ver.1.0(01/06/15)

ムハンマドとイスラム教
 従来、イスラム教の成立したアラビア半島は、大部分を砂漠に覆われ、セム語族のアラブ人がオアシスを中心に遊牧や農耕、隊商による商業によって細々と生計を立てている程度であった。しかし、(1       )と(2         )の長い戦争状態が続くことによってシリア近辺の交通が危険になった。「(3       )」や「(4      )」で運ばれた商品も、アラビア半島経由を経由するようになった。こうしてメッカやなどの諸都市が繁栄し、アラブ人は交易の民として莫大な利益を得るに至った。
 しかし、商業活動の活発化による貧富の差の拡大や、有力部族による都市の政治的支配、多神教や偶像崇拝などの宗教的混乱に加え、司祭による寄付の強制など、様々な弊害があらわれてきた。このような中で、メッカの有力部族であったクライシュ族ハーシム家の中から(5        )という預言者が現れた。
 ムハンマドは若い頃、隊商活動に従事していたが、その中で一神教であるユダヤ教やキリスト教の影響を受け、(6      )年に預言者として自覚したと言われている。ムハンマドは預言者として唯一神(7      )の啓示を伝え、多神教と偶像崇拝を排除して堕落した社会に新しいモラルを訴えかけた。彼が説いた教えは最後の審判や人の平等など、ユダヤ教やキリスト教に共通する部分が多く、これらの創始者である「モーゼ」や「イエス」に伝えきれなかった真実をムハンマドに神が託したとされている。その結果、ムハンマドは最後にして最高の預言者としてイスラム世界では考えられている。しかし、メッカの人々は彼の考えには無理解で、迫害をしたためムハンマドは(8      )年に(9      )へ移動した。これを(10      )言い、この時がイスラム暦(ヒジュラ暦)の紀元となっている。彼の教えはメディナで受け入れられ、イスラム教団を建設。630年にはそのイスラム教団を率いてメッカとの戦いに勝利、多神教の(11     )神殿の偶像を破壊し、カーバ神殿をイスラム教の聖殿とした。。その後アラビア半島の広い地域にわたり、メディナの指導のもとに、アラブ諸部族のゆるやかな連合体が成立していく。
 イスラムとは、唯一神アッラーへの絶対帰依を意味する語句で、イスラム教徒はムスリムと呼ばれる。ムスリムは平等と相互扶助の精神に基づいて行動する。また、イスラム教の経典は(12       )と言われ、神からムハンマドに下された啓示の記録で、教義と律法の書である。コーランには政治や社会、文化的活動など生活全般に関わる事柄が規定されており、六信五行という形でまとめられている。
 イスラム教団はウンマというイスラム教団国家を形成した。神は究極の主権者として位置づけられたが、実際に宗教や政治を指導するのはムハンマド(預言者)で、その下でムスリムは万人平等の民として存在していた。

アラブ人の征服
 ムハンマドは632年に死去し、その後教団は分裂の危機を迎えたが、結果的に、信者の合議によって(1        )を選出することで政治権力を継承するという方法で決着した。カリフは初代がアブー・バクル。2代目がウマル1世、3代目がウスマーン、4代目が(2      )と続く。ここまでの4カリフを「(3       )」と呼び、この時代にイスラム世界は大きく広がった。領土拡張の戦いは(4       )と呼ばれる。
 実際に大きな征服活動が行われたのはウマル1世の時代で、イスラム勢力の力は強く、シリア、イラクなどの地中海東岸からメソポタミア地方、それにエジプトなどに侵攻し、(5         )と抗争した。(6       )年にはササン朝首都のニハーヴァンドが陥落し(ニハーヴァンドの戦い)、9年後の(7     )年にはササン朝も滅亡した。この間、2代目から3代目への代替わりの時には継承問題で内紛が起こり、結局ウスマーンは暗殺されてしまった。ウスマーンの時代には、ムハンマドの言葉を残そうとコーランも編集されているが、一方で、このような紛争が問題になり始めた時期でもあった。この分裂は4代目アリーの時に表面化した。アリーがイランでハワーリジュ派という少数勢力に暗殺されたのを境に、(8       )派と(9       )派の2派閥に分裂したのである。この派閥は、現在に至るまで別れたままである。 スンナ派の「スンナ」とは、「ムハンマドによって確立された慣行」を意味する。カリフに関してはアリーまでの4代の正統カリフとその後のカリフを正統と認め、教義決定や立法権についてはオラマー(学者)の集団合意と共同体全体の意思を尊重するとしている。また、スンナ派は現在のイスラム教との約9割を占める多数派である。
 一方、シーア派の「シーア」とは「アリーを支持する派」との意味を持っている。カリフについては正統カリフ以降アリーとその子孫のみを最高指導者(イマーム)と認め、教義や立法についてはイマームが政教両権を持ってムスリム全体の合意は認めないとしている。現在、シーア派は全ムスリムの約1割に過ぎないが(10       )など一部の国では多数を占めている。

