下町の娘10

下町の娘10

この作品は、1988年の暮から一年間を超えて、「新婦人しんぶん」に連載したものです。挿し絵は宮本能成さんです。ここには第50〜54回分(終章 再生)を載せます。(2009年11 月)
 半年かけて掲載してきました。このような掲載を来月からまたくり返してみます。3回くり返してみるつもりです。

終章 再生

   (一)

 市電を浅草雷門前でおりると、まきは仲見世通りに足を向けた。
 朱塗りの構えの店々からは、あかあかとした電気の光があふれ、店
内には、さまざまな土産物が並んでいた。
 寒中だというのに、着飾った人々が通りを埋め、不景気の暗い影な
ど、どこにも見当たらなかった。
 ほんの七、八年ほど前、まきは粂次郎とツネの間にはさまれて、こ
の道を歩いていた。まきの洋服姿は人々の目をひき、羨望をこめた視
線をいくつも感じながら、まきは得意になっていた。
 同じ道を、まきは粗末な木綿の筒袖を着て、つぎの当たったもんぺ
をはき、ひとりぼっちで歩いていた。
 すれ違う人々の目に、場違いなまきの様子は異様にうつった。
 まきの背中には、ひどい疲れがのしかかっていた。その重みは、い
まにも、まきを押しつぶしそうであった。あんなに頼りにし、夢中に
なって貯めたお金も、まきを救ってはくれないように思えた。お金は
魅力をなくし、色あせて見えていた。
(おとっつあん、おっかさん、どうしたら、この行きどまりの道をつ
き破ることができるの)
 乱れた髪が青白い頬や首筋にかかり、うつむきがちに歩くまきの足
もとは、いまにもなにかにつまずいて転びそうに頼りなかった。
 浅草寺本堂前の大きな香炉からは、夜目にも白く煙があがっていた。
参詣の人々は、その香をたく煙を手にからめ、体のあちらこちらをさ
すっている。
 まきはその煙を、自分の胸に塗りこめたいと思った。そうすれば、
深い淋しさや空しさから救われるかもしれなかった。
 香炉に近づこうとしたとき、ふと、どこかできいたような声が、ま
きの耳に入った。
 それは、仲見世通りから折れた横町の奥で、アセチレンガスのあか
りの下で、飴細工を売っている男の声だった。
 吸い寄せられるように近づいたとき、まきは、目をみはった。
(勘太、はるちゃん!)
 紺色の筒袖に同じ色の腹掛けをし、勘太は、すっかり飴屋になりき
っている。はるは、亀の子ばんてんで赤ん坊をおぶい、ぐるりと屋台
をとり囲んだ子どもや大人に、愛想よく話しかけている。
 すぐにも声を掛けたい気持で、まきの胸は熱く波打ちはじめた。
「うまいねえ、おじさん、たいしたもんだねえ」
 まきのすぐ隣りで、詰め襟姿の若い男が、勘太に向かって声をかけ
た。連れの同じような学生服の男も、
「ほんと、おじさんは町の芸術家だよ」
と、大声であいずちを打った。
 勘太は声のしたほうを見て、
「ありがとう。うちの飴は形ばかりじゃないよ。味もいいよ」
と、いって返す。その間も勘太は飴をこねている。手の中で飴は銀色
に光り、丸めた飴に空洞の細い棒を刺し、勘太は頬をふくらませて息
をふきこみながら、飴を兎の形にしあげていく。目には食紅をさし、
耳には、淡い色の紅を筆にふくませ、さっと刷く。
 できあがった兎を、はるがわらを棒状にまとめたものに刺し、勘太
が、また、飴をこね始めた。勘太の手の中から、新しい飴細工が生ま
れようとしている。体を調子をとってこきざみに動かし、すばやい手
つきで仕上げていく。
 思わずまきがみとれているとき、銀狐の襟巻きをした女が、五、六
歳ぐらいの男の子に、小腰をかがめてささやいた。
「ほら、きりん、きりんだよ」
「お首のながあい、きりんさんだね」
 紺色のオーバーに体を包んだ男の子は、丸い目を輝かせた。
 勘太の手の中の飴はなにやら生き物の形にはなってきたものの、一
向に首は長くならない。
「おかあさま、どうしたの?いつまでたっても、お首が短いよ」
「そうねえ、おかしいわねえ・・・・、あら、犬よ」
 女の声は、だんだん大きくなり、ふさふさとした銀色の毛の中から、
ほっそりした首をのばした。
 そのとき、勘太がうるさそうに二人を見た。
「静かにしてくださいよ。あんたがたが、勝手にきりんだきりんだっ
て騒いでいたんじゃないですか。俺は、はなから犬を作っていたんだ」
 勘太の額に、八の字が寄っている。
 女は勘太の見幕に目を丸くしていたが、急に真っ赤な顔になった。
「あら、そうでしたの。あたし、すっかり、きりんだと思いこんでし
まって」
 男の子の手をひいて女が人垣の外へ消えていくと、まきは、胸の底
から笑いがこみあげてきた。むきになって人にくってかかる様子は、
勘太がきかん気の子どもだった頃と少しも変わっていないように思え
た。
(勘太!)
 近づこうとしたまきは、ふいに強い力で横腹を押された。相手は隣
りにいた男だった。

