよ。ほら、おいらのポケット」
 ヨシオが立ちあがって、黒い上着のすそを、ぴんとひっぱった。ふた
をボタンでとめる大きなポケットが二箇、ついている。
 さよも立ちあがって、ヨシオのポケットをしらべはじめた。
「これで、ほんとにだいじょうぶ? おあしがおっこちたら、チャリン
っていうのよ。みつかったら、ヨシオちゃんの責任よ」
「心配すんなよ。おれさまは、こう見えても、ネズミ小僧次郎吉さまの
子孫だ」
「へっ、ヨシオちゃんが、あの大泥棒の!」
 うたがわしそうに、さよがいう。
 ヨシオは、大きなさいふを、ひろ子にぐいっとおしつけると、低いけ
れど、力強い調子で、みんなに号令をかけた。
「じゃあ、いいか。でかけるぞ。おれが親分で、おまいたちは、子分だ。
おれのゆうことには、絶対服従だ。かなりあぶなっかしい仕事だから、
一致団結してかからないと、失敗するからな。やりそこなったら・・・」
「やりそこなったら、どうなんの?」
 さよが、すかさずきいた。
「手がうしろにまわってと。だめだ。えんぎでもねえ。きくな。さあ、
いくぞ」
 ヨシオは、すばやく路地からとびだすと、あたりをうかがった。寒い
から人どおりが少ない。
「ついてこい!」
 ヨシオが、手をあげた。

   (三)

