下町の娘9

下町の娘9

この作品は、1988年の暮から一年間を超えて、「新婦人しんぶん」に連載したものです。挿し絵は宮本能成さんです。ここには第45〜49回(第九章 歳月)を載せます。(2009年11月)

第九章 歳月

(これまでのあらすじ)
 関東大震災の直前からこの物語は始まる。東京品川の花街近くで育
った少女まきが、運命にもてあそばれながら成長していく。
 折からの大震災に遭遇しながら、一家三人は生き長らえたが、多発
した朝鮮人虐待騒動に巻き込まれた父親の左官棟梁、粂次郎は群衆に
襲われて大怪我をした上、心にも大きな傷を負った。一家の支えは花
街出のツネに重くのしかかった。
 働く気力を失った粂次郎に替わって、ツネは仕事を請け負う。そん
な中で、小雪が散らつく寒さの中を、引き伸ばされていた支払いを取
りに出掛けた。その無理が祟ってツネは肺炎を起こし、震災から半年
のうちに、亡くなってしまった。
 家の仕事がすべて、まきの肩にのしかかるが、やがて、粂次郎も立
ちなおり、平穏な日々が訪れた。しかし、それもつかの間、粂次郎は
傷がもとで、足場から落ち、重い病の床についてしまう
 やがて粂次郎もこの世を去り、まきは一人になってしまう。まきが、
貰われてきた子であることもわかるが、まきは動揺し、実家に戻ろう
とはしなかった。
 まきが叔父夫婦に引き取られて四年の間に、大きな身の変化がまき
に生じた。南足立郡にある表紙屋、佐々木宇作宅に年季奉公で働くよ
うになった。宇作に金貸しの仕事も教わりながら、宇作の妻、とし、
息子の康吉、その妻みね、さらに勘太、はる、弥一などと、からみ合
い、まきは体や心の苦楽を重ねていく。それでも、まきは勝ち気な明
るさを失わなかった。
 まきは表紙屋という仕事に励む一方で、貧しさから抜け出るために、
金貸しによる殖産にも心を奪われる。また康吉にも心を惹かれる。や
がて、しつこい皮膚病に冒されて、生きる力を失いかけた時、現われ
た両親の幻を追って、川岸に群生する薬草どくだみに辿り着き、一命
をとりとめる。
 まきの世話をよくみたはるは失踪したが、一夜、若者とともにまき
の助けを求めて来た。若者はまきの父親が面倒をみていた勘太だった。
まきは、はるを助けた。しかし、一方で、元手を作るまで金貸しの道
を続ける決意は変わらなかった。
 難聴の康吉は父親や、妻との不仲になやまされ、まきとも心が通じ
なくなっていった。
 まきは表紙貼りの仕事に精をだしながら、金貸しの仕事もこなして
いく。そんなまきに康吉は落胆し、まきにそんなことをさせる父親と
の仲は益々亀裂が入っていく。表紙の営業担当として地方を回ってい
るが、成績もあがらず、大町春月の詩集などに傾倒していくが、春月
の自殺に引き摺られるように、康吉は鉄道自殺してしまう。

    (一)

 もうすぐ、正月がやってくる。
 宇作のところでは、餅もつかない淋しい年の暮であったが、一年を
しめくくる仕事は、いつもの年のように行われていた。
 今年も、住み込みの職人たちは、ツケ板を池の底に沈め、仕事場や
寝起きに使う部屋の大掃除を終えて、肉親の待つ故郷へ帰っていった。
 康吉の葬儀のあとで、みねの実家の兄から妹を離縁して欲しいとい
う申し出があった。民法では、離縁にはその家の戸主の承認が必要で
あった。
 四十九日まではこの家にいて欲しいという宇作の願いを兄はきき入
れたものの、それからまもなく、実家から使いの男衆がやってきて、
母親の具合が悪いのでとみねを連れていったきりきりであった。
 いそがしそうに体を動かしてはいても、宇作はやることに実が入っ
ていなかった。新しくとり替えるためのモンズリ用の茶碗割になん度
も失敗し、庭のすみには、くだけた九谷焼の茶碗がなめらかな肌をさ
らして散らばっていた。
 としは、人目につかない納屋の陰にしゃがみこみ、この頃覚えた煙
草を吹かしていた。キセルの火皿に詰めたキザミ煙草は、としの体を
通り抜け、紫色の煙となって空に消えていく。としは、その煙を、ぼ
んやりみつめていた。

