ジェンダーを考える(2011.5月ブログより)


ジェンダー視点を考える

 

週刊ポスト(2012.5.11号)が、“日本の宗教「カネ」と「実力」”と言う特集を組んでいました。早速購入してみましたが、島田裕巳氏が、既成仏教の葬儀についてふれていましたが、世の中の流れは、「宗教」には「既成仏教・既成キリスト教」が入っていないという理解のようです。

 

その特集の中に“「政治化する宗教」それぞれの事情”の記事がありました。表面的な関心事をさらっと記事にしただけでした。昨日、少し古い本ですが『最強集票軍団の解剖―創価学会婦人部』(創価学会問題研究会・五月書房2001.7刊行)を読みましたが、この本には、選挙運動の実態に近いことが書かれていました。

 

創価学会では、創価教育学会から創価学会に改名した1951年の翌年、「第一回本部婦人部委員会」を開き組織の重要な位置づけにしています。

 

なぜ女性なのか。記事には次のようにあります。

 

 

立正佼正会(本部=東京・杉並)や生長の家(本部=東京・渋谷)などもそうだが、戦後になって興隆した創価学会などの新興宗教は、都市型宗教ともいわれている。人が密集する都市を中心に布教を展開し、会員を増やしていったからだ。日々、仕事に追われる男性に比べて、時間が自由に取れて物事をあまり深く考えない婦人は、命令されるまま、組織活動の原動力になる。婦入部の強化に力を注いだのは、教団運営の巧みさであろう。(以上)

 

“命令されるまま、組織活動の原動力になる”は言い過ぎだと思いますが、確かに、その時代は専業主婦という時間が自由にできる主婦層が多かったのは事実です。

 

そして選挙は得票数という具体的な数字が出るので、目標設定しやすいという利点もあります。その婦人部が、どのようにして選挙運動に絡んで行ったが、その具体的な状況が説かれている本でした。

 

十把一絡(じゅっぱひとからげ)で、人を判断することは暴力に等しいことですが、概して女性はおしゃべりだと思います。それは対社会に対しての適応力なのか、それとも生命力なのか不明ですが、創価学会や立正佼成会などの新しい宗教団体が拡張していく原動力となったことは、“がいして女性はおしゃべり”であることと関係がありそうです。

 

ずいぶん前の冊子(1996.5)ですが本願寺派発行の『性差別』を開いてみました。その冊子の中に、女性識者の対談が掲載されています。その対談で女性の宗務員輪袈裟についてのコメントがあります。

 

以前は宗派の宗務員(本願寺職員)の間で、得度していても女性僧侶には、宗務員輪袈裟の貸与はなく、宗務員門徒式章だけの貸与であったという。得度した女性僧侶の僧形は排除されていたとのことです。いまでも少しその傾向が見られます。(そのことがよいか悪いかは別の問題です。)

 

このことをどう考えるかについては2面あるように思われます。1つは明らかに何らかの女性差別です。もう1つのことは、その女性差別は、門徒式章よりも輪袈裟の方が権威が上であるという差別構造の上にあるという問題です。女性僧侶も男性僧侶と同じ地位を与えられるべきだという、そのこと自体が差別構造の中にあるということです。

 

同様に「女性僧侶は男性僧侶に比べ低く見られる」も同じです。僧侶は権威的存在であるという非仏教的な考えを肯定した上に、女性が低く見られるということがあるとすれば、打破しなければならない問題は、僧侶イコール権威的存在であるとする考えそのものです。

 

権威をすべて否定するつもりはありません。都市化した社会においては、1つの権威が有効は機能を持っています。学校の先生である、医師である、そういった社会的な権威をあてにして人間関係が成り立っています。

 

寺院も同じです。伽藍が大きい、歴史があるといった権威は、単なる絵空事ではなく、信頼できる存在であることの証しでもあります。

 

しかし権威は苦しみの現場では、なんら役に立ちません。苦しみを聞かせて頂く場で、「私は博士だから」といっても邪魔になるだけです。権威は、権威が意味を持つ分限があるのです。

 

話を最初に戻しますが、現代社会の中で、“僧侶イコール権威”という構図があるとすれば、それは僧侶の活動がいかに苦しみと隔たった場所で行われているかの証しでもあります。

