また遅れましたが、新しくひとつ加えます(2009年10月)。「子ども世界3」児童文化の会(2000年)に載せた作品です(児童文化の会年度賞受賞)。

やさしいマスター

 

   (一)

 コーヒーショップ <スイート>は、お客が二十人も入れば、たち
まちいっぱいになってしまうような、小さな店でした。
     店のおくには、そこだけきりはなされたような小部屋があります。
マスターが、この店をかりたとき、ついていた物置を改造して、そこ
にもお客が入れるようにしたのです。
小部屋には、テーブルが一こ、イスが二こ。かべのらんぷ型の照明器
具からは、やさしいうす青い光りが、流れています。
 小部屋は、ないしょ話をしたり、一人で考えごとをしたり、
そんなことには、うってつけの場所でした。
 お客はこの小部屋が気にいって、たいがい、あいていることはあり
ません。
(まるで、いなかのコヤスガ池にもぐったみたいだ。あの部屋にいる
と、心のなかがしーんとして、いままでこんがらがっていたことが、
するするとほどけていくんだもんな)
 <スイート>のウエイターのケンは、つくづく、そう思います。
 マスターも、ここがお気に入りです。店をしめたあとで、ケンと二
人、いつもこの小部屋にはいってひとやすみします。あまりもののケ
ーキやゼリーをたべながら、いれたてのコーヒーをのむのですが、青
い光に包まれていると、お客とのあいだにあったいやなことも、マス
ターはすーっと忘れてしまうといいます。
 それは、ケンもまったく同じでした。
 <スイート>の開店は、午前十一時。あいだに昼休み時間をいれて、
夜は、十時まで営業します。
 ケンは、たった一人の従業員です。
 三カ月ほどまえの三月、ケンは、北関東の町の中学校を卒業しまし
た。ケンは、職業安定所から紹介されて、この店にやってきたのです。
色の白いほおは、うす赤い色紙をはりつけたように、いきいきとかが
やいています。ぱっちりとした目、まるい鼻、金色にそめたかみの毛、
ほっそりとしたケンは、まるで、外国の少年のようです。
 店をあける準備をしているとき、マスターが、ケンにききました。
「ねえ、今日も、あの客、くるかね?」
 マスターは、二十九才。すらりとのびた体。白いシャツ、しろじに
赤い水玉のチョウネクタイをしています。
 床を洗いおわったケンは、顔をあげました。
「そうですねえ、わたしはくると思いますが。今日くれば、三週間れ
んぞくですよ」
「あんなに若いのに、あんなにカネ持ってて。あの二人、いったいな
にもんだろうね?」
「そうですねえ・・・・・」
 ケンは、首をひねりました。その若い二人づれの客に、はじめてコ
ーヒーをはこんでいったときのことを、ケンは思いました。
 <小部屋>に入ろうとしたとき、ケンは立ちすくみました。
 二人は、少ししわのよったお札を、一枚一枚、ていねいにのばして
いるのです。一万円札ばかりです。
 ケンに気づくと、二人の客は、あわてたように、お札をバッグにつ
めこんでしまいました。

   (二)