 康吉の面影が漂うこの家は、まきには悲しみが胸につかえ、息苦し
く感じられた。帰るところのある職人やみねを、まきは、うらやまし
く思った。
 その日、まきは、朝御飯を食べ終ると、ヤライ棒が立ち並ぶ表紙の
干し場を通り抜けた。
 池には一面に氷が張り、晴れた空を映して、うすく青く光っていた。
 表紙屋へきた十二の年の暮から、まきは、年に二回、ツケ板洗いを
やってきた。
 夏に比べて冬のツケ板洗いはつらいものであったが、去年の冬まで
は、いつも康吉と一緒だった。
 まきが手の冷たさに頬を歪めると、康吉は大きな両手でまきの手を
はさみ、強い力でこすってくれた。でも、いまは、まきがどんなに大
声をあげても呼んでも、もう、康吉はどこにもいないのだ。
 わらぞうりをぬぎ、もんぺの裾をたくし上げると、まきは、思い切
って池に入った。氷が割れ、冷たさが脳天を突き破りそうに思えたが、
まきは歯をくいしばり、ツケ板に近づいた。
 力をこめて、まきが水桶を突き落とすと、ツケ板が、氷をつぎつぎ
と池の表に浮き上がってきた。その一枚をひき寄せると、まきは、わ
らなわを束ねたたわしで、白くふやけた糊を落とし始めた。たちまち、
手も足も、朱を刷いたように真赤になった。
 どこからか、威勢のいい餅つきの音が聞こえてきた。掛け声や笑い
声も、かすかに流れてくる。
 それは、遠い世界のもの音のようにまきには感じられた。
 そのときだった。
「まきちゃん、手伝うよ!」
ふいに、弥一の声がした。
 まきが驚いて顔を上げると、ズボンをたくしあげて、弥一が池に入
ってきた。
「どうしたの、おじさんのところへ行ったんじゃなかったの?」
「行ったさあ」
 弥一が、唇をとがらせた。
「おじさん、この暮にきて、ミシン工場、くびになっちまったんだ。
仲間を集めて、ストライキとかいうものもやったんだって。でも、工
場がつぶれちまうって騒ぎだから、一向に、ききめはなかったんだっ
てさ。こんなときにさあ、家の中が暗いってのに、俺、いずらいよ。
正月の小遣い、半分置いて、帰ってきちゃったんだ。俺、やっぱり、
ここが一番のびのびできるよ」
「弥一ちゃんも、気の毒だねえ」
 まきは、しみじみといった。弥一に対する嫌悪感が、まきの体から、
不思議に拭い去られたように消えていた。
(弥一ちゃんもあたいも、みなし子。同じ仲間だったんだ)
 まきはいまさらのように気づくと、弥一をみつめた。
 弥一は、まきの悲しみに触れまいと、わざと鼻歌まじりでツケ板を
こすり始めていたが、まきと目が会うと大声をはりあげた。
「まきちゃん、俺が細いからって馬鹿にするんじゃないよ。俺って、
力持ちなんだよ。ほら、どんどんはかどるだろ。それに、俺って寒い
ところで育ってるから、冷たくたって、へっちゃらのちゃらだよ!」
 弥一はおどけた顔つきで、まきを笑わせようとしていた。それは、
まきの悲しみを、少しでも肩がわりしてやりたいと思う、弥一の優し
「ね、弥一ちゃん、浅草へさ、お正月行ってみようかしら?」
 まきは、弥一の笑顔にひかれたようにいった。
「そうだよ。まきちゃん。そうこなくっちゃ。俺、遊び銭、全部、持
ってやるよ」
 弥一の顔が泣き笑いのように歪むのを、まきも唇をかんでみつめて
いた。