 

 “宗務員は「女性は式章、男性は輪袈裟」”は、世間のジェンダーの構図が、そのままは宗門内に反映されているとも言えます。いや世間よりも権威意識は強いでしょう。

 

中外日報(24.4.19日号)に、川橋範子氏が「『肉食妻帯140年』再考」と言うタイトルで執筆されていました。興味ある内容なので、概略ご紹介します。(中外日報ホームページからの転載です)ご本人は、曹洞宗に所属されておられるようで、主に曹洞宗に関する内容でした。

 

今年は1872年の政府による「肉食妻帯勝手」の太政官布告から140年目に当たる。(中略)

 

教団がなし崩し的に「妻帯容認」に移行するのではなく、真摯に出家道を実践している人々を正当に評価したうえで、自己批判と現実把握をふまえた在家教学を構築すべきであると考えている。(中略)

 

また、今年の2月に開かれた宗議会では、曹洞宗寺族規程中の寺族の任務規程の文言変更案が可決された。現行の条文には「寺族は、住職を補佐し、寺門の興隆、住職の後継者の育成及び檀信徒の教化につとめなければならない」とあるが、変更案では、条文の前半部が「寺族は本宗の宗旨を信奉し、住職に協力し、ともに〜」と改められた(『中外日報』2012228日号参照)。

しかし、この規程変更について、筆者の知るある地方役職者の僧侶は、「住職と協力し」ではなく、「住職に協力し」であるところに歴然とした主従関係を感じる、と指摘していた(『月刊   寺門興隆』20124月号に掲載された特集記事も参照されたい)。

さらに、現行とそれ以前の真宗大谷派の寺院教会条例が定める坊守の任務は、「住職の補佐」としてではなく「住職とともに」寺院の興隆発展に努めるとなっている。それにもかかわらず、男女両性で形作る平等な教団を理念にしている大谷派でも、ジェンダー不平等は顕在化している(中略)

 

言い換えれば、文言の修正だけが問題を解決することはなく、求められるのは、宗門構成員の意識の変革である。男性僧侶が制度の中の抑圧や不公正の問題に、それを作り出した当事者として向き合い、自らの課題として寺族と「ともに」ジェンダー平等的な教団の構築にかかわっていくことこそが必要なのである。(後略)

 

本願寺派においても、僧侶間のジェンダーの問題、坊守と住職の問題、また在家仏教であるにも関われず得度するという、僧侶をどう考えるかと言う問題がありますが、共通するのは、僧侶の権威意識です。

 

川橋範子さんの“寺族と「ともに」ジェンダー平等的な教団の構築”に対してではないのですが、以前から僧侶や寺族のジェンダー平等が語られるとき、引っかかっていたものがあります。

 

それは権威や力関係の優位・劣位関係があるかぎり、平等化はどこまでいっても、劣位の側からの優位側への同化、すなわち本願寺宗務員でいえば、女性僧侶宗務員の男性宗務員化という権力や権威社会での秩序の価値観への同一化、「女性の男並み化平等」ではないかという疑問です。

 

『異なっていられる社会をー女性学・ジェンダー研究の視座』(金井淑子)に、

文中で赤川学(東大准教授・社会学者)氏の『ジェエンダーフリーとは、「特定の性役割や家族モデルを採用することではなくて……望まない性別や性役割を他者から強制されない権利」であり、「特定の性役割や家族モデルを採用することで誰かが利益を得、誰かが損をしている状況を改めることであるはず」』をお引用し次のように述べています。

 

 赤川が、ジェンダーフリーを「性別・性役割からの自由」としてだけではなく「性別・性役割への自由」として立てていくべきことを提案している視点は、新しい社会像の構築にとって不可欠の視点とすべきであろう。

 

…ジェンダーの視点に立つ新しい社会の理念的課題は、「差異の承認」であり、「不安なく異なっていられる社会」ということになろう。男であることも女であることも、性的マイノリティであることも、障害をもっていることも、さらに高齢であることも含めて、人がその属性によってあるいは生き方によって、いかなる差別も抑圧も強いられることがない社会である。したがってそれは、男女の多様なライフスタイルと自己決定権が保障される社会である。「不安なく異なっていられる社会」という理念の上に、福祉や社会政策の制度設計が図られるには、どのようなことが政策的に課題となってくるのか。福祉の課題目引きつけて言えば、それはどこまでも、当事者の自助や自律、さらに自尊感情が尊重されることにある。(以上)