 四人は、正徳国民学校や玉姫神社につづく横丁から明治通りにでた。
明治通りには、歩道がついている。左に曲がる。かどから、神だなにそ
なえる榊を売る榊屋、味噌屋、そのとなりが、ひろ子の家の、葉茶屋の
山家園だ。
 小僧のようどんには、このあいだ、招集令状がとどいた。ようどんに
は、ときどき、寝小便をする癖がある。兵隊になったら、きっと苦労す
ると、ひろ子の母親のまきは泣いていたが、もうすぐ、兵隊になるため
に福島県にある家に帰っていく。今夜は、まだ、店にいるはずだ。しん
どんも、さっき、お茶の配達から帰ってきたし。
 ヨシオとさよとツネヨが、ひろ子をかくすようにとりかこんで、山家
園の前をかけぬけた。
 ヨシオの家も、さよやツネヨの家も、裏通りにある。親達にみつかる
心配は、もうない。
 電車道のほうから、刀を持った男の子が、母親といっしょに歩いてく
る。刀は、木製だ。
キツネの面をかぶった女の子、桃太郎の面をかぶった男の子、まっ白い
ウサギの毛のえりまきに、すっぽりあごまでうずめた女の子。どの子も、
父親か母親らしい大人といっしょで、ぎょうぎよく、笑ったりしゃべっ
たりして、楽しそうにやってくる。
「ちぇっ、あまえてやんの! すかしてやんの! 非常時なのによ」
 すれちがいざま、ヨシオが、ぺっと、つばきをはきすてた。
 ヨシオの家の商売は、口入れ家業だ。求人がきたとき、人を集めて紹
介し、仲介料をもらうのだ。労働館と同じ仕事だが、ヨシオの父は松井
組という組を作り、そこの、親分になっていた。
 ヨシオは、両親のどちらとも、一緒に歩くことなどほとんどなかった。
 ねたましさが、胸のなかで、渦巻きをつくっていた。
 ひろ子は、そんなヨシオの両親については、まきからきいていた。
 父親は、ヨシオをいれて四人の男の子達に厳しく、抱いたこともない
ということだった。母親も、父親の目をきづかって、子どもたちには、
やさしいところはみせないという。
 四角いコンクリートを並べた歩道には、ところどころに、プラタナス
の街路樹が植わっている。葉っぱは枯れおちているが、どこかにかくれ
ていたのか、大きな枯れ葉が一枚、ひろ子を追いかけてきた。
 びくっとして振り向いたひろ子をおいて、枯れ葉は、ころがっていく。
 明治通りには、いろいろな店が並んでいる。下駄屋、菓子屋、八百屋、
乾物屋、質屋・・・。 ここからすぐの隅田川の川べりには、たくさん
の工場が、建ち並んでいる。そこで働く労働者たちやその家族が、かわ
べりの橋場からこの山谷にかけて住んでいるが、そうした、人びとの暮
らしを、表通りから横丁や路地のおくにまでならぶ小さな店がささえて
いる。
 店みせから流れ出る薄い明かりを、出たり入ったりしながら、先頭を
いくヨシオが、しゃがれた声をはりあげて、歌いだした。
「ナーンテ、カーンテ、トコロテン。トコロハ、サンヤノ、ヨンチョー
メ」
 浅草区山谷は、市電の泪橋の停留所から隅田川にかかる白鬚橋にむか
って、一丁目から四丁目まで田の字の形にならんでいる。ヨシオ、ツネ
ヨ、さよ、ひろ子、みんな、山谷で生まれた子どもたちだ。
「ナーンテ、カーンテ、トコロテン」
 全員が、声をあわせて、歌いだした。
 市電の通りにでると、向井パン屋の角から、電車道をむこうがわに渡
る。
 吉原につづく田中町商店街を、四人は、固まって歩きだした。
 歳末大売り出しの、赤や白ののぼりばたが、暗い空に、バタバタとは
ためいている。
 田中町商店街の店みせの電球にも、光りがそとにでないように、黒い
おおいがかけられている。商店街のなかは、このあいだまでのかがやき
をなくして、人の通りも少ない。
 ひろ子は、ときどき、母親に連れられて、このさきの吉原をぬけたと
ころにある、松山神社におまいりにくる。
 母親は、ひろ子に話したことがある。
「この吉原というところには、お女郎さんといって、男の人たちを遊ば
せるお姐さんたちが、住んでいるんだよ。家が貧乏で、親に売られた人
がほとんどだという。大正十二年、今から、二十年ぐらいまえ、お母ちゃ
んは、十二の年だったわ。関東大震災といわれるそれは大きな地震があ
ったの。ちょうど、おひるどきだったから、ごはんのしたくをしている
ころでしょ。炊事に使っていた火からも家事が起きて、このあたりは、
火の海。そのとき、ひどいことがおきたの。お金で買った女の人たちが、
逃げだしたら、もともこもないっていうんで、この大門に、そとから鍵
をかけちまったのよ。なかは、火の海。お女郎さんたちは、苦しまぎれ
に水をもとめて、この大門のなかにある、おはぐろどぶにとびこんでね。
でも、そこは、川じゃない。どぶだもの。どろにまみれて、たくさんの
お女郎さんが死んだのよ」
 水の少ないにごったどぶ川を、母親は、ひろ子に見せた。底が手にと
るようにみえた。
「死んだお女郎さんが、あんまりかわいそうだって、この松山神社にお
まつりしてね、供養しているのよ。震災のあくる年、おかあちゃんのお
っかさんは、スペイン風邪にかかってなくなってしまった。じつはねえ、
おっかさんは、品川のお女郎だったのよ。なくなってから、親戚の人が、
教えてくれたわ。小田原の亀井金兵衛という造り酒屋の娘だったけれど、
家がつぶれたとき、お女郎になったのよ。だからね、おかあちゃんは、
吉原のお女郎さんのことは、とても人ごとには思えなくて」
 母親のマキは、涙ぐんでいた。
 今夜は、そのお女郎たちを供養する、松山神社の祭りの晩だ。
 うすぐらい町のなかで、松山神社のあたりの空は、いくらかうす明る
い。戦時中でも、祭りの晩は、あかりについての統制を、少しは、大目
にみるのだろう。
 かねやたいこの音にまじって、いつもならにおってくるミカン焼きや、
焼きそばのソースのにおいは、流れてこない。配給制度ができて、どこ
の家庭でも、米、砂糖、小麦粉、食用あぶら、いろいろな食品が、きめ
られた量しか買えなくなった。祭りで売るものなど、ありはしない。
 ひろ子は、母親からきいたお女郎の話を思いだすと、足が、だんだん
重くなってきた。