 あくる日もあくる日も、若い二人づれの客は、やってきました。か
ならず、二人は小部屋にはいり、せっせとお札のかんじょうをはじめ
るのです。ちょうど、客足がきれる時間帯で、小部屋は、いつもあい
ていました。いくにちかたつと、二人づれの客は、小部屋を予約する
ようになりました。
「なあ、ケンさんよ、ところで、あの二人が持っている、でかい風呂
敷包みのなかは、いったい、なんだろうね?」
 マスターが、また、声をかけてきました。
 ケンは、きのう、結び目のところから、ちらりと見ました。銀色に
光ったステンレスでした。ケンは、形からおよその見当をつけていま
した。
「わたしのカンですが、あれは、噴霧器です。わたしのオヤジさんが、
たんぼや畑の消毒に、いつも使っていたものと同じだと思います」
「消毒用の噴霧器ねー」
 マスターが、だまりこみました。
 ケンの家は、農家です。先祖からうけついだ農地を、両親が守って
います。ここに残って農作業を手伝えと、父親はいいました。でも、
ケンは、都会で暮らしてみたかったのです。
 ケンは、大きなタンクをしょって働いている、父や母の姿を、目に
うかべました。
「マスター、あれは、口きりいっぱい消毒液を入れると重いんですよ」
「だけど、おかしいぜ。たんぼも畑もないこんな都会のどまんなかで、
なんで、そんなもの、ひつようなのさ?」
「それも、そうですねえ・・・・・」
 ケンは、そういいながら、店のドアにちかづきました。
 もう、六時。夜の部の開店の時間です。柱についたスイッチをおす
と、そとにたてかけた看板にあかりがつきます。ドアをてまえにひい
て、ケンは、ガラガラといきおいよくシャッターをあげました。
 目のまえに、あの二人づれが立っていました。今夜は、いつもより
はやめの時間です。
「こ、こんばんは。いらっしゃいませ!」
 ケンは、すこし、言葉をつまらせてしまいました。
 いつもと同じように、二人とも、白いジャンパーにスニーカー。な
にか、スポーツでもはじめそうに、かろやかなかっこうをしています。
やっぱり、一人が、あの大きな風呂敷包みをさげています。
「きょうは、だいぶ涼しくて助かったよ」
 包みをさげている丸顔の若者が、ケンににっこりと笑いかけました。
「そうですね。暑いと客足も遠のくって、マスターがいいます。うち
も、助かりました」
 二人は、まっすぐ、小部屋に入っていきます。
(やっぱり、きたね)といいたそうに、マスターが、ケンにめくばせ
します。
 ケンは、かるくうなずきながら、水の入ったコップを、小部屋には
こびました。
 二人は、のどをならして水を飲みおえると、細長い顔の若者が、
「いつもの、ツーね」
と、ケンに向かって、指を、二本立てました。
 マスターは、少し渋い味のする深炒りのイタリヤ産のコーヒー豆を、
手回しのミルでていねいに挽きました。いいかおりが、店のなかに、
ひろがります。ガスのうえで、ポットが、シュンシュンと音をたてて
います。
 いれたコーヒーに、ぽってりと泡だてた生クリームをのせます。
 ケンが小部屋にコーヒーをはこんでいくと、二人は、せっせと、一
万円札をかぞえていました。
 ケンの目は、お札に吸い寄せられていきます。自分の心臓の鼓動が、
人にも聞こえそうに、音をたてて伝わってきます。
(二十枚かな、いや、もっとありそうだ。これをかっさらって逃げだ
せば、おやじさんに、お金を送ってやれる。おふくろさん、きっと、
喜ぶ。この店じゃなくたって、東京でなら、働くところ、いくらでも
あるさ)
 受け皿のうえで、コーヒーカップが、カチカチと音をたてます。
「おい、きみ、どうした? ふるえてるぜ・・・・・」
 細長い顔の若者が、ふしぎそうにケンをみあげました。
 ケンは、はっとしました。
「あっ、すいません!」
 ケンは、あわてて、コーヒーをテーブルにおきました。ほっとした、
そのときでした。
 丸顔の若者が、ケンの手になにかをにぎらせました。
(なんだろう?)
 ケンは、そっと、手をひらきました。 一万円札が三枚。
「これは!」
 ケンは、目をまるくしました。
「チップだよ。とっときなよ」
 丸顔の若者が、ささやくような低い声でいいました。
 細長い顔の若者が、厨房のほうをみながら、さしだしたケンの手を
おしさげました。
「マスターには、いうことないぜ。きみにあげるんだから。おれたち、
じつは、今日でこの仕事やめるんだ。もう、二度とこの町へはこない。
だから、だまってりゃあ、わかりゃあしないさ。ばれっこないよ」
 丸顔の若者が、そうだよとつぶやくようにいって、うなずいていま
す。
   チップをもらうなんて、 はじめてのことです。
「すきなものを買えばいいのさ。ただ、ぼくたち、きみに一つだけお
ねがいがある」
 細長い顔の若者が、また、ちらりと厨房のほうを見ました。
 マスターは、有線放送から流れてくる静かな調子のシャンソンに、
じっと、ききいっています。
 若者は、言葉をつづけました。
「ぼくたち、この店で、最後の仕事をしようとおもうんだ。きみに手
伝ってほしい。か んたんなことさ。マスターが迷っているときに、
マスター、たのみましょうよと、ひとこといってもらいたいんだ。た
だそれだけさ」
 若者は、一万円札をのせたケンの手のひらを、自分の手で静かにに
ぎりました。
「いいね、たのんだよ」
 丸顔の若者が、念をおしながらたちあがりました。

   (三)

