同人誌「まど」に載せた作品です。2010年10月追加

赤いボレロと白いボレロ

                                  2005年作品
                 一

 これは、いまから、やく、六十年ほどまえ、静岡で、ひろ子が出会った話である。

 北風が、教室の窓ガラスを激しくたたいている。古びた木わくがしなって、いまにも、
ガラスがふきとびそうだ。
 木造二階建ての校舎のすぐ裏には、河幅の広い安倍川が流れている。そこで生
まれた風は、低い土手を越え、くり返し校舎にぶつかってくる。
 二階にある、四年三組の教室では、坂下ひろ子が、大きな金沢孝雄先生のそば
で、体を堅くして立っていた。
 ついこのあいだまで、三年生以上は、クラスが男組と女組に分かれていた。八月
十五日、日本が戦争に負けてからは、アメリカのいいつけで、男子も女子も、同じ
教室で、勉強するようになった。生徒は、男女あわせて六十名。全員の目が、東
京からきたといううわさのひろ子をみつめて、キラキラ光っている。
 金沢先生は、背が高くがっちりとしている。坊主頭に黒い詰めえり姿は、学生み
たいだ。先生は、ひろ子の肩に、そっと手を置いた。
「坂下ひろ子さんは、もともと東京の浅草の人だけど、二年生のときに、静岡に疎
開してきたんだよ。だから静岡にきて二年もたつんだ。お父さんたちは、東京に残っ
て仕事をしていたんだ。ところが、戦争の終わる前、今年の三月に空襲にあって、
東京の家を焼かれてしまったんだよ。お父さんたちは無事だったけれどもね。ところ
が、こんどは、六月の静岡の空襲で、また、焼け出されてしまったんだ。新しく引越
したお家から、今日、やっとこの学校へ来ることができたんだ。なかよくしてあげてほ
しいと、先生は、みんなにお願いしたい」
「へ、二回も空襲でやられた! うちなんて、いっぺんも、やけてないや」
「うちもだよ。こわかったよね、きっと」
 あちらこちらから、ささやく声がきこえてくる。
「坂下ひろ子です。よろしくおねがいします」
 けさ、お母さんに教えられたとおり、ひろ子はていねいに頭をさげた。背が高くやせ
た体、青白い顔の中で、一重まぶたの大きな目が、大きく光っている。
「席は、ええと・・・・・。そうだ、石村鈴子の隣にしよう。鈴子、面倒みてやってくれ」
 金沢先生の指の先に、ひろ子は目をやった。

 石村鈴子という女の子は、真っ黒な髪を、おかっぱにしている。前髪は眉すれす
れに切りそろえて、両側は、耳に少しかかっている。黒く輝く大きな目、うす赤い唇、
ふっくらとした白い頬。
「あっ!」
 ひろ子は、小さな声で叫んだ。
(笛子ちゃん! あの子は、高倉笛子ちゃんだ。先生は、石村とかいっていたけれ
ど、なにかの間違いだわ)
 鈴子は軽いほほえみを浮かべて、ひろ子をみつめている。ひろ子の心の底まで届
きそうな、強い光を持つまなざし。
(間違いないわ。笛子ちゃんだわ。ああ、良かった!)
 ひろ子は、胸のなかから、新しい学校への不安や不満が、消し飛んで行くのを感
じた。
 金沢先生が、軽く、ひろ子の背中を押した。「さ、なにしてるんだ。はやく、すわり
なさい。鈴子は、やさしい子だから、大丈夫だよ」
 ひろ子は、はっとして、こばしりに机の間を駆け抜けた
。 「良かった! 笛子ちゃんでしょ」
 ひろ子は、椅子をひきながら小声でいって、にっこり鈴子に笑いかけた。
 鈴子は、少し戸惑ったようだった。えっ! というように、首をかしげると、あいまい
な笑いを浮かべて、先生のほうに顔を向けた。
(へんなの!)
 ひろ子の頭のなかが、くるくるとまわりだした。

