本願寺第23代 勝如上人(大谷光照前門主)の思い出

勝如上人の年表に
【ご門主退任後も希望に応じて全国の寺院を回られたが、五十七年からは宗祖のご命日法要にあわせて毎月中旬に数日間、東京・築地別院へ出向され、首都圏の開教につとめられた。 】
とあります。
 私は当時、築地別院に勤務しており、その折りに、前門主さまの侍僧を拝命しました。以下は、思い出に残る折々の断片です。

お人柄

● 東京ご駐在の名目は、都市開教のためでした。そのため何度か、布教所の視察にご同伴致しました。伝道車の中では、地図を広げるのが常でした。先の大戦の折り、自動車部隊に所属されており中国大陸をトラックで行き来したとき、あるいは20年に亘る全組ご巡回の折りに身に付けたものだと思われます。
 茅ヶ崎布教所(現・恵光寺)に視察に行った折りのことです。布教所は賃貸住宅ですから、懇談も本当に狭い狭い居間でした。話しが進む中、坊守さんがコーヒーが出してくれました。1つのテーブルを囲み、都市開教部員もご一緒させて頂きました。前門さまはコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき回すことなく召し上がれます。「前門さま、スプーンはお使いになられませんか」とお尋ねすると、すこしはにかみながら、「甘いものは制限しているので、最後に沈殿している甘い部分を少し楽しむんですよ」と仰いました。

● ある日、お着替えをお手伝いしていると、クリーニングから戻ってきた白衣の裾丈が少し短くなっています。「前門さま、白衣が少し短くなりました。いかが致しましょうか」とお尋ねすると、すこし待って下さいと、隣室におられた前裏方様の所へ尋ねに行かれました。戻るなり「私もこれから、すこしづつ背丈が小さくなるからいいでしょうとのことです」とのことでした。仲のおよろしい一面を伺い知ったことでした。

● そんな前門様ご夫妻もお若いときは、私どもと同様、火花が散ったこともあるようです。先輩から聞いた話です。
昭和20年代、ご夫妻でハワイへ行かれ、お戻りになってからのことです。別院の役宅家族一同を集め、ハワイで撮ってきた8ミリビデオの映写会となった。コマの進むに合わせ、当時のご門主であった前門様がご説明されます。そしてある場面に至った。「これは確か、どこそこだったと思いますが…」と、少し記憶が定かでないご様子。すると臨席でご一緒されおられた裏方様が「これはどこそこの写真です」と挟まれた。前門様も負けじと「いや、これはどこそだったはず」と、怪訝は雰囲気。別院の役宅家族一同は、見てはならないものを見たといった具合で緊張が走ったといいます。



● お若い折の、ご様子を産経新聞「産経抄」(02.6.16)が伝えていました。
産経抄ーその昔、新聞記者だった司馬遼太郎さんが、京都で宗教つまりお寺を担当していたことはよく知られている。その司馬さんが、九十歳で亡くなった大谷光照師と会ったときの話がいい。師が浄土真宗本願寺派の門主だったころである。
 「実は私の生家も西本願寺の門徒でした。田舎の方の言い伝えでは一向一揆に参加したこともあるようでした」。司馬さんがそうあいさつすると「真面目を絵に描いたような」門主は、両手をひざの上にそろえ「それは、ごくろうさまでございました」と答えたというのだ。
 浄土真宗の門徒たちが大名らと戦った一向一揆は四百年以上前のことだ。しかし、そうした歴史を受け継いでいる門主にとっては、つい昨日のように思えていたのだろう。この話を仏教系新聞の女性記者に聞かせた司馬さんは「歴史が生きている実感だ」と話していたという。

● 司馬さんは「真面目を絵に描いたような」とありますが、大変芯のお強い方だったようです。スポーツもスキーからゴルフ、ヨットまで、かなり精を込めた取り組であったようです。現ご門主から、戦前のスキーはリフトがないので大変の装備と体力が必要で、その頃の物が出てきたと伺ったことがあります。

● また川村 泰一氏が、次のようなコラムを書かれています。
 大谷さんとはヨットで永年裸の付き合いをさせて頂いた。ヨットは大谷さんの隠れた御趣味だ。今も京都ヨットクラブの名誉会長である。昭和四十年夏、大谷さんを団長にメンバー五人で欧米のヨット見学に一ケ月余の世界一周旅行が行はれその一員に加わって親しく大谷さんの声咳に接した思い出は忘れられない。

