父のこと 03.12.2

父のこと

● 父の最後の3日間は肺炎で苦しい息あえぐ中での命の相続でした。28日午前11時25分息を引き取りました。その前の夜は、兄が夜とぎをして付き添いました。夜半、母や坊守や叔母が見舞う中での始終でした。

私は午前5時から7時半まで、父と同伴しました。朝、6時40分頃、個室の窓に朝日が昇る景色が映りました。父のベットをお越し、酸素マスクを付け荒い息の父に、「お父ちゃん、ほら、朝日だよ」と、一緒にその光を仰ぎました。

しばらくしてベットを戻し、「おとうちゃん、お朝事をしよう」と、耳元で正信偈を唱えました。丁度、ベットサイドのテーブルの上に父が東京仏教学院以来、大切にしていた聖典があったので、その聖典を父に見せ、私も六首引きは、その聖典を見てお勤めしました。私がお勤めしている間、父はパージのあっちこっちを見ていました。

正信偈が終わると、その聖典の中にあった、信心獲得章、末代無知章、聖人一流章の御文章を拝読し、歎異抄を3章まで一緒に拝読しました。と言っても私が声を出し、父と一緒にその私の声を聞くといった具合でした。そして最後のページにあった、父が何百回か読んだであろう父が作った法事や葬儀の折の表白を、声にして読みました。

そんなことをしている間に兄が戻ってきたので、父と一緒にお勤めしたことを告げ、病院を後にしました。病院の前のある母の自宅により、「いま、お父ちゃんと、一緒に朝日を見て、正信偈のお勤めをしてきたよ」と告げると、本当に自分が父とお勤めしたように母は喜んでくれました。私も父の一緒にお勤めできたことが嬉しかったのですが、母が喜んでくれたので、その喜びがいっそう深まりました。

今思うと、なぜもっと早く、父とお勤めすることに気が付かなかったのかと思います。八ヶ月近く声のなかった寝たきりの父です。

私にはお勤めは仏さまに向かってするものという固定観念があったのです。お勤めそれ自身が、仏との交わりそのものなのに。

その時の父は、血圧は測れないほど力無く、息荒く、酸素マスクの中での、命の相続でした。しかし、そんな状況にあっても、人(父)は人(私)に、喜びを与えることが出来る。父とのお勤めはそのことの体験でもありました。


以前、寺報他に寄せた父のエピソードを添えます。

● 永遠のという質をもった命 

 一昨年、父が食道がんを患いました。当初、気になったのは、「何ヶ月の生命か」です。

 しかし同時に、かけがえのない生命を何ヶ月という数量ではかる。それは大変に不遜なことだという思をもちました。生命を一ヶ月二ヶ月という数量にしたとたん、一ヶ月より二ヶ月、二ヶ月より三ヶ月の生命の方が価値ありという生命が物に転落してしまうからです。

私たちは一日より二日、二日より三日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど、一日の重みが増していきます。そして、その極みが「今のひと時」です。ここに立つとき、「今という時は二度と巡ってこない」という永遠に巡り会えないという質をもった生命であることに気づかされます。死を意識するとことは、長い生命のうえに幸福を感ずる価値観から、生命の短さの中に、永遠を感ずる考え方に回心する最良の時でもあるのです。

 命は長い方がいいという考え方には、1つの闇があるようです。

● 父が3回目の脳梗塞になり、言葉は勿論、無反応状態になったことがあります。脳というのは、失われた部分を他の部位が補い回復してくると言いますが、言葉は回復しませんでしたが、周りに居る者が、誰なのかが次第に判るようになりました。

まだ無反応状態の時のことです。父をベットに見舞いましたが、その場所に長く居づらい落ち着かなさを感じたことがあります。反応が返ってこない故にの戸惑いでした。父とコミニケーションが持てないのです。

私はその戸惑いの中で「させて頂く」ということを学びました。病床にある人に何かさせて頂くことは、病人のためにではなく、何も出来ない状況の中で安心してそこに居ることが出来にくい私が、爪を切るとか、ヒゲを剃るとか、何かを指せて頂くことによって、安心してその人の元にいることができる。「させて頂く」と言うことは、私の利益の為の行為であると言うことです。

