がん患者・家族語らいの会07.5月号掲載


法話・南無阿弥陀仏の如来

浄土真宗とは、宗祖である親鸞聖人が理解された『大無量寿経』に説かれている教法のことです。親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願をどう理解されたかと言えば、阿弥陀如来の本願には、人としての生き方が語られず、すべてのいのちあるものを救うという慈しみの如来であると理解されたのです。お経にはその大悲を“無蓋(むがい)の大悲”とあります。蓋とはふたのことです。ふたは常にふたをされる側の条件を規定しています。条件が合わないとふたにならないからです。無蓋とは条件を問わないということです。なぜ無条件すなわち生き方を示されないのか言えば、いのちあるものに理想的な生き方を語ることは、目の不自由な人に、前をもっと見て歩けと告げるようなもので、その人の安らぎとはならないからです。そのまま救われるしか救われようのない存在、それが私の本質であるということです。

濁流のごとき煩悩の洪水に沈む私に、強くあれ、賢くあれ、負けるな、がんばれと人間の理想的なあり方を強要せず、濁流に流される営みの中で、濁流に流されるままの私を、つかみ取って離すことのない慈しみの如来がまします。その阿弥陀如来の願いや働き、また阿弥陀如来の存在の証としての名号(南無阿弥陀仏)を私に告げる説法が『大無量寿経』であるというのです。

阿弥陀如来が理想的な生き方を説くことを断念し無条件の救いを願われたことは、私には仏になる可能性がなく、その私の上に、もし仏との交わりや仏の香りのするものが1分でも備わっているとしたら、それこそ、阿弥陀如来の働きの賜物であるということです。

ダライラマの自覚

私たちは何事も自分の自由意志で、考え行動しているように思っています。しかし自由意志のように思っていることでも、その思う背景には、そう思う原因や他からのさまざまな影響があって一つのことを思うという事実が整います。このことは反面からいえば、一つの決意を結ばせるには、そのような決意にいたる原因と影響力を駆使すれば理論的には可能です。マインドコントロールも同じことです。このことをもっとも象徴しているのはダライラマの「転生」です。といっても私の考えですが。

チベットのダライラマは代々、転生(生まれ変わり)によって地位が継承されていきます。一人の男の上に「ラマ僧」(高僧)としての一念をどう発起させるか。転生は、非常によく考えられている仕組みです。
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天皇陛下も同じことです。天皇の自覚は、天皇の子とした誕生したという事実が、後の帝王学以上に天皇としての自覚を育てるのです。本願寺派の門主も同じです。親鸞聖人の家系に生まれたという事実が、門主という自覚の上には決定的に重要なことです。誰でもなれるとなれば宗門のリーダーしての自覚は育ちにくいはずです。

チベット仏教僧は、生涯独身なので何百年という壮大な伝統の仕掛けである「転生」を通して高僧としての自覚を生起させます。

現在のダライラマは、西暦1933年ダライラマ・トゥプテン・ギャッオ(13世ダライラマ)の転生だといわれています。転生者ダライラマの誕生は次の通りです。

13世ダライラマの死後、遺体はラサにある夏の離宮ノルブリンカの玉座に南面して坐らせてあったが、数日後、その顔が東に向きを変えていたのが発見された。また遺体を坐らせてあった聖堂の東北側の木の柱に、星の形をした大きなキノコが突然現れ、ラサから見て東北の空に、奇妙な形の雲が見うけられた。これらの証拠により東北の方角に新しいダライラマを探し求めることに決定した。

 1935年、摂政はラサの南東約90マイルの地点、チョコルギャルにあるラモイ・ラツォという聖なる湖へ行った。チベットの人々は、この湖の水面に将来の状況を見ることが出来ると信じていた。

使者は湖畔で祈りと黙想のうちに数日を過ごした。そのあと、彼は水面にヒスイのような緑色と金色の屋根のあるお寺とトルコ石のような青緑色の瓦ぶきの家の風景を見た。これらの状況の描写は、詳細に書き留められ、翌年、その秘密を携えた高僧高官たちが水面に見た場所を探すためチベット全土に派遣された。