   (四)

「どうしたんだ、さっさと、こいよ!」
 ふりかえって、ヨシオが、さけんだ。
 ひろ子は、かけよると、おもいきってきいた。
「ヨシオちゃん、お女郎さんのバチ、あたらないかしら?」
「えっ!」
 ヨシオが、きょとんとしたようにひろ子をみつめて、なあんだといっ
たようにかるく笑った。そして、力強くいった。
「だいじょうぶさ。おれを、信じろ」
 ヨシオは、松井組の親分の長男だ。
 親分は三十五歳、背が高く、肩幅もある。あさぐろい肌、眉のきりっ
としたいい顔立ちをしてはいるが、けんかっぱやいし、博打がすきで、
町の人からお金をまきあげるのが、平気な人だ。
 親分の評判は悪いが、ヨシオは、子どもたちのあいだで、人気者だ。
体格や顔だちは父親ににて男らしいが、性格は、ぜんぜん違う。けんか
には強くても、弱いものには、やさしかった。
「チキショウ。おもしろそうだな」
 松山神社の境内は、人でいっぱいだ。その人ごみをかきわけて、ヨシ
オが、おもちゃを売っている屋台にちかづこうとした。
 さよが、あわてて、ヨシオの腕にぶらさがった。
「だめよ、親分。こんやは、大きな仕事があるでしょ」
「おっと、いけねえ」
 ヨシオが、ひょいと、首をすくめた。
 本殿が、ちかづいてきた。本殿の両側には、えんりょがちではあるが、
パチパチと音をたてて、かがり火がたかれている。
   今夜は、敵機が侵入してくるようすはないのだろう。祭りだから、ほ
んの短時間の許可がおりたにちがいない。こまかな火の粉が、暗闇を突
き刺すように、はじけとぶ。
 たくさんの人びとが、おさいせんを投げている。さいせん箱にとどか
ないで、ばらばらと、地面に落ちていくおさいせんもある。
 ひろ子は、大人たちにもみくちゃにされて、ふみつぶされそうだ。
「がんばれ、おれについてこい!」
 すぐそばで、ヨシオの声がして、手がぐいっとひっぱられた。
 ひろ子は、ヨシオにからだをすりつけて、むちゅうで、人びとの一番
前にとびだした。 さよもツネヨも、そばにいる。
 おさいせんが、ばらばらと、ふるようにとんでくる。
 さいせん箱にとどかずに、まわりにとびちるものもたくさんある。
「かかれ!」
 ヨシオが、ひろ子の耳もとでささやいた。
 さよもツネヨも、うなずく。
 ひろ子は、むちゅうで、しゃがんだ。おさいせんをひろって、ガマグ
チに入れる。おさいせんは、ひろ子の頭にあたったり、せなかではねか
えったりしている。
 くらがりのなかで、ヨシオもさよもツネヨも、からだをかがめて、お
さいせんをひろっては、ガマグチに入れていく。
 ひろ子のガマグチは、はちきれそうにふくらんでいる。
「やめろ、神主だ!」
 そのとき、ヨシオが、ひろ子にささやいた。さよのそばにも、かけよ
っていく。
 白い着物にはかま姿の男の人が、社殿のはしに立って、あちらこちら
に、目を走らせている。こっちも、見ている。
「さあ、早くっ!」
 ヨシオに腕をひっぱられて、ひろ子はかけだした。
 いつのまにか、とりいをくぐりぬけていた。
暗がりにくると、ヨシオは、立ちどまった。さよもツネヨも、「はあ、
はあ」とあらい息をしている。
 だれのガマグチにも、おさいせんが、ぎっしりつまっている。ヨシオ
のポケットからも、こぼれそうだ。
「じゃあ、さっきいったように、みんなのおさいせんを集めて、やまわ
けして、買い物だ。いいな?」
 さよもツネヨもひろ子も、大きくうなずいた。
 さっきまで、雲がひろがっていた空が、月あかりであかるくなってい
る。
 四人は、あき地に入ると、ヨシオがぬいだうわぎの上に、そっと、ガ
マグチのなかみをあけはじめた。
 ひろ子は、胸がわくわくした。まえから欲しかったおもちゃを買おう。
 人形用のカガミのついたタンス。もう、目をつけてある。 食べ物は、
売っていなくても、ニッキや海ほうずきや手品はある。
 うすくらがりのなかで、ヨシオが、おかねをかぞえはじめた。
 ひろ子の目は、かがやく。
「おもいがけない収穫だぞ!」
 ヨシオの声に、みんなは、はっとしたように、首をつきだした。
 さっきまであった後悔が、ひろ子の胸のなかからきれいに消えていく。
「なんだって、買えるわね」
 さよが、ひろ子の肩をたたいた。