   (2)

「少し、休もうよ」
 まきはツケ板洗いの途中で、弥一を誘った。
 池から上がると、まきと弥一は、日のあたる枯れ草のうえに並んで
腰をおろした。冷たさにしびれた手足を、二人とも夢中で叩いたりこ
すったりしているうちに、肌は、たちまち生気をとりもどした。
 風もなく、春のような日ざしが、まきと弥一を包んでいた。
 まきは、氷りついた胸の中が、かすかね音をたててとけていくのを
感じながら、過ぎた遠い日のことを思い出していた。それは、今日に
続く道を、大人たちの説得を振り切って歩き始めた日であった。
 六年前、権現山の下の家をまきが出たのは、八月も末に近かった。
子どもたちは夏休みの宿題に追われ、町はひっそりとしていた。
 曇り空の下を、秋風を思わせるさらりとした風が吹き、ツネが丹精
していた小さな裏庭では、早咲きのコスモスが、まきを見送るように、
うすもも色の花を咲かせていた。 朝早く、隣のきよ子がきて、まき
に千代紙をくれた。それは、桃色と白の鹿の子模様、紫と白の矢がす
り模様、そして、もう一枚は、黄色の地に白い桜の花びらが雪のよう
に舞う図柄であった。この三枚の千代紙は、谷中のさんさき坂にある
伊勢竜で、父親にせがんで買って貰った、きよ子の宝物であった。
「つらいことや苦しいことがあったら、きっと、手紙をちょうだいね。
うちのお父さんやお母さんは、いまだって、まきちゃんを家の子にし
たいって思ってるんだから。それから、まきちゃん、もう一度考え直
してみたら。お父さんもお母さんもいってるの。まきちゃんは、ほん
とうのお父さんやお母さんのところへ戻るほうが、幸せなのにって」
 まきは、あのとき、まきが房吉のところへ帰りたくない気持を汲み
取ろうとしないきよ子に腹が立ち、思わず、千代紙をつきかえしてし
まった。
 あれきり、まきは手紙も出さず、きよ子にもその家族にも会ってい
なかった。
(行ってみようかしら・・・)
 まきの胸の中に、ふいに、懐かしさがこみあげてきた。きよ子やき
よ子の家族の優しさが思い出されると、まきはたまらなくなって、横
になっている弥一をゆすった。
「ねえ、浅草の帰りに、ちょっと離れているけど、北品川へ一緒に行
ってくれない。あたいがさ、おとっつあんやおっかさんと暮していた
ところ。友達に会いたいの・・・」
「うん、もちろん、ついてってやるさ」
 弥一の頬が、うす赤く染まっていた。弥一はまきと同じ数えの十九
だったが、頬のあたりがふっくらとしていて、わずかにあどけなさを
残していた。
 まきを好きのなんのというより、弥一は、その頬をすり寄せる人の
ぬくもりを求めていたに違いなかった。
 まきは、いま、ようやく弥一の心に触れたような思いがしていた。