   (二)

「痛いじゃないの!」
 よろけながら、まきは叫んだ。
 さっき、勘太に誉め言葉を投げかけていた詰め襟服姿の二人連れは、
まきの問いかけには答えようともせず、すばやく、飴屋の屋台に近づ
いた。
「あんた、逃げて!」
 はるの鋭い悲鳴が、夜気をふるわせた。
 闇にまぎれこもうとした勘太を、二人の男がひきずり戻し、さから
う勘太に撲りかかった。勘太の額に、血がにじんだ。
 まわりを遠巻きにした人々の視線は、驚きと恐怖をもって勘太に注
がれた。
「こいつは、アカだ。お国にたてつく、悪いやつだ」
 キラリと光る手錠を勘太の手首にかけようとしながら、男の一人が
叫んだ。
(警察の人だったんだわ・・・・・)
 まきの顔に、かあっと血がのぼった。
 あの二人が口にしていた誉め言葉は、勘太を油断させるための手口
だったのだ。
(許せないわ、やり方が汚いわ!)
 まきはそう思うと、足元が暗いのを幸い、用心深くしゃがみこんだ。
体がすっかり闇にかくれると、まきは身八つ口から両手を入れて、襦
袢をしめていたひもを手早くはずし、そろそろと、二人の足をめがけ
て近づいた。
 二人の足は絶えず動いていたが、ころあいをみはからって、二人の
右足と左足とにひもをからめ結んだ。まきは、すばやくぐいっとひく
と、叫んだ。
「勘太、逃げて!」
 二人の男が、からみあって倒れた。
「はるちゃん、あたいよ!」
 まきはすばやくささやくと、はるの手をとって駆けだした。