   (五)

 ヨシオが、おどるように、とびあがりながら歩く。手には、さやに入
った木づくりの短刀をにぎっている。
 さよはおてだま、つねよはあねさま人形、ひろ子は、鹿の子模様の和
紙をはった小引き出し。みんな、ひろったおさいせんで買ったものばか
り。
 ヨシオは、短刀のさやをはらって、高くかざした。
「親戚のおじさんは、本物をを持って戦争にいったんだ。おれも、中学
生になったら兵隊に志願するんだ。父ちゃんが、そのときは、きっと本
物をおれにくれる。おれは、敵の兵隊をぶっころして、飛行機や軍艦に
体当たりして、おまいたちを守ってやる。いいな」
 ツネヨとさよが、だまってうなずいた。
(ヨシオちゃんが、兵隊さんになる!)
 ひろ子は、胸がドキリとした。
 ひろ子には、年の離れた勇一といういとこがいたが、ガダルカナル島
で戦死した。
 勇一は、静岡の出身だが、東京の大学に通うために、ひろ子の家に下
宿していたころがあった。勇一は、やさしい兄さんで、よく遊んでくれ
た。
 勇一の戦死をきいたとき、ひろ子は、涙が流れてとまらなかった。
(ヨシオちゃんも、戦死するの?)
 ひろ子は、ヨシオのうしろ姿をいままでとは違った目でみつめながら、
歩いた。
「おい、みろよ!」
 とつぜん、ヨシオが立ちどまった。
 ひろ子は、息をのんだ。
 道ばたに母親のまきが、立っていた。じっと、こっちをみている。ヨ
シオ、さよの母親もいっしょだ。
 ひろ子は、じりっと、あとずさりした。後悔が、いっきにこみあげて
くる。人形用のタンスを、あわてて、うしろ手にかくした。
 さよもヨシオもツネヨも、ひろ子につづいた。
 ひろ子の母親が、近づいてきた。
「神さまのおあしを泥棒して、買いものしたのね。おかあちゃんは、お
まえを、そんななさけない子に育てたかと思うと、はずかしい! 買った
ものをだしなさい」
 母親の声は静かだけれど、目には涙がわいている。
 ひろ子は、タンスをそっとさしだした。
「ぺたっ!」
と、大きな音がした。
 ひろ子が首をすくめてふりむくと、ヨシオが、ほっぺたをおさえて立
っている。泣くまいと、歯をくいしばっている。
「泥棒のなかでも、えりにえって、おさいせんをぬすむなんて、このろ
くでなし!」
 ヨシオの母親が、かん高い声でどなった。高くゆいあげたかみが、え
りあしのあたりで、乱れおちている。
「うちの商売は仕事師だ。使っている者たちが、足場を組んで、高いと
ころへものぼる。神さまのバチがあたって、その連中にもしものことが
あってみな。戦地で、たたかっている者も、いるんだよ」
 ヨシオのほほが、また、ピシャリと音をたてた。
 ヨシオの母親は、ひろ子やさよの母親に頭をさげた。
「ごめんなさいね。年かさのこの子がばかなことを考えついたばかりに、
みんなをまきぞえにしちまって。今日のことは、どうぞないみつに。ま
んいち、うちの人の耳に入ろうものなら、ヨシオは、半殺しの目にあわ
されるから。あたしが、ぬすんだおさいせんをみつくろって、神主さん
にお返ししてきますよ」
「おいら、ぬすんだんじゃないやい。ひろったんだ」
 ヨシオが、わめいた。
「そうよ。あたいたち、ひろったのよ!」
 ひろ子も、むちゅうになって叫んだ。そうすることで、ヨシオが、す
くえるかとおもった。
 さよとツネヨは、だまってうつむいたきりだ。
 ふいに、母親のまきの手がのびて、ひろ子のほっぺたが、ぎりっと、
つねられた。
「痛い!」
 目をむいて、ひろ子は、母親をにらみつけた。
 ヨシオの母親が、あわてて、ひろ子の母親の手をおさえた。
「女の子は、顔に傷がついたら大変。もう、しからないで。今日のとこ
ろは、許してやりましょう。うちの人は、子どもにはきびしくて。子ど
もは、まっとうな人間に育てなきゃっていうのが、口ぐせなの」
 ヨシオの父親が子どもに厳しいのは、近所で評判だ。子分を使って、
ゆすりまがいのことを、自分はやっていながら、ヨシオを頭に五人の男
の子には、自分の二の舞いはふませたくないという。
「じゃあ、あとは、あたしにまかせてね」
 ヨシオの手をひっぱって、母親はどんどん歩きだした。
   空には、星がたくさんかがやいている。
 ひろ子は、泣きじゃくりながらみあげた。