 正月休みの最後の日、まきは浅草の帰り、弥一と連れだって北品川
へ出掛けた。
 暮のうちに出した葉書が着いたかどうか心配で、まきは、少しでも
早くきよ子の家へ行こうと気がせいたが、弥一がどうにも海が見たい
といいだした。
 まきは、海の眺めの良い品川神社へ弥一を連れていった。
「弥一ちゃんは、この男段を登りな。あたいは、あっちを行くから」
 神社の正面に続く高い急な石段を弥一が懸命に登り始めると、まき
は、木立の陰の女段に足を掛けた。
 このあたりは、子どもの頃のまきにとって、自分の家の庭のような
ものであった。男段の清々とした明るさに比べて、女段の踏面の広い
ゆるやかな石段はやや暗く、このあたりの木立の陰は、かくれんぼう
の良い遊び場であった。石段の小さな窪みにも、一緒に駆け回った友
達の顔やしぐさが思い出され、まきの足はなかなか前へ進まなかった。
「おおい、見えたぞ。海が!」
 弥一の声が高いところでした。
 まきが駆け登ってみると、弥一はもう、富士塚の狭いてっぺんに立
っていた。
 初詣の人々がおかしがって見るのを、弥一は気にもとめず、白帆の
浮かぶ海を指して、大声で叫んだ。
「父ちゃんも母ちゃんも、海を見ずに死んじまった。だけど、俺は、
海を見たぞ。父ちゃん、母ちゃん、海だよう!」
 弥一の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。埼玉の秩父の生まれ
で、山ばかりに囲まれて育ったと、弥一はいっていた。
 目の下には、江戸時代末期、湾内の防備のための大砲を据えるため
に作られた台場が波間に浮かび、たえまなく白く光る海が羽田沖まで
見渡せた。
 弥一が、ふいにいいだした。
「友達のところ、まきちゃん一人で行っておいでよ。俺、海みて、こ
こで待ってるから」「だめ。約束でしょ。もう何年も会ってないの。
一人じゃ、恥ずかしいもの」
 まきは、海岸にも連れていくからと、弥一に納得させた。

   (三)

 権現山を背に、見覚えのある長屋が見えたとき、まきは、着物の前
をおさえて駆けだした。
「ここが、あたいの家よ」
 まきは、弥一に叫んだ。
 めかくしの板塀、小さな門、そして前庭の白梅、なにもかも、変わ
っていなかった。 家の中から、いまにも、粂次郎とツネがとび出し
てきそうに思えたとき、まきの目は、門柱にかかった小さな表札にく
ぎづけになった。石井俊一という見知らぬ文字は、まきを冷たくつき
放していた。
 まきは、それでも少したたずんでいたが、やがて、弥一の手をひっ
ぱって、隣の家の門をくぐった。
 玄関の戸をまきがあけると、待っていたようにきよ子がとびだして
きた。
「とっても、会いたかったわ」
 きよ子はまきの手をとると、いまにも泣きだしそうに顔を歪めた。
「あたいもよ」
 懐かしさが、いっきにまきの胸にこみあげてきた。
 濃紺にしぶい黄色や赤の花柄をひかえ目に散らした着物、断髪にし
た髪型、きよ子は、色の浅黒い、目鼻立ちのくっきりした父親似の顔
立ちに変わっていた。
 奥から走り出てきた鈴も、きよ子の父親の幸一も、髪に白いものが
まじってはいたが、あの頃と少しも変わらなかった。けれども、妹の
あさ子に、まきは目をみはった。