 浅草寺の境内を抜け出てからは、まきは、はるのあとについて走っ
た。
 暗い道ばかりを選んでいたが、はるはやがて市電の通り道へ出た。
 少し先に、”泪橋”と書かれた停車所のしるしが、だいだい色に闇
に浮かんでいた。
 はるは電車道の向こう側に渡り、大通りとの交差点に立つと、”向
井パン店”と大きく看板を掲げた店のところを右に折れた。
 この大通りは明治通りといい、隅田川にかかる白髭橋に通じている。
両側の歩道にそって、菓子屋、下駄屋、葉茶屋、味噌屋、さかき屋な
どと、さまざまな物を商う小さな店が並び、質屋や自動車の修理屋も
あり、少し横に入ったところには、アサヒキネマという活動劇場まで
あった。
 買い物や家路に急ぐ人々の間を、はるはまきの先にたって小走りに
通り抜けると、”労働館”と書かれた大きな看板のかかる青いトタン
張りの建物のところを曲がった。暗がりに入ると、はるは、走り出し
てから初めてまきに呼びかけた。
「もう、すぐよ」
「ほんと、よかった」
 まきは立ち止まって、はあっと、大きく息をついた。
 警察の人間に追いかけられることは、気丈なまきにとっても、胸が
つぶれるかと思うほど、恐ろしいことであった。口の中が乾いて、息
をするたび喉がヒーと鳴る。
 はるはそんなまきにほほえみかけると、赤ん坊をゆすりあげゆっく
り歩き出した。”松葉屋”という木賃宿のところを左に曲がり、はる
は、一つ目の細い路地に入りこんでいく。
 人がやっとすれ違えるほどの狭い袋小路の両側に、軒を接して、棟
割長屋が並んでいる。ガラス戸からは、うすいあかりがもれ、路地を
明るくしている。
 はるは暗いガラス戸の前で立ち止まると、カギをあけた。
「やっと着いたわ。あたしの家よ」
 手さぐりで電灯のスイッチをひねると、はるは、まきにあがるよう
にすすめた。
 入り口には三尺四方ほどの三和土があり、あとは、押し入れが一間
ついた六畳ほどの座敷がひと間あるきりだった。すりきれた黒ずんだ
畳は、床が痛み、波うっている。
 はるは亀の子ばんてんをはずして畳の上に敷くと、まきに手伝わせ
て赤ん坊をおろした。
「この子、新一って名前よ。うちの人の田舎に帰って産んだの。そう
よね」
 はるは白い正ちゃん帽を新一の頭からとると、すっと頬ずりをした。
 新一は、一歳を越えているはずであった。
 黒い瞳で、新一にみつめられたとき、まきの胸に痛みが走った。
 新一は広い額のあたりが勘太の子どもの頃に似てはいたが、目もと
やひきしまった口もとなど、よりいっそうはるに似ていた。はるの弟
たちの顔が、まきの目に浮かんでいた。それは新一の顔と重なり、涙
でぼやけた。
 貸した金や利息の取り立てに通ったはるの家が思い出され、はるの
家族にひどい仕打ちをしたことが胸によみがえった。
「あたい、はるちゃんにあやまらなければいけないことがあるの」
 まきは、膝を正し、はるをみつめた。

   (三)