      二

 笛子に初めて会ったのは、二年前、ひろ子が、東京の浅草から、縁故疎開で静
岡市へやってきたころだった。ひろ子は、父の姉夫婦の家に預けられた。ひろ子が
転校した静岡の国民学校の同じ組に、近所に住む笛子がいて、たちまち仲良くな
った。
 二人が仲良くなって一年がたった頃、ひろ子の家族に不幸が襲った。三年の学
期が、終わりにちかづいた三月十日、ひろ子の東京の家が、アメリカの爆撃で、焼
かれてしまった。命の助かった家族は、静岡にやってきて、家を買い、みんなで暮
らしはじめた。
そのため、ひろ子は転校した。ひろ子と笛子とは同じ組ではなくなったが、それで
も仲のよい二人は、ときどき会って遊んでいた。
 ところが、すぐに二人の別れのときがきた。
六月に静岡市は中心部がほとんど焼ける空襲に襲われた。その夜、ひろ子の家
も、笛子の家も全焼した。ひろ子は家族とともに引越すことになったが、笛子の家
族も戻ってこなかった。
 空襲で焼かれてしまってから、二ヶ月たって、八月十五日、日本は降伏した。
 いま、ひろ子たち家族は、静岡市の北部、安倍川の近くで、六畳一部屋を借
りて、暮らしている。
 学校も焼けてしまい、ひろ子も妹のよし枝も、学校は休んでいた。
 母は、近くの小学校に、転校手続きをすませてあったが、ひろ子もよし枝もおな
かがすいていた。歩くと頭がふらふらして、とても、学校へ行く気になれないでいた。
 けさ、「今日は、学校で、ゆであずきの缶詰めが貰えるよ」と、大家さんの女の
子がいった。
 だから、ひろ子は、よし枝を連れて、学校へやってきたのだ。

 そして笛子に会うことができた。
 それなのに、せっかく笛子に会えたのに・・・
でも、笛子がひろ子のことを忘れるはずはない。
(あんなになかよくしてたのに。ほら、あたし、赤いボレロ着てるよ。それとも・・・・・)
 ひろ子は、きゅうに、涙がこみあげてきた。
 ボレロというのは、前にボタンのないチョッキ風のもので、丈は、ウエストまで、布
や毛糸でできている。
(あたしだって、わかんないのは、あたしが、やせほそってしまったからかな・・・・・)
 ひろ子は、いまにも折れてしまいそうな細い手首をみつめた。
(笛子ちゃんだって、あたしが話せば、きっと、あたしだって、わかってくれる)
 そう思うと、ひろ子は少し気持ちが軽くなって、ふうっとためいきをついた。
   