ウマイヤ朝
 ウマイヤ朝は(1      )年にシリアの総督であった(2         )がカリフを自ら宣言して生まれた王朝である。都は(3       )に置かれ、カリフの世襲制が開始されたのもこの時である。ウマイヤ朝の全盛期はワリード1世の時で積極的な領土拡大により中央アジアから北アフリカ、イベリア半島にまで勢力を伸ばした。711年にはイベリア半島にあった(4          )を滅ぼし、ピレネー山脈を越えて(5       )領にまで侵入した。しかし、(6     )年に(7            )の戦いでフランク王国に敗れたため、ピレネー山脈から南へ退いた。
 ウマイヤ朝はアラブ帝国と言われる。これは、ウマイヤ朝がアラブ人の征服活動によって成立した巨大な征服王朝であるところに起因している。この帝国内でアラブ人は帝国の支配者であり統治者集団であり、戦士・官僚として都市に居住し俸給を与えられるなど、多くの特権を与えられていた。また、国家財政の基本となる(8         )と(9         )も免除されていた。 しかし、ウマイヤ朝はアラブ帝国としてアラブ人と異民族を厳格に区別し、たとえ異民族がイスラムに改宗したとしても税を払うことを強制した。このような異民族改宗者のことをマワーリーと言うが、彼らはイスラム教とであるにもかかわらず税の徴収を免れず、後に不満が表面化していくこととなった。
 ウマイヤ朝の時代ににはアラブ人は積極的な対外進出を行い、交易ルート上の主要都市を占拠したり、や軍事拠点の建設をしたりした。また、このようにして占領された地域はイスラム教の信仰に基づく大変大きな文化圏を形成した。このような地域では公用語として(10         )語が使用され、アラブ通貨が流通し、一体化した地域としての体裁を保っていた。
 しかし、冷遇されたウマイヤ家以外のアラブ人の不満や、スンナ派の支配に対するシーア派の反発、さらには万人平等を説いたはずのコーランに反するとしてマワーリー達が反ウマイヤ運動(アッバース運動)を展開した。その結果、(11    )年にウマイヤ朝は倒れ、そのまま次の(12        )へと引き継がれた。

アッバース朝
 アッバース朝は750年にムハンマドの叔父の子孫にあたるアブー=アルアッバースが(1        )を占領したことにはじまる。この時、反ウマイヤ運動と協力してウマイヤ朝を滅ぼしアッバース朝が成立した。2代目のカリフはマンスールで、ティグリス川河畔にその後のイスラム世界の中心となった(2       )を建設した。アッバース朝の最盛期は5代目の(3         )の時代で、インドやフランク王国などと使節を交換したという記録が残っている。
 アッバース朝はイスラム帝国と呼ばれ、アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝とは支配形態が異なっている。アラブ帝国時代にはアラブ人は集団的支配者として存在し、被征服民はたとえイスラムに改宗したとしても、納税を免除されなかった。しかし、アッバース朝の支配のもとではイスラム教徒の平等が説かれ、全イスラム教徒に対してジズヤを免除する一方、たとえアラブ人であってもハラージュを納めることが求められた。また、要職にはイラン人が進出して優れた才能を発揮したし、トルコ人などは(4          )として軍事機構を支えた。また、カリフの性格も変化し、宗教的意義が強調されるようになった。カリフは正統派イスラム教徒全体の信仰の擁護者として君臨し、カリフ権神授の観念が生まれてきたのである。