 ケンの頭のなかに、かすかな不安がただよいました。それは、うす
いタバコの煙のように、消えるともなく胸のなかにひろがっていきま
す。
 いま、ケンの手のなかには、まちがいなく三万円のお金があります。
このお金を家に送ってやったときの、母親の喜ぶ顔が目に浮かびます。
 胸のなかの煙を、ケンは、ふうっとふきけしました。簡単な言葉を
ひとこというだけなら、マスターを、べつに、傷つけるわけじゃない
だろう。ケンは、三万円をズボンのポケットのおく深くつっこむと、
マスターのそばへもどって、つみあげてあるガラスの灰皿を、ひとつ
ひとつ、ていねいにふきはじめました。
 今日は、お客は、まだ二人だけです。
 一万円札の入ったズボンのポケットが、びーんと、熱くかんじられ
ます。
(たったひとことで、三万円かあ。わるくないなあ。やっぱり東京だ!)
 ケンのほおが、おもわず、ゆるんできます。
 そのときでした。ふいに、叫び声がしました。
「あぶら虫だ!」
「うわあ、きみがわるいぜ!」
 声は、小部屋からです。
 ケンは、あわてて、厨房からとびだしました。
 マスターは、大きなぬれぞうきんをつかみました。飲食関係の店で
は、お客にあぶら虫をみつけられて注意されるのは、命がちぢむほど
はずかしいことです。ほかの客のてまえもあるし、できるだけさけた
い問題でした。
 マスターは、顔の色を青くして小部屋にとびこみました。
 二人づれは、いすから立ちあがって、ランプ型の照明器具を指さし
ています。
 あぶら虫は、水色に光るホヤのまうえにいました。
 こんな大きなあぶら虫は、ケンもマスターも、はじめてみました。
 体の大きさは、七、八センチ、ありそうです。黒い目玉を、まるで
ガラスのように光らせて、長い流線型のひげを、ゆさゆさとゆすって
います。こげ茶色のからだには、てらてらとしたつやがあります。
「ここにも、いるぞ!」
「ここにもだ!」
 いすの上、かべのくぼみ。二人づれの指のさきで、同じような大き
なあぶら虫が、長いひげを、まるで、なにか獲物を狙ってでもいるよ
うに、ゆっくりと動かしています。
「こいつ!」
 マスターは、すばやく靴をぬぐと、いすの上にとびあがって、らん
ぷにむかって、ぞうきんをふりかざしました。
「ちょっと、まって!」
 丸顔の若者が、さけびました。
「どうして!」
 マスターは、おどろいて、手をとめました。
「これは、人間にかみつきます。この種類は、南方からの果物にくっ
ついて、日本にしのびこんだやつです。学名は、キョン。かみつかれ
たところは、化膿して、まれには、毒が全身にまわって、とても面倒
なことにもなります」
 マスターが、おじけづいたように、そろそろといすからおりました。
 細長い顔の若者が、ひかえめな調子できりだしました。
「ぼくたち、じつは、大学の害虫研究室で助手をやっています。キョ
ンの日本上陸は、まだ、公表されていません。とにかく、薬に強い耐
性をもっています。一度、こいつらに住みつかれてしまうと、根だや
しにすることは、ほとんど、不可能です」
「どうしたら、いいんですか?」
 マスターは、体をのりだしました。いままで、あぶら虫のことでは、
どれだけ苦労してきたかわかりません。お客に、あぶら虫と叫ばれた
夢で、うなされることもあります。マスターは、結婚していますが、
自分と同じ苦労をさせたくなくて、妻には、店を手伝わせることはあ
りません。
「ぼくたち、いい薬を持っています。じつは、キョンがこの町のあち
こちで活動をはじめていて、研究室にひそかに情報がはいってきます。
いま、実験的にこの薬を使って、困っている人を救っているのです。
たしかに、ききめがあります。厚生省で認可されれば、薬局でも販売
されますが、試験をくりかえしてからの話で、ずいぶん、さきのこと
です。もしよかったら、キョン、たいじしてあげますよ。これは、な
いしょの話ですが、この商店街では、レストラン花、車ずし。きょう、
いってきました」
「そうですか」
 マスターは、大きくうなずきました。あぶら虫の問題は、この商店
街のどこの店も、困っているはずです。でも、商店の主人たちは、う
ちにはいないといったふりをして、かくしています。マスターも、お
なじでした。
 あぶら虫は、マスターを笑っているように、ゆうゆうとひげを動か
して、こちらを見ています。
「お金が、かかるんでしょ?」
 マスターは、ききました。国民年金、国民健康保険、住民税、火災
保険、このところ、いろいろな支払い日が、たてつづけにやってきま
す。
「五万円です。この薬は、これまで、研究費がばくだいもなくかかっ
ていますからね。これでも、やすいくらいですよ」
 マスターは、だまりこんでしまいました。
 ケンも、おどろいて、マスターと顔をみあわせました。いっぱい
三百五十円のコーヒーを、いったいいくはい売ったらいいのでしょう。
こんな小さな店では、ケンの月給をはらうことさえ、たいへんにちが
いないのです。このごろ、ケンには、それがわかってきました。
 丸顔の若者が、マスターをせかせるようにいいました。
「お客にかみつきでもしてからでは、おそすぎますよ。いまは、慰謝
料だといったって、はんぱな金額じゃないでしょう。ねえ、きみだっ
て、お客とのトラブルはさけたいよね」
 ふいに、丸顔の若者にみつめられて、ケンははっとしました。若者
が、マスターにわからないように、片目をつぶってあいずを送ってき
ます。
 ケンのズボンのポケットが、熱くなりました。
(いまだ!)
 三万円が、叫んでいるようです。
(ひとことで、三万円だ!)
 ケンの耳のそばで、だれかがささやきました。
 おもいきって、ケンは、マスターをみつめました。
「ねえ、マスター、たのみましょうよ!」
 マスターが、ふっと、明るい目をしました。
「そう、ケンさんも、そうおもう? じゃあ、おもいきってやっても
らおうか」
 丸顔の若者が、よくやったというように、ケンにむかって大きくう
なずきました。