「いったいどうしたの?」
 不審そうに問いかけるはるに、まきは、心にささったとげを、一つ
一つ確かめるような思いで、語り始めた。
 はるは新一のおむつを取り替えてやりながら、だまってきいていた。
母親や弟たちの様子がまぶたの裏に浮かび、自分が家を出たあとの家
族の苦労が忍ばれた。はるの涙が、新一のふっくらとした頬の上に落
ちた。
「あたい、お金のことが頭から離れなくなっていたの。お金しか頼る
ものはないとおもっていたから、どんなことをしても、お金を稼ぎた
いって、思い詰めていたの」
 唇をふるわせて、まきはいった。
 新一は、おむつを取り替えて貰い、さっぱりとしたのか、にっこり
まきに笑いかけてくる。その瞳は無心に澄みわたり、まきの心が吸い
こまれていく。
「新ちゃんは、いい子ね」
 まきは泣き笑いを浮かべて、新一の柔らかな髪の毛をなでた。
「まきちゃん」
 はるが、涙を拭うと顔をあげた。
「うらみに思って、こんなことをいうんじゃないのよ。わかってね。
まきちゃんの心に刺さったとげは、いつまでも抜かずに抱えていて欲
しいの。きっとね、胸の痛みから、人に対する優しさって生まれ続け
ると思うからよ。今夜だって、まきちゃん、命がけで、あたしたちを
助けてくれた。優しい心が生まれたからよ」
 はるは、やかんから冷たい水を茶碗に注ぎ、まきにすすめた。そし
て、新一を抱き上げると、着物の襟元を開き、白い胸をのぞかせて新
一に乳をふくませた。新一は大きく目を見開き、くい入るようにはる
をみつめ、息もつかせぬ勢いで、のどをならして乳を呑み続ける。
「可愛いいのね」
 思わず、まきは新一の顔をのぞきこんだ。
「可愛いいわよ。まきちゃんも、早くお嫁さんになりなさい。たくさ
ん、たくさん子どもを産みなさい。賑やかで、一日中子どもの泣き声
や笑い声がきこえていてね・・・」
 はるは、うたうようにいって、新一の頬を軽くつついた。
 新一が口から乳房を離し、声をたてて笑った。
 そのときだった。ふいに、板壁のそばににじり寄ると、叩き返した。
 向こうで、若い女の声がした。
「お帰り。お湯、沸いてるからさ、持っていくからね」
 はるは、ありがとうと大声でいうと、まきに、
「おもしろいでしょ。隣の子。お父さんとお母さんと住んでいるの。
お母さんは病身で、お父さんは、のんだくれてばかりいるの。ときちゃ
んっていうの。十七よ。おでんやの屋台ひっぱって、働いてるわ」
と説明した。
 やかんをさげて入ってきたときを見たとき、まきは、自分の想像と
かけ離れた様子に驚いた。
 ときは、暗さのかけらも抱えていなかった。色白の面長な顔、髪を
二つに分けて三つ編みにし、それぞれを丸めて耳のうえで留めている。
勝気そうな切れ長の目からは、明るい光りが流れ出ている。
「こんばんは」
 ときは、まきがいることに驚いていたが、
「あたしの親友」
と、はるが紹介すると、たちまち、打ちとけてきた。
 まきが親もきょうだいもいないと告げると、ときは、羨ましいわと、
からりといった。
「病気がちのおっかさんと酒で身を持ちくずしたおとっつあんよ。一
人のほうが、よっぽどせいせいするんじゃないの。でもね、あたいが、
この二人、養ってやってんだと思うと、自分がとてつもなく偉く見え
ちゃってね、毎晩、屋台の棍棒握って、ときにはお客にいやらしくい
い寄られたり怒鳴られたりしてもさ、頑張っちゃうの」
 どこからこの明るさが生まれてくるのだろうと、まきは思わずみつ
めてしまった。
「あんたもさ、ここへおいで。人生の吹きだまりだなんて悪口をきく
けど、気楽でいいよ。あたいたちもここへ流れついて三年、もうどこ
へも行きたくないくらい。人情もあるし、家賃は安いし、おんぼろだ
けどね。おでん屋なんかどおう。この先に、一軒、あいてるし、きちゃ
いなさいよ。あたい、いい場所、あんたの開店祝いに教えちゃうから
さ。ねっ、はるちゃんも、この人、うんと、まきちゃんね、誘ってよ」
 ときは、立て続けに喋った。
 はるは、熱いお茶を入れてくれた。まきはそれを呑みながら、とき
が、
「あたいの姉妹ぶんになりな」
と、威勢のいい声でいうのを、久し振りに心に光が差したような気分
できいていた。
「うちの人も、そのうち帰ってくるわ。あの人、警察まくのうまいん
だから。今夜はここに泊まってね。まきちゃんのこと、みんなで考え
よう」
 はるの言葉も、まきの胸にしみた。

   (四)

