「福作用」

 ある方から、仏壇を小さくしたからと、古いご本尊・阿弥陀如来のご絵像のお焚き上げを頼まれました。
 ご本尊の裏書きを見ると、「釋法如」と本願寺宗主の名と花押が記されています。
 法如上人は本願寺十七代の宗主(一七〇七〜一七八〇)で、現在の京都・西本願寺阿弥陀堂を建立(1760)されたご門主です。
 お焚き上げに持参された方は、北海道出身の方です。北海道の前、ご先祖は北陸であったと言われます。するとこのご本尊は、遠い先祖が、北陸で生計を営み、その後、北海道に渡り、そしてこの関東へおともをされてきたことになります。二五〇年、七代か八代のご先祖が、苦渋を共にされたご本尊だったのです。開拓で北海道に渡り、極寒の中、このご本尊に支えられ耐えた日も多くあったことでしょう。
 結局、お焚き上げを止め、表の絵像と裏書きを掛け軸から外して、緞子(どんす)で回りを表装し、額に入れて家宝とすることとなりました。
 このご本尊を持ち出すまでもなく物の価値には2面性があります。1つは比較対照した価値観です。この価値観ではパリッとした新品の方が値打ちがあります。
 もう1面は、たとえ古ぼけた品でも、いわれや歴史、思い出などが見出されたとき、比較できない意味を帯びてきます。古びたご本尊が、かけがえのない大切なご本尊として思えてきたようにです。この2つの考え方は、私自身の人生についても言えることです。
 知人のKさんは、智慧と光に満ちた言葉を生み出す名人です。過日、それはある会でのことでした。
 お子さんを突然の事故死で失ったある方が、その死別によって、色々な人や、色々なこととの出会いがあったこと、見えなかった世界が見えてきたことなど、涙ながらにお話しされました。
 その方の「死別したお子さんに導かれて今がある」ことを聞いていたKさんが、ふと自分のことが思われたらしく、「子に導かれると言うことがありますが、私は産まれなかった子に導かれてきました」と言われます。私はKさんのその言葉の奥にある思いを聞き逃すまいと、「子どもが生まれなかったことからくる悩みや事実によって自分が育てられたと言うことですか」と向けると、そのことをお話し下さいました。
 Kさんには素敵なパートナーがいますが、お子さんはいません。その事実を自分では受け容れているが、姑さんがKさに孫が居ないことからくる淋しさや嘆きをこぼされる。その姑の存在によって、円満な家庭であったら出会わなかったカウンセリングやその他の色々な出会いや気づきがあったとのことでした。
 それにしても「産まれなかった子供に導かれる」とは、うまいこと言うと思っていると、今度は「子どもは“かすがい”と言うが、私のところは、子どもがいないことが“かすがい”となっています」といわれます。これまたKさんでないと言えない言葉。
 その内実は、友人関係の中で、子どもがいないことに起因する孤独をパートナーに話したとき、パートナーも同様なことを述懐されたのだそうです。それは会社でのこと。後から結婚した若い社員に、次々と子どもが産まれる。その子どもの話になると、話についていけない疎外感を持つとKさんにうちあけられた。そのときKさんは、この人も自分と同じ思いを持っていた。それからは同じ思いをもつ同志という思いで関係が深まっていったのだそうです。まさに子どもがいないことによって起きる波紋を通してお互いが深まり合っていく。それを「子どもがいないことが、かすがいとなっている」という言葉で表現されたのでした。
 そのkさんは、がん患者でもあります。そのKさんならではの言葉は「がんの福作用」です。副作用のふくは通常の「副」でなく幸福の「福」ですとのこと。なぜ幸福の福なのかと言えば、がんになって色々なことに気づいた。それらの気づきは、病気にならなかったら気づかなかったことなので、幸福の福の「福作用」なのだそうです。
 悲しみや苦しみ、歓迎されない出来事を通して、心を深め、ひろやかな世界に意識が開かれていくということがあるようです。
 お盆は、亡き人を追慕する時節です。死別の悲しみを通して、感じられるようになったことや見えるようになったことやが、もしあったとしたら、それは先に往った方が私に残してくれたプレゼントの一つなのだと思います。
 またもし、死別のご縁を通して、この冊子を手にしたとしたら、この冊子も、先に往った方からのプレゼントなのでしょう。

雑誌 「よろこび」(探求社刊)お盆号 02.8発行