イスラム帝国の分裂
 アッバース朝によって統一支配が行われてきたイスラム世界も、アッバース朝の衰退とともに地域分立し、それぞれの国の長が自ら「カリフ」を宣言するようになった。その結果、イスラム地域は大きく分けて3つの国家に分裂した。
 (1        )はアッバース朝が建国後にウマイヤ朝の王族が逃亡してイベリア半島に建てた国である。建国者はアブドアッラフマーン1世で、首都は(2        )に置かれていた。全盛期は8代目のアブドアッラフマーン3世の時代で、カリフを宣言し、ファーティマ朝とアッバース朝に対抗した。その首都であったコルドバは西部イスラム世界の中心地として繁栄した。
 (3         )はチュニジアで建国され、勢力を増してエジプトの侵入し、(4      )を建設して首都とした。アリーと結婚したムハンマドの娘の名ファーティマを用いることによって、彼らはアリーの子孫であると偽った。ファーティマ朝は(5       )派の国家であったため、スンナ派国家であるアッバース朝を否定し、カリフを自称した。ファーティマ朝の首都であったカイロはイスラムの一大中心地として繁栄し、シーア派の最高学府としてアル=アズハル大学なども建てられた。
 一方、アッバース朝が衰退してきたためにカリフの指導力が低下し、カリフは宗教的権威のみの存在へと変わっていった。一方で、イラン人が政治の中枢へと進出して実権を掌握した。このような中で地方が独立する方向で地方軍事政権が多数生まれ、アッバース朝は分裂していった。このような中で、イラン系シーア派の軍事政権である(6      )が(7    )年にバグダードに入城し、武家政治を開始し、カリフは宗教的権威のみの存在となった。その際、ブワイフ朝の君主は、軍事・行政・財政の全権限を握り、意のままにカリフを廃立したが、カリフ制度そのものは存続させた。日本の武家政治ときわめて似ている。これ以降、各地で軍事政権が成立して分裂が決定的となった。

東方イスラム世界
 トルコ民族は従来中央アジアに居住していたが、諸処の理由から西アジアに進出していた。しかし、9世紀にソグド地方まで進んだところでイラン系のサーマン朝によって進行を阻止された。兵士として優れているトルコ人は、この地方にとどまった後、アッバース朝時代に(1         )(トルコ人奴隷)として買われ、兵士として用いられた。
 その後、10世紀に(2          )を建国し、これがトルコ系最初のイスラム王朝となり東・西トルキスタンを併合していった。この時、サーマン朝の影響で、トルコの主要部族は集団的にイスラム教に改宗した。そして、999年には結果的にサーマン朝を征服し、領土を拡大していった。
 カラ=ハン朝に続いて(3         )が建国されて発展した。建国はトゥグリル=ベクで、原所在地は中央アジアのシル川流域であった。セルジューク朝は(4        )年には(5       )に入城してブワイフ朝を打倒した。アッバース朝カリフから(6         )という称号を授けられた。これは、アッバース朝(形式的存在)のカリフがトゥグリル=ベクに対してブワイフ朝打倒を要請したためである。ブワイフ朝打倒後、トゥグリル=ベクはスルタンとして政治・軍事権を掌握した。この後、カリフは宗教的権威として、スルタンは政治・軍事上のリーダーとして分離された状態となった。
 ブワイフ朝打倒後のセルジューク朝は小アジアに進出し、(7          )や(8          )とも戦った。これは後にキリスト教徒が(9         )をおこす原因になった。
  このように急激に領土を拡大したセルジューク朝であったが、12世紀にはいると王家の一族や官僚による小国家に分裂し、地方に土着化した。これは、(10       )制という封建的制度によるところが大きい。
 一方、(11        )は東・西トルキスタンをあわせ、またアフガニスタンの(12       )は北インドに侵入した。このようにイスラム帝国の分裂にもかかわらず、トルコ人の活躍により、イスラム世界は拡大していった。
 その後、モンゴルの勢力が拡大し、(13     )年に(14      )の率いるモンゴル軍によりカリフは殺害されバグダード城は陥落した。これにより形式的な存在であったアッバース朝は滅亡し、カリフ制度も消滅した。カリフは946年以降は実権を失ってはいたが、6世紀以上にもわたって正統派イスラム教徒の統合の象徴であったので、このカリフ制度の消滅によってイスラム帝国も終わりを告げた。
 フラグはイラクとイランを領有し、(15          )(首都:タブリーズ)を開いた。初期は反イスラム教の立場をとり、マムルーク朝と対立していたが、(16        )の時代にイスラム人との融和を目的として、宰相であったラシード=ウッディーンの進言に従ってイスラム教を国教として、みずからもイスラム教に改宗した。彼は、人頭税・家畜税を主とするそれまでのモンゴル式税制を、地租を主とするイスラム式税制に改め、農村の復興に努めた。これによってイラン社会は安定し、フラグのイスラム教保護政策とあいまって、、異民族モンゴル人の支配のもとに、イラン=イスラム文明が成熟した。 しかし、イル=ハン国はイクター制を採用したために有力者が土着化し、地方政権に分裂して衰退していった。