 

とある。ジェンダーフリーが、男女平等であり、同時に男女が違っていられる自由だという。「ともに」という内容が問われているということです。共にが「不安なく異なっていられる社会」の構築が目指されるべきなのでしょう。

「ジェンダーの視点」という用語があります。男女の違いの多くは、社会的・文化的に作られたもので、絶対的でも普遍的でもないというものです。

&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング』(日本女性学ジェンダー研究会編集)を読みました。ジェンダーの視点で見ると、お父さんが大きく一番上に泳いでいる「こいのぼり」も、男らしさが色濃く出ている文化だという。普段気づかないことに気づかされました。

同書を読んでの感想は、ジェンダーフリーバッシングする側は、今まで日本で培われてきた「みんな一緒」という文化が壊れていくことへの危惧がるようです。ジェンダーフリーを主張する側は、人の生き方の多様性を認め、自分らしさが尊重されていくか社会の実現を目指しています。

以前読者からフランスの「今や新生児の半分以上が未婚のカップルから生まれるという国では」関連で「PACS(パクス)・市民連帯協約」についてのご指摘を頂いたことがあります。

市民連帯協約とは、1999年にフランスの民法改正により認められることになった「同性または異性の成人2名による、共同生活を結ぶために締結される契約である」(フランス民法第515-1条)です。

異性あるいは、共同生活を営むカップル(内縁者)を対象とし、同性カップル、異性カップルを問わず、法的婚姻関係になるカップルと同等の権利を認め公証する制度です。

当事者自身が相互の権利と義務の関係を決め契約内容にした契約書を自由に作成し、それを裁判所に提出して公証してもらう。契約破棄(離婚に相当)は、両者の同意は不要で一方からの通告のみでよいことになっています。

上記の本を読んでいて思ったことは、「PACS(パクス)・市民連帯協約」のことです。この協約はジェンダーフリーの延長線上にあります。

では実際日本でも「PACS(パクス)・市民連帯協約」が施行されるとしたらどうでしょう。おそらく日本社会が混乱するでしょう。それはフランスと日本での自由に対する考え方、成熟度が異なります。自由には自己責任が伴いますが、現状の日本では、自由イコール欲望の肯定で、表層的な自由の謳歌に走ることが予想されます。

 

母性ということ

母性という概念も、ジェンダーと同様に、女性の身体に備わっている(もしくは潜在的に備わっていて、その発現をまっている)という本質主義的立場と、それは身体のあり方も含めて社会的に構築されるのだという社会構築主義があり、浄土真宗の僧侶は、阿弥陀如来の慈悲を母性に関連づけて使うので注意が必要です。

母性が女子の特性であるという決めつけの中には、女性はみな、母親の成るものだ、母親はみな、わが子を愛する者だ。子どもはみな、実母の愛を必要とするものという社会的な制度の強要があります。

話が定まりませんが、今から35年前、梅原猛さんが『母性社会日本の病理』(1976/1)を書いています。

父性原理に基づくキリスト教は、強烈な母の否定の上に成立している。そこでは神との個別の契約関係を結んだ上で自我が育まれるため、「個」という概念が生まれる。だから、欧州社会では「個の倫理」が発達した。一方、日本社会では「場の倫理」が尊重される。「場」の力の本質は「母性への回帰」でり、「全てを包み込む」というイメージである。

「平等」・「公平」に対する考え方についても日本と欧州の違いは明白である。
個人の「差」を前提にする欧州では小学校でも落第があり得るし、それが「親切」な制度である。
しかし、日本でそれは考えられない。日本においてその差は「差別」となるからである。ここにも、無意識的な母性原理が働いている。
このまま徹底的な合理主義が世界を覆い尽くしていくならば、欧州型の「個」を体得しなければならない。
そうした土壌を持たない日本人に果たしてそれができるのか、疑問であるという。(以上)