そしてある町で二歳になる男の子が見出されたのです。

 一行の二人が変装して下級僧官が隊長のふりをし、セラ寺院の高僧ケツァン・リンポチェは貧しい着物を着て召使役をつとめた。小さな男の子は高僧を見た瞬間、彼の所に行って膝の上に坐ろうとした。その高僧は子羊の毛皮を裏につけた着物を着て、変装していたが、彼は首のあたりに13世ダライラマが使用していた数珠を掛けていた。男の子は、数珠に見覚えがあるかのように「それを下さい」とねだったという。高僧は「もし、自分が誰だか当てることができたら、この数珠をあげよう」と約束した。男の子はセラの高僧だと言い当てた。

また後日訪れてテストは重ねられた。幾重にもめぐらした審査を通して「あなたは転生者である」と指名された。

「あなたはダライラマ13世の転生者である」これがダライラマの自覚を起こさせる重要なことなのです。

思えることの背後にあるもの

もっと身近に「思える」ことの考えて見ます。

フランスのバロンコーエンは、子どもの心の発達を年齢別に研究された学者です。

 赤ちゃんが誕生する。そして対人関係は微笑の交換から始まる。赤ちゃんがニヤッとするあれです。そして心の発達は、45ヶ月になると、親が赤ちゃんの側にいることを要求します。親が幼児からは離れるとぐずります。56ヶ月になると、今度は抱っこやお乳など、何かしてして欲しいと要求します。何かをしてもらうことの中に、幼児は安心を見出していくのです。67ヶ月になると、何かしてあげるだけでは不満で、親がそのことを喜んでしてくれることを要求します。気持ちが外を向いていて形だけあやしても、安心できないのです。

 葬儀のときによく経験することですが、幼児を抱っこしている親族が、会葬者に目礼をしながら幼児をあやしていても、幼児はぐずるばかりで式中、泣いていることがあります。親の気持ちが幼児を離れているので、幼児は安心できないのです。

 このようにして幼児には、この人が自分の親であることが刷り込まれていくのです。子が親を親と認識するその背後に、親の努力があるのです。

 もう少し例話を用いてお話します。
 本願寺立の現京都女子大の創立者である甲斐和里子さんにまつわる逸話です。
 それは昭和十四年のことです。当時京都女子大は京都女子高等専門学校と呼ばれていました。女子教育界で大変高名であった女史の人徳を慕って、全国から優秀なお嬢さん方が受験に来られた。
 入学試験は、まず筆記試験がありその試験に合格した人たちに、甲斐校長ご自身が一人一人と面接する。
 先生の口頭試問は、いつも決まって訊ねたことがあったと言います。それはあなたは昔から現在までの世界中の女の人の中で、誰を尊敬しますか。その方の名前を言ってごらんなさい≠ニのことでした。
 それが毎年繰り返されるので、試験を受けに集まってくるお嬢さんたちは、あらかじめ先輩からそのことを聞いており、先生から聞かれたらこう答えようと用意して面接に来たといいます。

 さてその年も沢山のお嬢さん方が全国から試験を受けに集まってきました。筆記試験に合格した人は、一人ずつ校長室に入って面接を受けます。
 一人のお嬢さんが校長室のドアを開けて入ってきました。そのお嬢さんは、一目見て貧しい家庭のお嬢さんだなということが分かった。

 他のお嬢さんは、自分を少しでも立派に見せようと、今日のために仕立てた上等の着物を着ていたが、そのお嬢さんは、着古した着物を着ているばかりか、着物のあちこちに繕いをした後があった。しかし校長先生の質問には、今までの誰よりもはきはきと立派な答えをしたといいます。先生も心の中で、ずいぶんしっかりしたお嬢さんだなあと感心しておられた。

 いよいよ最後に校長先生が「あなたは世界中の女の人の中でいったい誰を一番尊敬しますか」とお訊ねになりました。
 すると今まで立派にはきはきと返事のできていたお嬢さんが、どうしたことかうつむいてしまった。校長先生は答えを考えているんだろうとしばらく待っていましたが、一向に顔を上げる様子がない。そこで先生はやさしい言葉で「もし尊敬する人がなかったならば無理にお答えしなくていいですよ」と言われた。