● 南無阿弥陀仏の念仏になる

 父は食道癌を患い、家族でいのちの重さを感じるこの頃です。その父に「お浄土に往って仏に成ったら何がしたいか」と聞きました。浄土真宗で仏に成るとは死者のことではありません。すべのとらわれから解放され、自由自在に人々を済度できる働きに同化することです。父は病を得て、お浄土を私よりももっと身近に感じているに違いありません。一度そのことを聞いてみたいと思っていました。

 なぜそんなことを聞いたみたいと思ったのかと言えば、もう7,8年前のことです。毎月伺っている老人ホームで次のようなことを感じたことがあります。

 いつもそのホームに伺うとKさんの居室を訪問していました。Kさんは当時九十二歳、口の達者なおばあちゃんという印象でした。いつも伺うと子どものころ逝去した実父に対する悪口を言います。父が早く逝去したので自分が苦労したというのです。いつもいつもKさんがその話を持ち出すので、あるとき私は次のように言ったことがあります。「Kさんも、もう九十二歳。もう少しで仏さまの国に行く。そうなったらそこに、お父さんがいるから、その時直接会って、なぜ早く死んだんだとなじったらいいよ」と。するとKさんは、「そうだといいけど」と少し寂しい顔をしました。そのとき私は「Kさんは、それが思えないんだ」と思いました。お浄土へ行って、亡き人と再び会う。見て触ってという五感(眼耳鼻舌身)を通して触れたものしか思えないのです。私はその時、浄土真宗のお育てを頂いている自分は死について非常に自由な世界に心を置くことができると改めて思いました。

 ある時、「無量寿経」を拝読していると、有り難いという思いがわき上がってきました。「よし、仏になったら二五〇〇年前に生まれて、直接、釈尊の金口より、この阿弥陀如来のご説法を伺おう」と思い、楽しみで心が満たされます。タイムマシーンでもあるまいし、そんなことが出来るか出来ないか。それは私の責任の持つ範疇のものではありません。阿弥陀如来が責任を持って下さることがらです。私は私の縁の許されたところで、すべのとらわれから解放され、自由自在に人々を済度できる働きに同化したときの事を楽しんでいればいいことです。
 「還相回向」という教えがあります。浄土で阿弥陀如来の働きと同化し、この世に還り来たって仏としての働きをする。そうした恵みが念仏のご利益の中に備わっていると聞きます。還相回向というと、なにか仏になって人を救うという未来の恵みだけに限定しがちです。還相回向の恵みは未来の利益にとどまらず、この私が今、死というマイナスの観念から解放され自由に心を遊ばせることができる。そんな大切な意味を持っているのだと思います。

 さて最初の話に戻ります。お浄土についてのそんな思いが常日頃からあるので、父への「お浄土にいって仏になったら何がしたいか」との質問となったのでした。

 すると父は「南無阿弥陀仏の念仏になる」と言いました。これは予想もしなかった答えでした。浄土真宗でいう「南無阿弥陀仏」の念仏は呪文ではなりません。無条件に私を救って下さる永遠のいのちの自己表現です。無条件に私を救うとは、無条件でなかれば救われないような闇をもっている。それが私だという阿弥陀仏の人間理解です。その私を、無条件の慈しみで満たすという仏の名のりが念仏なのです。

 その念仏になるというのです。有り難い言葉を頂きました。私の心の隅に「亡き人とお浄土で会う」という理解がありました。それも有り難いことです。しかしそれだけではなく、亡き人と「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す中に出会っていける。これはそれ以上の恵みのように思われます。

 私が「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える。それは念仏となって躍動して下さっている阿弥陀如来の慈しみの触れるときです。

 仏さまだけではありません。念仏を称える中にお念仏と縁つけて下さった先祖を思います。またお念仏の理解を示して下さった親鸞聖人、そのお念仏を多くの人々に伝えて下さった蓮如上人、念仏を喜び生きそしてこの世を終わっていった人たちにも思いが及びます。