私も前門主が、ヨットのご趣味があったこと初めて知ったのですが、
日本シーホース協会(NIPPON SEAHORSE ASSOCIATION)では、
ALL JAPAN'99・Oct.9-11 Lake BIWA・大谷光照名誉会長米寿記念大会というすごいヨットの大会が開かれています。日本全国の富士銀行や横浜銀行など会社単位のヨットレースで61艘が競いあっています。 男子の部では第1位が富士ゼロックス、第2位が第一勧銀でした。

● 私は、侍僧兼雑務係で、一般にいう秘書の仕事でした。
宗派から前門主滞在に関わる経費が送られてきており、先輩とその経費で飲もうと、よく前門主様を食事にお誘いしました。

そんなある日、「今日はご馳走します」と前門主様がいわれ、総勢で5名で水道橋の学生街にある中華料理店と言ってもラーメンやと言った方が似合うお店に行きました。

その店の店主は、大谷光瑞前前門主が六甲に二楽荘という別荘兼中学を設けていたとき、そこで料理人として腕をふるっていた中国人の方で、前門主に東京に来たらお寄り頂きたいと(あるいは東大学生時代、そうした縁で召し上がる機会があったのかも知れません)のことで、その日の会食となったのです。フカヒレから本格的中国料理を堪能して、帰りのもう一軒、先の経費で前門主共々寄り道をしました。

● 当時の有馬清雄輪番と数人の職員で、前門主を囲んでスッポンを食べたときのこと。有馬輪番は山口出身で豪放磊落、野蛮人のように生野菜にかぼすをかけて召し上がる方で、大葉の葉やキュウリ、ほうれん草などを食卓に置いておくのが常でした。そのスッポンの時は、どうゆうわけかタマネギが丸ごと置いてあった。輪番はそのたまねぎに酢をかけ丸かじりをしました。がぶりとやって前門主に、「これが以外と美味しいのです」と輪番が振ると、前門主もその生のたまねぎを「では私も1つ食べてみましょう」とがぶり。
 その次の日は、新潟にお仕事がおありで、私は東京駅にお送りして、2日後、東京駅にお迎えにあがりました。お迎えした折り、ホームでおっしゃるのには、「ここ二日ほど、食事をしてもどうも味が感じられなかった。今朝、それはあのタマネギのせいだと気が付きました」とのこと。それを輪番に話したら、有馬輪番は大層嬉しがりました。

● ある日、前門主から個人的なことだがと、代香を頼まれたことがあります。目黒区にある祐天寺の住職が往生され、国際仏教○○○会でご縁があるとのことで、ご仏前をお預かりして祐天寺へ行きました。焼香し、戒名を手帳に控えていると、これをどうぞと、はし袋のような長い紙編を頂きました。そのはし袋のような紙には祐天寺第二十世中興とあり「一心光院徹蓮社貫誉上人顕阿白道愚精進勝雄上座大和尚」とありました。なんと二十五文字です。その一年後、増上寺の門主が往生されたときは二十七文字ありました。それは昭和60年1月のことです。

● 前門様のご滞在は15.16日を中心にしたものでした。この両日のどちらか一日は、親鸞聖人のご命日の関係で大谷家では精進(肉食を断つ)の日です。従って会食も精進料理店を選び設定します。

当時、日本テレビ系列で「あんちゃん」という水谷豊主演の浄土真宗の僧侶の連続ドラマを放映していました。伊東方面での撮影であったかと思います。その「あんちゃん」のドラマも終了し、日本テレビにお礼に本願寺の茶碗を持って伺いました。そして前門主を筆頭に、社長室で、感謝状を伝達しました。

その夜は、醍醐という精進料理店で日本テレビの社長や読売新聞の会長等の役員と、会食となりました。席には、水谷豊さんやある有名女優がご一緒でした。その折り、会話の中で水谷豊さんが、ふと漏らした言葉が記憶にあります。「撮影が進んでいくうちに布袍・輪袈裟の重さを感じるようになりました」とのこと。最初は単なる衣装でありユニホームくらいの感覚であったものが、次第にその重さを感じるようになったのだそうです。


● 当時、「明日なき部屋の法悦」ー死刑囚秘話ー吉川卓爾著(昭和59年8月20日発行)が発刊となり、その著に、前門主が序文を寄稿されておりました。吉川師は大阪拘置所の教誨師で、前門主も3回、大阪拘置所で死刑囚等対象の帰敬式にお出ましになり、死刑囚独房までご慰問され(前著記載)ています。