 その甲斐先生の声でやっとのことで顔を上げたが、両目に涙が浮かんでいる。不審に思われながら甲斐校長はもう一度「あなたは誰を尊敬しますか」と同じ質問をされた。

 すると目には一杯涙を溜めているけども、お嬢さはしっかりした声で「先生、私は世界中で私のお母さんを誰よりも一番尊敬しています」と答えたのです。

 これには校長先生も驚いて、「あなたのお母さんは、そんなに有名な方なのですか。一体何をなさっているのですか」と聞かれました。するとそのお嬢さんは言われたそうです。

 「いいえ先生、私の母は、世間に名前が知られているような有名な人でもなんでもないのです。片田舎で農業を営んでいる一人の平凡な女に過ぎません。しかし私はこの母を世界中の誰よりも尊敬しています。
 と申しますのは、私の母は、私を小さい時分から女手一つで育て上げてくれました。私が生まれるとすぐ父が死んでしまったのです。それからというもの母は男にも負けない働きをしました。朝早くから夜遅くまで、それこそ汗と泥にまみれて真っ黒になって働きつづけてくれました。私は小さい時分から、そうした母の苦労という苦労を見て育ちました。そうした大変な暮らしの中から、母は私を女学校まであげてくれたのです。私は学校を卒業したら母に代わって働いて、母を一日でも早く楽にさせ幸せになってもらいたいということを一日として思わなかったことはございません。

 ところが女学校も卒業が近づいてまいりましたある日、学校から帰ると、母がそこに座ってちょうだいと改まって言うのです。いまはお母さんの言うことを何も言わずに素直に聞いてちょうだい。お母さんはね、先生にお聞かせいただいたんだけど、お前は成績も飛び抜けていいということで、本当に嬉しいよ。お母さんは前々から思いつづけていたんだけど、お前が学校を卒業したならば、お前にもう一つ上の専門学校まで進んでもらいたい。お前も知っての通り、京都女子高等専門学校には甲斐和里子先生という立派な先生がいらっしゃる。お母さんね、ぜひともお前に甲斐先生の学校に進んでもらいたい。これがお母さんのお願いだから、どうか何も言わずに聞いてちょうだい≠ニ言われました。私はそんな母を誰よりも尊敬しています」
 娘の心に「母を一番尊敬している」という思いが沸き起こった。その背後に母の子に対する願いや働き、努力があったのです。

「母を一番尊敬している」という思いが沸き起こることと、その思いが沸き起こる背後に母の願いや働きがあったことに心が開かれていくことは内容を異にしています。心が開かれるとは、より広やかな恵みの世界に意識が開放されていくことです。浄土真宗では信心を大切にします。それは念仏を称えることよりも、称えることを通し、その背後にある如来の願いや働きに心が開かれていくことを重要視しているということです。

親鸞聖人は、「お母さん」と当たり前のように私の口に出る背後に母の努力があったように、私が「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来の名を口にする背後に、広大な阿弥陀如来の努力があったと教えて下さった方です。

「南無阿弥陀仏」と称えることを、阿弥陀如来の働きの賜物であると受け入れる素地に、「仏とは無縁な私である」という自己に対する見極めがあります。仏と無縁な自分であるという凡夫の自覚が、念仏を阿弥陀如来の働きの賜物を実感させるのです。私は、阿弥陀如来の働きを重大視する浄土真宗は、「仏とは無縁な私である」ことに気づかせ、私への執着から解放させることをも目的とした仏道であると考えています。

先の甲斐和里子さんの歌に次のようなものがあります。

み仏のみ名なを称えるわが声は  わが声ながら尊かりけり

 凡夫の私の上に「南無阿弥陀仏」と念仏を称え、仏に頭を垂れるという所作がある。これは阿弥陀如来を尊い働きでしたと如来を実感している歌です。また

み仏をよぶわが声はみ仏の     われをよびますみ声なりけり

阿弥陀如来は「南無阿弥陀仏」の名号となって私の身の上に至り届き、その念仏を尊いと実感させることを通して、私の愚かさを明らかにし弥陀の慈しみの中に摂取する。これが阿弥陀如来の企てです。

07.3.10の追悼会の法話概要)

ダライ・ラマ14

2才の時に第13世ダライ・ラマ、トプテン・ギャツォの転生と認定される。1959年に隣国のインドへ政治亡命。現在、インドにチベット亡命政府を樹立。1989年、世界平和やチベット国家の平和的な樹立に対する運動が高く評価されノーベル平和賞を受賞。

●甲斐和里子(かいわりこ18681962年)

1868(明治元)年、同志社女学校卒業後、明治32年、京都市下京区花屋町上ルに仏教精神に根ざした「顕道女学院」を設立、1910(明治43)年に京都高等女学校へ発展する。その後、退職する1927年まで一人の女学校教師として学生の指導に当たる.