   (六)

 その日から、いくにちもたった。
 正月が近い。学校ももう休み。
 店をしめてから、母親が、ひろ子を呼んだ。正月用の晴れ着をひろ子
の背中にあてて、あげをのばしはじめた。
 たもとの長い着物をきることは、衣生活簡素化という法令がきまり、
禁止されている。でも、母親のまきは、せめて、家のなかでだけでも、
お正月をあじあわせてやりたいとおもうのだ。
「二寸近く(六センチ)背がのびたね。おとうちゃんににて、ひろ子は、
きっと、背がたかくなるわ」
 父親の長蔵は、今夜も、茶業組合の寄りあいに出かけている。
 お茶も統制になり、一つの小売り店で売るお茶の量がきめられた。お
茶は粉にくだかれ、成形され、固形茶というものになって、戦地へ送ら
れるのだ。
 妹のさち子もかずえも、もう、眠ってしまった。
 電球のかさにかけた黒い布切れ。ぽっかりと円く畳に落ちた光のなか
で、母親のまきは、ちくちくと針を動かしながら、話しはじめた。
「このあいだ、用心棒の水野さんが出征したばかりなのに、松田組の親
分が、兵隊になるんだってね。子分たちも、ずいぶん、ちょうようや兵
隊にとられて、組の事務所、がらがら。親分の出征を機に、組、解散す
るらしいのよ。家族は、親分の田舎へ疎開するんですってさ。あんなや
くざもん、この町からいなくなりゃ、せいせいするけど、ふしぎなもん
だねえ。いぜんからいた人がいなくなっちまうってゆうのは、なんだか
さみしいもんね」
 ひろ子のうちでも、ひろ子と一年生のかずえは、静岡の長蔵の兄のと
ころへ、あずけられることになった。学校でも、二年生以上の生徒の疎
開の話もすすんでいる。町も学校も、さみしくなる。
 ひろ子の胸のなかを、いままで感じたことがないつめたい風が吹きぬ
けていく。
 水野さんがいなくなった労働館の帳場は、がらんとしている。このご
ろ、ずいぶん年をとったおじいさんがすわっているけれど、労働者どう
しのけんかは、あの人にはとめられないと、ひろ子はおもう。
「あした、松田組の親分の見送りにいくのよ。隣組でね。武運長久を祈
るために、玉姫神社までいくの。内心、ほっとする人もたくさんいるだ
ろね」
 部屋のすみに、日の丸の小旗が立てかけてある。あした、見送りのと
き、ふる旗だ。
「おかあちゃん、あたいに、旗もたせてね」
「あいよ。しっかり見送っておやり。生きて帰ってくるようにね」