西方イスラム世界
 西方イスラム教世界最初の王朝は(1       )(756〜1031)で、10世紀に全盛期を迎え、その時の指導者がアブド=アッラフマーン3世であった。その後11世紀には小国家が分立していった。
 北アフリカ西部で原住民(2       )の間に熱狂的な宗教運動がおこり、その地域のイスラム化に貢献した。11世紀になると勢力を拡大し、モロッコを中心に王朝を開いた。1056年から(2        )という王朝がはじまり、ムラービト朝滅亡と前後して(3         )が登場。13世紀半ばまで続いた。ベルベル人の活動によって西アフリカ地域はイスラムが進み、さらにイベリア半島へと進出していった。1076年、ムラービト朝は(4        )を滅ぼした。また、(5        )を開いてファーティマ朝を滅ぼし、正統派の信仰を回復した(6       )(サラーフ=アッディーン)は、十字軍からエルサレムを奪回した。サラディンはトルコ人の奴隷を買い集めてマムルーク軍団を組織した。やがてその勢力は強大となり、アイユーブ朝を倒し、1250年エジプトとシリアに(7         )をひらき、進入したイル=ハン国や十字軍も撃退した。
 このころ、イベリア半島ではキリスト教徒がイスラム勢力駆逐の戦いとして(8         )を展開していた。両王朝ともこれに対抗するためにイベリア半島に進出したが、1236年には(9        )が奪回され、さらに1248年には(10       )も陥落した。そのような中で1230年に建国されたのが(11         )(1230〜1492)で、(12      )を首都としたイベリア半島最後のイスラム王朝であった。ナスル朝ではイスラム文化が繁栄し、(13        )が造営された。しかし、(14       )年に(15        )によってグラナダが陥落し、イベリア半島のイスラム教勢力は全滅してしまった。

イスラムの社会と経済
 西アジアのイスラム社会の特徴は都市が農村を支配していたことである。
 アッバース朝期には、政治的・軍事的拠点だった都市は商業活動の拠点となって繁栄した。バグダードやイスファハン、カイロ、コルドバなどはそのなかでも中心的都市で、あらゆる文化の発信源でもあった。このような都市の住民は官僚、軍人、商人、知識人などのイスラム文化の担い手であった。また、都市には必ず(1      )や市場があり、特にモスクはドームやミナレット(尖塔)によって誰の目にも明らかなように建設された。このほかにも文化的中心としてマドラサ(学院)が各地に建設され、イスラム教気の研究や法学の研究、教育などが行われた。
 アッバース朝時代には治水や潅漑事業に力が注がれた結果、麦や米、ナツメヤシやオリーブなどの農業生産力が向上した。また、農業の発展と並行して織物業も発展した。
 一方、商業分野ではムスリム商人の積極的進出と活躍によって遠隔地交易が発展し、それと同時にイスラム教の布教も行われた。陸路では隊商を組んで内陸アフリカや南ロシア、遠くは中国までも交易に出かけていたし、海路では地中海やアフリカ東岸、インド洋から東シナ海にかけての非常に広い地域との交易接点を持っていた。この時売買された品目も多岐に渡り、北ヨーロッパ産の毛皮や東ローマの金銀製品、インド産の綿布、東南アジア産の香辛料、さらには中国の絹や陶磁器も貿易されていた。
 アッバース朝の時代にはシャリーヤ(イスラム法)の体系化も行われ、イスラム的な秩序と安定が確立された時代でもあった。
 9世紀の半ば以降、マムルークが軍隊の主力となったことは国家の財政を窮乏させ、軍人勢力の増大は徴税を担当する官僚を弱体化させた。そこでブワイフ朝はバグダードに入城すると、各人の俸給額にみあう金額を徴収できる土地の徴税権を軍人に与え、直接農民から徴税させた。これを(2       )制という。イクターとはもともと、国家から授与された分与地、あるいはそれからの徴税権を意味する。イクター制はセルジューク朝のときに西アジアに広く施行され、イル=ハン国、デリー=スルタン朝、ティムール朝、オスマン帝国、ムガル帝国、サファヴィー朝で同様の制度が行われた。
 また、10世紀頃から、信仰の形式主義化に対する批判として、とくに民衆のあいだに内面の信仰を重んじる(3        )がさかんになった。