私はお召し替えのお手伝いをしながら、その本の感想をお伝えしました。

その本を読んでいない方には、解りづらいと思いすが、その著に登場する人は、浄土真宗のご法義に感動した話ばかりが納めれています。
死刑囚百数十名に及ぶ教導の中から、特にお育てを頂いた人ばかりが登場するので、必見ですが、たとえば死刑囚で唯一、仏像を3体刻んだM氏の話。死刑囚に刃物を渡すことはあり得ないことなのですが、お育ての見事さから特に許されたと言います。
M氏は、聴聞を重ねる中で、不思議という言葉が出てくると、「上手にぼかしはるなー」「その不思議のもう一足奥を知りたいのがなあ」と、不思議とはなんと都合のいい隠れ蓑かなどと得手勝手に思い得意がっていた。………

死刑が3日前に知らされ、数少ない肉親である姉のとの最後の会話のなかで、
「…自身の心境を説明できんこのもどかしさ、姉さん僕はただいま物事が説明でき、言葉のかかるあいだはまだまだ浅いことだと知らされました…」と、死を間近にし、自身のお育てのありがたさ、尊さの中で、その気持ちを伝えようと思うが、言葉にならないもどかしさ。その心中を通して不思議という言葉の奥深さ領下した話など、等々。

死刑囚の刑を自覚(刑務所教誨のご縁もあり)してからの人格の成長を話題とし、尚かつ刑を実行しなければならい現実の矛盾を、「お法に出遇い、しかし死刑で死んで逝かなければならない現実は、なんとなからないものですか」と前門主に申し上げると、少しお困りなったご様子で、少し間をおき「それは世間のことです」と仰いました。

今思えば馬鹿のことをお聞きしたと思いますが、死刑囚の逸話が生々しく思いの中にあったのでお尋ねになったのだと思います。

「世間のこと」とは、賢愚善悪で裁き、その人の境遇を決めていく、この世の有様のことです。仏法は賢愚善悪を超えて、一味の安心に住する世界です。そのことが大切ですと言われたのだと思います。築地時代の記憶に残る1つです。


失敗をしたこともありました。朝のお勤めの折りに、お衣のお手伝いをするのが1つの仕事です。先にお召しになる衣のを用意して置き、お着替えのお手伝いをします。ある年の11月16日築地別院報恩講のおあさじの時です。通常の朝は、黒衣・五条袈裟なのですが、この日だけ色衣・五条・袴です。私は慣れたときのことで、上司に聞かずに、通常の衣を整え、お召し替えをしました。外に出て本堂に向かっていると、副輪番がその出で立ちを見て、挺身低位、再度お召し替えをし、一年で一番大切にしているその日の朝のお勤めは五分遅れのおあさじとなりました。

これが京都でしたら、大変なこと。東京は地方なので、お小言一つ言われずに済んだのだと思います。


● 送られてきた雑誌に、足利孝之氏が前門様の逸話について執筆されています。(百華苑刊信仰10月号30項)

前門さまは、小学校は学習院で島地大等先生のお家に寄宿されていた。何年生の時か、朝、お目ざまが遅かったようである。お手伝いの方が、すぐに食事を運んで、「朝のおつとめは帰ってからされたら。遅刻されますからもうすぐに朝食をいただいて下さい」。
 ふすまが開いて島地先生が、箸を取ろうとする若き前門さまに云われた。
 「今から本願寺を背負われる方が、朝のおつとめをおろそかにして、朝食をいただかれるということは許されないことですぞ」
 新門さまはそのまま、仏前に坐り、お正信偈、ご和讃六首引き、ご文章拝読といつもの通り、朝のおつとめをされた。学校に遅刻するので、朝食をとらずそのまま登校された。

 午後帰宅しお夕事をすまされ、晩の食事をすまされた。お膳が下げられて、島地先生はじめ、家族の方が新門さまの前に坐られた。島地先生がおっしゃる。「今日は朝食をおぬきで、さぞかしお腹がすかれたことでしょう。私たちもただいまより、おしょうばんをいたします」と。

島地家の人たちは、若き新門さまが夕食が済むまでに、誰一人、朝から晩まで、水一滴お茶一杯も飲まず、帰りを待ておられたのです。