   (四)

 シャッターがおろされた店のすみに、マスターとケンは、こしかけ
ていました。
 二人の若者は、風呂敷づつみを、ひらきました。
「やっぱりですね」
 ケンは、マスターにささやきました。
 なかからは、ぴかぴか光ったステンレス製の噴霧器が、でてきまし
た。
「ケンさん、あたったね」
 マスターが、うなずきました。
 細長い顔の若者が、小さなビンから、とうめいな水のような液を噴
霧器にいれて、水でうすめました。それから、いちばん上についてい
るとってを両手でにぎると、自転車のチューブに空気をいれるように、
ストン、ストンと音をたてて、上下に、おしたりひいたりしはじめま
した。
 噴霧器からは、ノズルのついたオレンジ色のホースが、のびていま
す。
「もう、いいだろう」
 丸顔の若者が、ノズルを天井に向け、さきについた栓をひねりまし
た。
 シューシューと音をたてて、ノズルから、こまかな霧が吹きだしま
した。
「ほら、薬がではじめましたよ」
 丸顔の若者が、いいました。
「ほー!」
 マスターは、感心したように、深くうなずいています。
 でも、農村育ちのケンにとっては、珍しいことではありません。そ
れよりも、さっきから、二人の服装が気になっていました。
 ケンの両親が田や畑の消毒をするときには、頭には帽子をかぶり、
目にはゴーグル、顔は、ほとんど見えないようにタオルですっかりか
くしています。
 ところが、二人の若者ときたら、ゴム手袋さえはめていません。
 丸顔の若者が、ケンの気持をくみとったように、にっこり笑いかけ
ました。
「これは、無色、無味、無臭、人畜無害、というすばらしい薬なんで
す。だから、食器もなにもだしたままで、こうやって、使用できるん
ですよ」
「ほー」
 また、マスターが、うなずいています。
(ほんとに、そんな薬が、あるんだろうか・・・・・)
 ケンの胸に湧いた疑問は、若者達が説明すればするほど、大きくな
っていきます。
 丸顔の若者が、シューシューと霧をふきだしているノズルを、壁や
柱のわずかなすきまをみつけて、さしこんでいきます。クーラーの裏
側、ガスレンジのおく、てばやく、仕事をしていきます。
「さ、おわりましたよ!」
 二人は、あっというまに噴霧器を風呂敷で包むと、マスターから、
五万円を受け取って、さっさと帰っていきました。

   (五)