インドのイスラム化
 インドでは8世紀の初め、ウマイヤ朝が一時シンド地方を征服したが、その支配は長続きしなかった。イスラム教徒による本格的なインド支配が始まったのは、アフガニスタンにトルコ人の(1        )(962〜1186)・(2        )(1148〜1215)が建設されてからである。両王朝ともに外部から進入したイスラム王朝であったが、ゴール朝のアイバク(マムルーク出身)は13世紀の初めに自立して、インド最初のイスラム王国である(3        )(1206〜90、都:デリー)をひらいた。この王朝の名はアイバクをはじめ、3人のスルタンがマムルーク(奴隷)であったため、こうよばれる。他にも有力な軍人にはマムルークが多かった。その後、ムガル帝国の建国まで、北インドにはデリーを都とする5つのイスラム王朝が続いたので、この時代を(4        )(奴隷王朝・ハルジー朝・ドゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝)という。デリー=スルタン朝のうち、最初の4王朝はトルコ系、最後のロディー朝はアフガン系であった。
 インドに侵入したイスラム王朝は、最初は民衆にイスラム教を強要し、各地でヒンドゥー教の寺院や神像を破壊した。しかし、デリー=スルタン朝の時代になると、インドの伝統的な社会機構をくずさず、その上に立って君臨するという現実的な政策がとられ、ヒンドゥー教徒に対しても比較的寛大であった。

イスラム世界におけるイラン人とトルコ人
 イラン人は、政治においては アッバース朝成立時の推進力となったし、武家政治を開始したブワイフ朝を建国したのもイラン人であった。また、諸王朝で行政手腕を発揮して、優れた政治を行った。文化的な面ではイスラム文化の中心的な担い手であったし、詩を中心としたイラン文学はイスラム世界の諸宮廷文化に影響を与えた。
 一方、マムルークの売買を引き受けていたのはイラン系の(1        )(874〜999)だった。この国がスンナ派を信仰していた影響でトルコ人もスンナ派を信仰した。このトルコ人は政治分野ではマムルークとして採用されたのを皮切りに集団的にイスラム教に改宗し、(2        )朝時代には支配者層として東方イスラム世界の主役として君臨した。しかし、文化的活動はさほど見られない。

イスラム文明の特徴
 イスラム帝国の建設されたところは、古くから多くの先進文明の栄えた地域であった。イスラム文明は、征服者であるアラブ人のもたらしたイスラム教とアラビア語を軸にして、征服地の住民が祖先から受け継いだ文化遺産にいろどられた(1     )文明である。融合文明の典型的な例としてはエルサレムの「(2        )」やアラブ文学の代表作ともいえる(3          )がある。
 また、イスラム文明は(4        )文明という性格も持っていた。したがって、この文明はイスラム世界のいたるところで受け入れられ、やがて各地で地域的・民族的特色を明らかにし、イラン=イスラム文明、トルコ=イスラム文明、インド=イスラム文明として発展する。
 また、本質的にイスラム文明は都市の文明であり、その主な担い手は商人であった。写本の装飾文字や挿し絵として(5         )がよく発達した。装飾文様では幻想的な(6        )などが特に有名である。

イスラム教徒の学問
 歴史学の分野では(1        )が、遊牧と定住という観点から世界史を叙述した「世界史序説」や、(2        )が書いた「集史」などがある。9世紀以降はギリシア語の文献がアラビア語に翻訳されて以来、医学・天文学・幾何学・光学・地理学を学び、さらにそれらを豊富で正確なものにした。インドからも数字・十進法・ゼロの概念を学んだ。代数学と三角法は事実上イスラム教徒によって開発された。この分野での第一人者は(3        )でアラビア数学を確立した。また、詩人(4        )は(5        )トという四行詩集を著した。また、彼は数学・天文学にもすぐれ、太陽暦の作成もしたが実際には使用されなかった。
 地理学分野ではイブン=バトゥータが三体陸周遊記という書物を残している。
 イスラム教徒はギリシア哲学のなかで特に(6        )の哲学を大いに研究した。神学者としては(7        )がスンナ派の教義にイスラム神秘主義(スーフィズム)を導入したことで知られる。哲学者かつ医学者として(8         )(ラテン名:アヴィケンナ)と(9        )(ラテン名:アヴェロエス)がある。

人と物の東西交流
 イスラム帝国は広大な領土を形成し、その地域全体をイスラム教化地域、アラビア語圏としたために広範な交易活動が展開された。陸路では隊商貿易が海路では商船貿易が盛んに行われていた。
 中国・東アフリカ・東南アジアの港や内陸アフリカの集落にはイスラム商人の居留地が作られ、中国では彼らをタージー(大食)と呼んだ。
 イスラム教徒は(1        )の際に唐軍の捕虜から(2        )を学び、やがてそれはイベリア半島やシチリア島を経てヨーロッパに伝えられた。また、中国起源の(3        )や(4        )がヨーロッパに伝えられたのもイスラム世界を経由してであった。インドから西アジアに伝えられた(5      )や(6      )十字軍の将兵によってヨーロッパに伝えられた。

【参考図書】
山川出版「詳説 世界史」
日本実業出版社「早わかり世界史」