日本人の「みんな一緒」の中につかり、欧米型の個の考えが未成立な状況下でのジェンダーフリーが理想的な形で実行されると、形だけ真似して、結果的に新しい差別が生まれる可能性があります。

新しい差別とは、「みんな一緒」型の人の排除です。読み込みが甘いかもしれませんが本で触れる限りでは、ジェンダーフリーを推進する人たちは、どちらかと言えばジェンダーフリーという形よりも、「その人らしさ」が大切にされる社会を目指していて、そのためのジェンダーフリーのようです。

 

先に書きました、「女性はおしゃべりらしい」について、赤川学氏の『構築主義を再構築する』に次のようにあります。「性差をどう考えるか」に「話を聞かない男・地図を読めない女」の小タイトルが付けられ、アランーピーズというジャーナリストが書いた『話を聞かない男、地図が読めない女』という本を引用してあります。

 

 

・女性は精巧な感覚能力、男性は距離を測る空間能力に優れる。

・男の話し言葉は短く、論理的な構造がしっかりしている。単刀直入に話がはじまり、要点を押さえて、結論をはっきり述べるので、何か言いたいのか、何を望んでいるのかわかりやすい。しかし一度にたくさんの話題を出すと、男は混乱する。

・女の脳は左右の連絡が非常によく、発話を担当する区域もはっきりしているので、いくつもの話題を同時に語ることができる。(以上)

 

『話を聞かない男、地図が読めない女』は、ドリーンーキムラという自然科学者が書いた『女の能力、男の能力』をネタ元にしたと思われる記述が多いとのことで、この本の中に、社会学の観点からみても興味深い統計があると紹介されています。

 

 

それはイギリスにおける職業、教員の男女比を見ると、言語能力が求められる教科(外国語など)を教える教員の比率は女性が圧倒的に高いが、空間能力を必要とする職業や教科では男性の比率が高いとあります。

 

どうも女性はおしゃべりというよりも言語能力にたけているのかも知れません。

 

赤川学氏の『構築主義を再構築する』は、ジェンダーをどう考えるかと言う論文集のような本です。

 

構築主義の言葉の意味は、性差ではなく生得的ではなく獲得的、あとから社会の影響を受けて構築したものであるというものです。

 

その章の結論らしきものは、次の通りです。

 

 

構築主義的ジェンダー論者が、性差の生得性に対して異様なまでに警戒感を示してきたのは、「男女に差異はあるか」という問いが、「性差かあるなら、違った処遇がなされて当然だ」という前提を伴ってしまうことが多かったからだ。(中略)

 

しかし、他のマイノリティ問題に目を転じてみれば、この種の議論の馬鹿馬鹿しさがよくわかる。たとえば有色人種。先の構築主義Iの主張は、有色人種が白人に対して劣等な地位に置かれているときに、「有色人種は白人と同じである、だから同じ処遇を要求する」と主張するようなものだ。たとえば障害者。先の構築主義Iの主張は、障害者が健常者に対して劣等な地位に置かれているときに「障害者は健常者と同じである。だから同じ処遇を要求する」と主張するようなものだ。どちらも、論理的にはありうるが、運動のありかたとしては、やはりおかしい。なぜならここでは、有色人種と白人、障害者と健常者には違いがあるとして、その差異を認めてなお、どの点において異なる処遇を受けることが正当であり、どの点においてそうではないのかという問いこそが、問われているからだ。(中略)

 

われわれの目指すべきものは、「性差がある。だから異なる扱いをすべき」という本質主義でも、「性差はない。だから同じ扱いをすべき」とする構築主義でもなく、「性差はある。だからこそ、同じ扱いをすびき」という、別の平等論なのである。(以上)

 

 

読んでいて論点が明白で興味深かった。浄土真宗でも「違ったままで平等の救い」を説きますが、それを社会の中で実践しよういうのが赤川学氏のジェンダー論のようです。

 

先に「女性僧侶も男性僧侶と同じ地位を与えられるべきだという、そのこと自体が差別構造の中にある」と書きました。ジェンダーフリーそのものが差別構造の中にあるとしたら、そこには新しい差別が生まれてきます。