 まきが勘太やはるに会ってまもなく、康吉の四十九日の法要が、宇
作の家からほど近い菩提寺で営まれた。
 宇作は葬式のときと同じように、極めて内輪の者達だけを法事に招
いた。康吉の死のつらさを酒でまぎらわす宇作にとって、人に会うこ
とは苦しみを重ねることでもあった。
 両親や兄につきそわれて、みねはやってきた。やつれてひとまわり
も小さくなり、化粧のない顔に、黒い喪服が痛々しかった。
 帰るとき、みねはまきに小声でいった。
「これでもう、まきにも会うことはないと思う。体に気をつけてね。
まきは若いんだもの。人生、まだまだ、やり直しがきくんだからさ」
 みねは、そっと手をさしだした。
 その手を握ったとき、まきはうろたえた。みねの手は、いまにも溶
けてしまいそうに力なかった。
 その夜、朝からの曇り空から雪が舞い降りてきた。
 法事の客に出した酒肴のあとかたづけを、まきがとしとなし終えた
ときだった。職人たちもそれぞれの部屋にひきあげ、静かな夜であっ
た。
 宇作が、まきを自分の部屋に呼んだ。酒に酔い幾分か頬のあたりを
うす赤く染めていたが、宇作は黒の紋つきの羽織の肩をしゃんといか
らせ、正座していた。
「まき、おまえに田のみがあるんだ。俺たちの娘になってくれないか。
やがて、俺の縁続きから婿を迎え、夫婦でこの家を守って欲しいんだ。
お願いだ」
 まきは息をするのも忘れて、にこやかに話す宇作をみつめていた。
思いがけないことであった。村で指折りの資産を持つ佐々木宇作の養
女になどと。まきは体がふるえるほどの良縁を目の前にしていた。
 いつのまにか、そばにとしがいた。
「おとっつあんのいう通りにしてくれるだろうね。おまえにも親がで
きる。三年の年季がおえたら、この家から出ていかなければなんて、
気をわずらうこともない。康吉のかわりに、おとっつあんとわたしに、
孝行しておくれね」
 としが、まきの肩を軽く叩いた。
 黙ってまきはうつむいていた。子どもの頃と同じように再びまきは
人生の岐路に立ち、どちらかの道を選ばなければならなかった。膝が
しらを掴んだまきの両手が、緊張のあまり、こきざみにふるえる。
 宇作はとしと顔を見合わせると、軽く頷きあった。
「まき、これは大事なことだ。もちろん、おまえは、俺たちの頼みを
きいてくれるだろうが、急な話だ。今晩ゆっくり寝て、あした、俺た
ちを喜ばせてくれ」
 まきの頭の中は、たくさんの火の粉がとびかい、熱く顔はほてって
いた。
 黙って立ち上がると、まきはいつか表紙の作業場に向かっていた。
 外には、風が出ていた。静けさを破って、大戸がガタガタと音を立
てた。
 としが、まきのあとについてきていた。
 作業場の隅にまきが座ると、としもすぐそばに腰をおろし、キセル
を取り出した。
「おまえがこの家にきたときは、家の中が明るくなったように、俺は
思った。両親をなくして一人きりになってしまった子どもだというの
に、おまえは、そんな子だった」
 としはキセルの火皿にきざみ煙草を詰めると、マッチをすった。一
服吸うと、としは、ゆっくり煙を吐いた。
「おまえがこの家を継いでくれたら、おとっつあんも俺も、また、生
きる力が沸いてくるよ」
 まきは、うつむいてとしの話すのをきいていたが、ふいに、としの
膝にとりすがった。
「おばさんごめんなさい。あたいの我が儘を、どうぞ許してください」
「いったい、どうしたんだい?」
 としが、けげんそうにまきを見た。
「あたいには、あと三年の年季が残っています。でも、どうしても、
この家を出ていきたいの。一生懸命貯めたお金を、全部置いていきま
すから、おじさんに渡してください」
 まきは、冷たい板の間に額をこすりつけた。
 宇作やとしの言葉を受け入れれば、おそらくまきは安定した将来を
手にすることができるに違いなかった。
 しかし、驚くとしに、まきは浅草で勘太やはるに会ったことを話し
始めた。
 あの夜、戻ってきた勘太はいってくれた。ここへおいで。家賃も格
安さ。例えひとまきりでも、そこはまきちゃんの、誰にも遠慮も気が
ねもいらない家ってもんじゃないか。
 一晩泊めてもらったあくる日、ときの口添えでおでんの屋台を借り
ることも約束した。
「きっと、ここへ、戻ってくるのよ」
 はるは、きつく、まきの手を握りしめた。勘太もときも、まきの手
を握った。
「そうかい、仕事まで決めてあるのかい」
 としは、深いため息をついた。ぼんやりとあらぬかなたをみつめた
としの目に、ゆっくりと涙が浮かんだ。深い皺が幾筋も見える顔、油
けのない白髪まじりの髪、としは黒いはんてんの襟をかきあわせて黙
りこんだ。
 外は、吹雪になっていた。

   (五)