      三
 

 ひろ子が、机のなかに、さっき先生からもらったガリ版ずりの教科書をしまったと
き、先生の声が、とんできた。
「鈴子とひろ子、いっしょに理科室に行って、天体の掛け軸を持って来てくれな
いか。重いから気をつけて、落とさないように」
「はいっ!」
 鈴子は、すっとたちあがった。
 金沢先生は、転校生のひろ子に、学校のなかのことを、少しずつ教えていく
つもりなのだろう。
 ひろ子の心臓が、きゅうに、ドキドキしはじめた。
(きいてみよう!)
 鈴子と並んで教室を出ると、ひろ子は、ハッと、首をすくめた。冷たい風が、長
い廊下をふきぬけていた。
 ストーブはなかったが、教室の空気は、大勢の生徒の熱で、うっすらとぬくもって
いたのだ。
 鈴子が、だまって、ひろ子の隣を歩いて行く。
 どの教室でも、授業が行われている。ときどき先生の声がきこえるほかには、風
がガラスをたたく音ばかりだ。
 ひろ子は、小さな声で、きいた。
「笛子ちゃんでしょ。あたしよ。思い出して」
 鈴子は、静かに、首をふった。
「ちがう、あたしは、笛子じゃないわ。鈴子よ」
「お願い、思い出して。ほら、あのときかりた赤いボレロ。あたし、空襲の晩も着て
いたのよ。だから、焼け残ったのよ」
 ひろ子は、セーターのすそを持ち上げて、ボレロを見せた。
 それは、笛子のお母さんが、ひろ子が転校するとき、仲良しの二人に作ってくれ
たものだった。ひろ子のは、白いボレロだった。ひろ子の転校した学校は、少し遠
かったけれど、二人は、ときどき会って、遊んでいた。
 空襲で、焼け出される前の日、二人は、ボレロを、ときどき、取り替えようと約
束した。
 笛子は、嬉しそうに笑いながら、ひろ子の白いボレロを着た。
「笛子ちゃん、あたしのボレロは?」
 ひろ子は、鈴子の大きな目をみつめた。
「ボレロ、そんなもの知らない。だから、あたしは、笛子じゃないの。でもね、これに
は、秘密があるの。学校が終わったら、帰りに話してあげるから」
 鈴子は、ひろ子をおいて、すたすたと歩き出した。
 理科室と書かれた部屋の前に立ち、鈴子は、先生から預かってきたカギで、戸
をあけた。窓の白いカーテンがひかれていて、なかは、
薄暗い。
「こっちよ、掛け軸は」
 鈴子は、大きな棚のトビラをあけている。幾本もの掛け軸のなかから、天体の
掛け軸を選びだす。体の動き、声、ほっぺたに薄く浮かぶえくぼ。どう見ても笛子。
(どうしたんだろう・・・・・)
 ひろ子は、不思議な手品を見ているように、声をだすのも忘れて、鈴子の動
きをみつめた。

             四
   

 学校の帰り、ひろ子は、鈴子と並んで歩いていた。
「どうして、どうして、笛子ちゃんじゃないなんて、いうの」
 ひろ子は、少し強い口調できいた。
「じゃあ、いうわ。あたしたちは、双児なの。笛子は、あたしの妹。あたしたちは、
小さいとき、べつべつの家に貰われて育てられたけど、でもね、笛子は、このあ
いだの戦災で、死んでしまったの。お父さんやお母さんもいっしょにね」
「えっ!」
 ひろ子は、息をとめた。
「し、白いボレロ!」
 ひろ子は、白いボレロが、燃えてちぎれてとんでいくのを、目の中に浮かべた。
 涙があふれてきた。
「笛ちゃん!」
 やさしかった笛子、明るく透き通った声。
 なにもかもが、思い出されてくる。
 ひろ子は、深く、うなだれてしまった。
「さ、元気だして。あたしを笛子だと思って」 鈴子は、やさしくひろ子の肩を抱
いてくれた。
 すっかり冷えきったひろ子の体に、鈴子の温もりが、じんわりと流れ込んできた。
「あたしの父さんは、じつは、戦争でなくなってしまったの。いまは、母さんと二
人。でも、母さんは、こんど、およめにいくの。あたしは、生まれた家にもどるの」
 鈴子のすべすべした、ほっぺたを、涙がすべりおりていく。その涙をぐいとてのひ
らでぬぐうと、
「生まれた家には、お姉さんや、弟もいるから、さみしくはないのよ。学校は遠く
なるけど、ここへ、通うから、仲良くしてね」
 ひろ子は、こくんとうなずいた。
(そうだわ)
 ひろ子は、心のなかでつぶやくと、鈴子をみつめた。
「あたし、お母さんに教えてもらって、白いボレロ編む。そして、鈴ちゃんにあげる」
「ほんとなの」
 鈴子の目が、火がともったように明るくなった。
 ほっとして、ひろ子はうなずいた。
 これから、自分の白いセーターをほどいて、あみだそう。
 できあがるのは、お正月を過ぎてしまうかも知れない。
「でも、がんばるわ!」
 ひろ子は、鈴子の手を、強くにぎる。
 鈴子の目に、涙がふくらんできた。
           
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