 きよ子よりもあさ子は背が高くなり、赤い花柄の袂の長い着物の肩
に、紫色のリボンを高く結んだ髪をすべらせていた。
 変わらぬ暮らしの中で、きよ子もあさ子ものびやかに成長し、それ
は表情やしぐさに現われていた。
 まきは、自分とかけ離れた二人に、思わず気おくれがした。
「さあさあ、なにを遠慮しているの。二人とも、おあがんなさいよ」
 まきと弥一に、鈴は声を掛けた。
 まきは、自慢の晴れ着を着ていた。それは、銀鼠の地にお納戸色の
たて縞の入った着物で、上には、うす茶に黒の鼈甲形の柄を置いた羽
織を重ねていた。髪をはやりの洋髪にしたまきを、鈴は、まじまじと
みつめた。
「すっかり、大人になったのね」
「おツネさんに似ているね。どきっとしちゃったよ」
 幸一が、口を添えた。
「まきちゃんを見ていると、うちのきよ子なんて、まるで子どもだわ。
どんな仕事をしているの」
 鈴の問いかけに、まきは、十二の年に表紙屋へ奉公に入った頃のこ
とから、話し始めた。叔父の金蔵のところでつらい思いをしたことは
もちろん、康吉の死も、そして表紙貼りの仕事のかたわら、金を人に
貸して利息を稼いでいることも、まきは話すことを避けた。
> 「あと、二、三年で年季があけるの。そしたら、あの家を出て、一人
で暮らしていくわ。お金もだいぶ、貯めました。両親のお墓も作って
やりたいと思います」
 まきは、久し振りに明るい表情で話し続けた。ここでは、暗い話は、
したくなかった。弥一も同じ気持だった。出された料理を食べながら、
にこにことしていた。
 あさ子は、かってまきが憧れていた御茶ノ水の女学校に通っていた。
きよ子は、女子大の学生で、日本文学を専攻していた。
 恥ずかしそうに、きよ子は肩をすぼめた。
「あたしなんて、親のすねかじりよ。まきちゃんは偉いわ」
 日が暮れかけてまきが帰るといったとき、きよ子は、まきを、廊下
の隅に呼んだ。そして、薄い藤色の小さな手帳をさしだした。
 表紙にはなめらかな筆跡で、”祈りの花束”と書かれていた。
 きよ子は、うす赤い石の並んだロザリオ(ローマ教会の数珠)を持
っていて、その石を一つ一つ繰りながら祈りを唱え、ひとめぐりする
たびに、”ロザリオ一環”と手帳に書き記した。ツネが病気のとき、
粂次郎がけがをしたとき、その手帳に”祈りの花束”と書き、まきに
贈った。
 手帳をまきが開くと、日付けは、まきと別れた日から始まり、ほと
んど休みなく、きよ子はまきのために、祈ってくれていた。
    まきは日々の暮らしに追われ、きよ子のことを思い出す日さえ少な
かった。うつむいて、まきはいった。
「こんどは、きよちゃんだけに、あたいの話をきいてもらうわ。いろ
いろ、あったの」
「きっとよ」
 きよ子がさし出したなめらかな小指に、まきは自分の小指をからめ
た。まきの小指はひびとあかぎれで節くれだっていた。
 まきの胸を、痛みが走った。
 隣り同士で住んでいた頃、きよ子とまきの暮らし向きは、隠すこと
のないほど似通っていた。しかし、それからの七年の歳月は、育ち盛
りの二人には、あまりにも長いものであった。
 金貸しの話など、きよ子には理解できるものではないと、まきは思
った。からめた小指を、まきは、そっと、ひいた。