 幾年か前の恐ろしいできごとが、としの胸をふさいだ。
 七年の年季で働いていた若い男の職人がいたが、休みの日に活動劇
場で知りあった男に、もっと高い給金を出すからと呉服屋への住みか
えを誘われ、夜中に逃げだそうとするところを宇作につかまってしま
った。
 天秤棒で撲られた職人は足の骨が折れ、とめに入った康吉までも、
顔を大きく腫らしてしまった。
 まきがくる前のできごとであった。
 ましてこんどは、まきを養女にとは宇作からいいだしたことであり、
まきが断るなど、頭の隅にもあるはずはなかった。
 康吉の死後、宇作はぼんやり日を過ごすことが多くなり、家の中か
ら宇作の怒鳴る声が消えてはいた。しかし、やはり、宇作にまきの話
をきかせるわけにはいかなかった。
 じっと考えていたとしは涙を拭うと、まきにほほえみかけた。
「出ておいき。おばさんが、あとのことはみんな引き受けてやる。お
じさんに知れたらどうなるかわからないもの。寒いけれど、今夜、こ
こを出ていきな。お金は持っていくんだよ。この不景気に女一人で生
きていくのは、なみたいていのことではないんだ。まきは、本当に良
く働いてくれた」
 としは、しみじみといった。康吉が好きだったまきを、康吉のかわ
りに守ってやろうと、としは心を決めた。
 まきはそっと自分の部屋にもどると、押し入れから、すばやく風呂
敷包みを取り出した。金貸しを自分の仕事にしようと誓った年の暮、
正月用の晴れ着にと作った壁御召の羽織が入っていた。まきはそれを
まとめて部屋の隅に押しやると、風呂敷のなかに、日頃使う衣類やこ
まごまとした身の廻りの物を入れ、位牌もしまった。
 貸した金や利息などを記した帳面をひきちぎりこまかに破ると、ま
きは雨戸をあけ、吹雪のなかにまきちらした。
 この部屋で過ごした年月が、まきの頭のなかをかけ巡った。
「さようなら」
 まきは柱や障子をなで、部屋の中を見廻した。
 宇作の部屋の前で、まきは廊下に両手をついた。宇作は、もうぐっ
すり眠っていた。
(ごめんなさい)
 まきは、胸の中でつぶやくと立ち上がった。
 としは、残りごはんでむすびを作り、自分の厚手のはんてんを脱ぐ
とまきに着せ、腰ひもで上からしっかり結んだ。
「この吹雪じゃあ、なんぎだけど、おとっつあんにはみつからない。
電車もバスも止まっているだろうけれど、浅草までなら、なんとか歩
いていける。橋の上は風が強く吹く。とばされてけがなどするんじゃ
ないよ」
 康吉にそっくりな大きな切れ長の目をうるませて、としは、まきの
手をしっかり握った。
「おばさん」
 まきは、声が詰まった。宇作はどんなにとしを撲るだろう。自分の
身勝手がとしを苦しめるのだと思うと、まきの決心はひるんだ。
「なにをしてんだい。さあ、早くお行き。あとのことは、うまくやる
から」
 としに背中を押されて、まきは、表に出た。雪のまじる強風に、ま
きはいっしゅんひるんだが、ツネの形見のらくだの衿巻きに、深く頬
を埋めた。背中にしょった風呂敷包みの結び目に首のまえでしっかり
両手をかけると、思いきってまきはとしに頼んだ。
「おばさん、弥一ちゃんに伝えてください。落ち着いたら、きっと、
連絡するからって」
 としは、大きく頷いた。
「おばさん、さよなら」
 まきは、歩き始めた。暗い田舎道は人影もとだえ、うっすらと雪が
積もり始めていた。まきの背中で、かすかに、位牌のこすれあう音が
していた。
 まきは、幾度もころびそうになりながら、荒川の土手に登った。
 流れも川原も、白い幕におおわれていた。
 吹雪が天の高みから、音をたて、まきをめがけて駆けおりてきた。
 まきはよろめき、膝をついた。吹雪が吹きつける側から、体がぐん
ぐん冷えていく。息を整えて立ちあがると、まきは背中を丸め、ふら
つく足に力をこめて、吹雪にいどむように歩き始めた。
 まきの耳に、粂次郎やツネや康吉の励ましの声が、絶えまなくきこ
えていた。
 荒川にかかる千住新橋は、吹雪にもまれ、低いうなり声をあげてい
た。
 まきは人通りの絶えた橋のらんかんにつかまって、まっすぐ立った。
 この橋を渡り、隅田川にかかる橋を越えた浅草に、まきを迎えてく
れる人たちがいる。そこには、人と人との温かな結びつきが生まれよ
うとしている。
 雪をかぶり、体を白く染めかえたまきは、顔にぶつかる吹雪の中で、
思いきり目をあけ前方をみつめた。
       (了)
   

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