 あくる日のことでした。
 ケンは、いつもよりはやめに店にでました。
 おもいがけなく、マスターもでてきていました。マスターは、鼻歌
まじりで、買ってきたばかりのフルーツを冷蔵庫にいれています。五
万円という大金を使ってしまったけれど、キョンをおいはらった安心
感で、気持がかるがるとしているのでしょう。
「やっぱり、ケンさんのいうとおりにして、よかった。あのとき、ケ
ンさんがひとこといってくれなかったら、おれ、やめてたかもしれな
い。いい値だもの」
「そうですか」
 ケンは、軽くうなずきました。
 なんとなく、店のなかが、さっぱりしたようにおもいます。ケンの
心のなかに、さっきまであった軽い疑問が、すうっと消えていきます。
(そうだ、これでいいんだ。マスターが喜んでる。三万円は、やすい
ものさ。おれは、小さいときから、心配性だって、母さんにいわれて
いたんだ)
 ケンは、ふっと気を楽にすると、モップをにぎって、床をせっせと
洗いはじめました。
 小部屋にはいって、ケンがテーブルをふこうとしたときでした。
 椅子の背もたれと座面のあいだに、はさまれるように、黒い袋があ
るのをみつけました。
(なんだろう・・・・・)
 あれから、この小部屋には、なんにんかのお客が入りました。ケン
は、布せいの袋の口をあけました。ケンは、心臓が、止まりそうにな
りました。
 キョンが、いくひきもはいっているのです。おそるおそる、ケンは、
じっとみつめました。キョンは、ひとつも動きません。
 ケンは、テーブルのうえで、袋をさかさまにしました。キョンが五
匹、ころんところがりでてきました。
 やわらかなゴムのようなものでできた虫です。
(おもちゃだ! 詐欺!)
 ケンの頭のなかで、白い光が、破裂したような気がしました。ケン
は、中学時代、同じような作りのヘビやトカゲを使って、女の子をか
らかったことがあります。
 あんな若者の悪事の片棒をかついで、人のいいマスターに、大損を
させてしまったのです。
(どうしたらいいんだ・・・・・)
 詐欺師にひっかかったとしったら、マスターは、どんなに、気をお
とすかしれません。それも、ケンが、一枚かんでいるとなったら。
 マスターの鼻歌が、ますます、調子をあげてきます。
「ねえ、ケンさん、コーヒー、うまくはいったんだ。一服、しなよ」
 きょうも、小部屋は、やさしい青い光でみたされています。マスター
は、目をほそめて、コーヒーをすすっています。
 有線放送からは、フランスの女性歌手の低いトーンの歌声が、流れ
ています。
「シャンソンは、いいねえ。人生をかたっているもの。おれ、フラン
ス語なんてしらないけど、わかるような気がするのさ」
「そうですね・・・・・」
 ケンはこたえながら、顔がこわばるのを、必死でおさえていました。
       

   (六)

 あくるひ、ケンは店にでると、さっさと掃除をはじめました。小部
屋のテーブルをふきおえると、大声でマスターを呼びました。
「たいへんですよ、お忘れ物ですよ!」
 ケンは、あの黒い布袋を、テーブルーの上におきました。
 手にとって、なかを見たマスターが、すっとんきょうな声をあげま
した。
「あれっ、大金じゃないか! 三万円だよ。手紙も入っているぜ。コ
ノオカネハ、マスターノオカネデス。オカエシシマス。キョンノクジョ
ハ、ウマクイキマシタガ、チャバネゴキブリノクジョガ、ウマクイッ
テナイカモシレマセン。オタクガサイゴデシタノデ、クスリガフソク
ギミデシタ。ああ、なんて、良心的なんだ。面とむかっちゃあいいに
くかったんだろな。学生アルバイトなんだから、一万円もかえしてく
れればよかったのに・・・・・」
 ボールペンのまるっこい字をみつめて、マスターは、目をうるませ
ています。
(よかった・・・・・)
 ケンは、肩から、すーっと力がぬけていくのを感じました。
「すいません、ぼくが、やりましょうなんていったばっかりに」
「いいんだよ。チャバネゴキブリはまあいいさ。もともといたんだか
らね。キョンさえいなくなれば。ケンさんのおかげさ。ほっとしたよ。
さあ、きょうも頑張ろう!」
 マスターの明るい声が、小さな店のなかにひろがります。
忘れていたのにきづいて、ケンは、小部屋のすみのいちりんざしの水
を、とりかえてやりました。白いばらが、ほっとしたようにみえまし
た。
 ケンは、いなかのコヤスガ池の白いハスの花を、おもいだしました。
 小部屋は、今日も、お客を待っています。
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