   (四)

 一月がなかばを過ぎると、寒さも本格的になった。
 不景気はますます混迷をきわめ、とくに、農村では娘の身売りも行
われていた。国民にはまだ知らされていなかったが、軍部のなかでは、
日本経済の行きづまり打開をめざして、中国東北部(旧満州)への侵
略をとなえる機運が高まりつつあった。
 まきは、朝からモンズリ台に座っていた。
 みねは、暮に実家へ帰ったきり、まだ、戻っていなかった。
 このあいだは、職人のなかで、一番陽気な佐一が、徴兵検査を受け
るために山形の実家へ帰っていった。体格のいい佐一は、きっと甲種
合格となり、連隊への配属がきまるだろう。佐一がここへ戻るあては、
ほとんどなかった。
 作業場には活気が消え、無駄口をたたく者もなかった。
 沈みこんでぼんやり日を送っていた宇作が、今日は、珍しく近くへ
利息の取り立てにいくといいだした。
 腰には、愛用の彫金の根付けがついた煙草入れをさげた。これは、
宇作が板目表紙を手掛け、商人として一つの基盤を築いたことを自覚
した年、多くの金を払って買い求めたものであった。鹿皮の煙草入れ
は白と紺の格子柄に鮮やかに染め分けられ、銀製の留め金や根付けに
は、こまやかに二匹の竜やあげはの蝶が彫られていた。
 背中を丸めうつむいて歩く宇作の腰で、煙草入れは、まるで借物の
ように見えた。
 まきは、康吉を荼毘に附して帰る汽車の中でのことを思い出した。
宇作は席に座ると、しっかり抱えていた骨箱を、ふいにまきにさしだ
した。
「抱いてやってくれ。あいつは、おまえが、しんそこ好きだった」
 宇作は、目を赤くして、まきをみつめた。
 黙って抱きとると、まきは骨箱を包む白布を、じっとみつめた。涙
がとめどなくあふれた。白布はまきの涙を吸い重く濡れていった。
 佐々木の家へまきが初めてきた日、宇作は、としと康吉を横に並べ
ていった。
「おまえは、まだ小さい。俺のうちの子どものようなものだ。おまえ
は、俺たちを、おじさん、おばさんと呼べ。こいつは、兄さんだぞ。
いいな」
 しかし、暮らし始めてみると、まきは、やはり奉公人であった。暗
いうちからの食事の用意、掃除、洗濯。十年という年月を金で買われ
た篭の鳥であることを、たちまちまきは知らされたのであった。
 康吉とまきの間には、身分の違いという、広くて深い川が流れてい
た。その川は、まきには越えられるものではなかった。
 康吉が生きていた頃、みねに対する羨ましさは、いつも、まきの中
にあって、まきを苦しめていた。しかし、いま、みねのいないこの家
は、まきの淋しさを限りなく深めていた。楽しいことばかりではなく、
人は憎しみや苦しみをさえ心の支えにして生きていくものだと、まき
は、つくづく思った。
 モンズリをかけるまきの手は、止まりがちであった。
 こんなとき、いつも、康吉は、向かい合わせの台の向こうから、く
り返し励ましてくれた。
「まき、力をこめて、す早くこするんだ。全体を同じ力でこすらなけ
れば、見事な艶は出せないぞ」
 ふと気がつくと、まきの向かいあわせの台の上で、表紙の上を、モ
ンズリがなめらかに動いていた。表紙には、みるみる艶がかかり、ぼ
おっと白く輝き始めた。
 それは、康吉が手がける、まきの大好きな表紙の色であった。
「兄さん!」
 思わずまきは叫ぶと、すり手をみた。まきは、顔の色を変えた。
 目の前には、宇作が座っていた。いつ帰ってきたのだろう、仕事着
に着替え、もくもくとモンズリを動かしている、
「いやだ!」
 まきの声は、鋭く響いた。まきは、切なさ耐えきれなかった。
「どこへいく!」
 宇作の声を振り切って、まきは作業場をとびだした。ヤライ棒の立
ち並ぶ表紙の干し場まで走ってくると、まきは大きくあえいだ。胸の
中に、やり場のない悲しみが渦を巻いていた。
(どこかへ行ってしまいたい・・・・・)
 まきは、もうじっとしていることができなかった。
 自分の部屋に戻ると、位牌を並べたみかん箱をあけて、お金の入っ
た袋をとりだした。
 日も照らぬ、うす暗い昼間であった。思い灰色の空からは、ときお
り、鋭い音をたてて、風が吹きおりてきた。
 まきは、木綿の仕事着のままであった。膝につぎの当たったもんぺ
は、布地が薄くなってしまっていた。素足にわらぞうりをつっかけた
まきは、風に追われるように走っていった。

   (五)