 あくる日、ひろ子は、日の丸の小旗をもって、横丁をまがった。
 ヨシオの家のまえには、もう、大勢の人たちがつめかけていた。
 ヨシオが、ひろ子をみつけてかけよってきて、細川理髪店の路地にひ
っぱりこんだ。
「また、おさいせん、ひろいにいこうな。こんどこそ、おいら、大人に
ばれないようにうまくやるから」
「でも、山形にいっちゃうんでしょ」
 いいかけて、ひろ子は、息をのんだ。
 ヨシオの目に、みるみる涙があふれた。
(ヨシオちゃん、ここに、ずっといたいんだ)
   ひろ子は、体が、ゆさぶられたような気がした。
 ヨシオが、学童服の袖ぐちで、ぐいっと涙をぬぐった。
「ヨシオちゃん、戦争、勝つとおもう!」
 ひろ子は、不安な気持をヨシオにむけた。ヨシオなら、ほんとうのこ
とを、話してくれるような気がした。
「勝つさ。おれも、来年は、中学生だ。敵から、おまえを守ってやるぞ」
「ほんとね」
 ひろ子は、小指をだした。
 ヨシオの大きな小指が、力強く、ひろ子の小指をからめた。
 ヨシオは、きっと、自分を守ってくれる。
ひろ子は、顔が、ぽっと熱くなるのを感じた。
「父ちゃんの、みおくりだ」
 ヨシオが、かけだした。
 ひろ子は、二本の日の丸の小旗をぎゅっとにぎりしめて、ヨシオのあ
とをおいかけた。

   (七)エピローグ

   その日から、一年と三か月がすぎた昭和二十年三月九日の夜、山谷を
ふくむ東京の下町一帯は、アメリカ空軍のB29大型爆撃機300機によ
る無差別爆撃を受けた。十日の明けがたまでに、病院も民家もすべての
ものが、攻撃された。
 二時間二十二分続いた空爆で、死んだ人は十万人、けがをした人は四
万人、焼け出された人は百一万人、焼けた家は、二十七万戸となった。
 ひろ子の両親と妹のさちこは、生き延びて静岡へにげてきた。しかし、
山谷町内では、細川理髪店をふくめて一家全滅の家がいくけんもあり、
たくさんの人びとが、死んだ。
   東京大空襲からまもない八月六日には広島に、九日には長崎に、人類
初めてという、原子爆弾が投下されて、十九万四千人の人びとが死んだ。
 八月十五日、日本は、戦争に負けた。
 ひろ子の両親は、ついに、山谷へ帰ることはなかった。長屋に住んで
いた者にとって、焼け落ちた町にもどることは困難なことだった。
 ヨシオは、父親のふるさとの山形から、母親のふるさとの千葉県の海
辺の村に引っ越した。
 東京空襲をおえた敵機が、海にでるまえに、重たい爆弾を落とした。
ヨシオは、それにあたって、死んだ。
 山谷は、いま、清川町という住居表示となっている。地図のなかに、
名前をみつけることは、もう、できない。
 山谷は、ひろ子たち、そこで暮らした人の心のなかにだけ生きつづけ
ている。
  目次へ戻る