 まきは息をはずませながら、潮の香りのする闇のなかに立っていた。
 まわりには土寄せを終えたばかりの玉葱畑や、幼苗が土にへばりつ
いた麦畑がひろがっていた。
 すぐそばに、まきの生家である大沢房吉の家のあかりが見えていた。
船着き場のある川からは、水音が、絶えまなくきこえてくる。
 木綿の筒袖やもんぺを通し、凍りつくような海風が、ようしゃなく、
まきの体につきささった。わらぞうりの上の素足は感覚をなくし、立
っているのがやっとだった。
 まきの顔のまわりでは、髪が風にあおられて、さかだちながら揺れ
ていた。寒さで目のふちを赤くしたまきは、房吉の家を、懐かしさを
こめてじっと見ていた。
「ずいぶん、まわり道をしたわ」
 小さくつぶやくまきの胸を、後悔がよぎっていった。
 ツネを失い粂次郎までなくしたとき、大人たちは、生みの親の房吉
のところへ戻るようにと、まきを説得した。その気持を振り切り、一
人で歩き始めた道は、けわしく苦しいものであった。
 いま、まきの心はぼろぼろに破れていた。
(糀谷の家を訪ねてみよう)
 まきは心の中に沸き起こって思いにとりすがって、ここまでやって
きたのだった。
「振り出しに戻って、やり直すこともあるわ)
 まきは、また小声でつぶやくと、房吉の家のあかりをめざして、足
をひきずり歩き始めた。
 ここは穴守線の糀谷と大鳥居の中間であった。まきが小さかった頃、
夜に入り、ツネに連れられて帰ることがあった。房吉はほうずき提灯
に火を入れ線路ぎわまで送ってくると、提灯を高くかかげ電車を止め
てくれた。
 房吉やはつの陽に焼けた顔が思い出され、まきは、その頬に顔を寄
せて、ぐっすり眠りたかった。
 房吉の家の垣根を通り抜け家に近づいたとき、まきの耳に、トント
ンと軽やかに海苔を刻む音がとびこんできた。
 懐かしさがまきの体を駆け巡り、涙があふれそうになった。
 寒中、ツネにせがんで、房吉のところへ泊めて貰ったことがあった。
まきは朝早く、房吉が漕ぎ出すベカという小船に乗せて貰い、明け方
のほの暗い光の中で、そだひびについた海苔を摘んだ。
 海水の冷たさ、つるりと飲みこんだ生海苔の味も思い出された。
 はつや子どもたちが、両手に包丁を持ち、真水ですすいだ海苔を夜
を徹して刻む様も面白く、はらはらと見守るツネの前で、まきは、ト
ントンと海苔をみせたこともあった。
 房吉とはつ、まきの兄や姉や妹や弟たち、それは、まきにとってか
けがえのない、血のつながりを持った人々であった。
 ここにしか、まきは疲れた体を休めるところはないように思えた。
 まきは、海苔を刻む音に吸い寄せられる、裏口に近づいた。板戸に
手を掛けたとき、突然、高い笑い声がまきの耳を打った。
 はつの声であった。その声に誘われるように、太い房吉の笑い声が
きこえ、やがて、いくつもの笑い声が、はつと房吉のの笑い声にまじ
り合っていった。
 まきは、立ちすくんでいた。
 笑い声は一つ一つが追い、止むことを忘れたように、からみ合った
り、離れたりして続いている。
 なにを笑っているのだろうか。楽しそうであった。家族としての見
事な和合を感じると、いい知れぬ悲しみにまきは落ちていった。家族
という人々のぬくもりの中に、まきはどうしても戻っていけなかった。
歳月の流れは、ここでもまきの足をすくませ、房吉やはつとの間に立
ちはだかっていた。
 がっくりと肩を落とすと、まきは自分の体を、腕をくんで抱きしめ
た。
 潮風は、まきを追いたてるように、強く吹いていた。
 うつむいていたまきが、すっと顔をあげた。
(そうだ、浅草だわ)それは、ふいに、まきの心をとらえた。
 正月に弥一と行ったばかりだったが、まきの目のなかに、仲見世の
まばゆい光や人いきれで暖かそうな雑踏が浮かんだ。
 子どもの頃、粂次郎やツネと行った浅草、康吉とも行った浅草、あ
そこには、傷を負ったまきの心を慰めてくれるものが、きっと、あり
そうに思えた。
 まきは立ち上がると、ゆっくり空を仰いだ。
 満天の星が、まきをみつめていた。
「きれいだわ」
 思わず、まきは声をあげた。
 星々の光りが、静かにまきの心に沁みた。
 まきは着物の襟元を合わせ、少しずり落ちたもんぺを、腰のところ
でしっかりしめ直した。麦畑の畦道から農道にあがると、まきは冷た
くなった足をこすった。やがて、まきは、わらぞうりを軽くひきずり
ながらも、駅舎をめがけて歩き始めた。
・・・・・・・・・

終章(再生)につづく

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