 父が往生した後、私はこのお念仏を通して父に出会っていくのだと思います。

●  がんを患って死を意識したとき、もう一つ父に聞いたことがあります。浄土真宗本願寺派では法名は「釋○○」といい、生前功績があると、その法名の上に○○院という院号がつきます。

 しかし近頃は、その院号をみな平等という立場から辞退する住職もいます。そこで「今頃は院号を辞退する人がいるが、お父ちゃんはどうする?」と聞きました。そしたら「ご門主がくれるという言うのだから、もらっとけ」ということで、院号を固持するのも一つのこだわりと言うことでした。そこは寺院継承者としての兄の特権で、父の死後、院号を辞退し「釋正念」で落ち着きました。 私が、病室で院号の話を持ち出したのは、どんな院号がいいかを聞くためでした。それは父が自分自身の一生を2文字で括るとしたら、どんな文字で括るかを知りたかったからでた。確かにその時、父の言葉があったのですが、残念ながら失念しました。いつかフット思い出すことがあるかも知れません。楽しみはその時までお預けです。

● 亀さん喜ぶかなー

 …もう一つのお念珠は、父にもらった念珠です。

 ある日、実家に行くと父が「形見に何か買ってやりたいが、袈裟が良いか、衣が良いか」と聞きます。父はその数ヶ月前に食道ガンを患い、長い延命は期待していない状態でした。その場でのやりとりは以前ご紹介したので省略します。

 結局、念珠を買ってもらうことになりました。念珠に決まってから数ヶ月、「まだ買ってないのか。まだ買ってないのか」と、父も私がもとめてくるのを待ちどうしい様子でした。

 今年の三月、京都へ行った折、念珠の専門店でもとめてきました。それは鼈甲(ベッコウ)の念珠です。 京都から帰って父に見せると、しげしげと念珠を眺め触っていました。そして念珠を眺めながら「はあ、亀さんか。亀さん喜ぶかなー」といいます。となりで母が「それは喜ぶよー。お念仏のご縁に遇うのだから」と、その念珠を庇護し、父に諭すように言います。私はその父母の会話をそばで楽しく聞いていました。

 後で思ったことです。亀さんは喜ぶはずはない。いくらお念珠となり、仏縁を待ったからと言って亀さんは「十方衆生」です。「十方衆生」は、我が身が一番可愛いのです。仏様よりの自分の命を大切に思うのが、私や亀の習性です。

 しかし、そうした習性から逃れることの出来ない亀さんが、その存在の有り様を否定されることなく、阿弥陀如来の大悲によって満たされていく。その大慈悲に、いま甲羅の念珠となっていま出遇っている。この事実は亀さんの何百万年かの歴史の上で、ただ事でないことが起こっているのだと思います。この阿弥陀如来のお慈悲は、亀さんにしか分からない仏縁として、きっと亀さんに届けられているに違いありません。

その夜、寺に帰えると、一通の手紙が届いていました。これは私にとってとても有り難い手紙でした。その内容は「信仰5月号」で書いた「亀さん喜ぶかなー」の内容についての私の考え違いをお諭し下さった手紙でした。…

 お手紙は、念珠の材料になった鼈甲と阿弥陀如来の大悲との関係、それと阿弥陀如来を持ち出して「亀が殺生された」ことを肯定してしまう論理になっていること。そのことに対して無自覚になっている私を指摘したものでした。

 おっしゃる通りとも思いました。お手紙にはかつての戦争時の731部隊のことが記載されていました。そのまま引いてみます。

…731部隊というものがありました。そこで我が国の近代史における汚点とも言うべき、凄惨な医療犯罪が展開されたのです。731部隊のほかにも、5つの部隊が同様な医療犯罪を犯し、中国、朝鮮、ロシア、モンゴル、フランスなどの人々に対して数々の人体実験や生体解剖がなされました。女や子ども、、赤ん坊まで犠牲になった。囚人としてつれて来られた人々の多くは、何の罪もない普通の人だったのに、731部隊では、人ではなく実験用の材料materrialが必要であったのです。だから被害者はマルタとよばれました。マルタとはmaterrialという意味です。

 加害者証言を読んでいますと、様々な理由を付けて自らの悪を正当化しています。念珠になった亀さんを人間に置き換えると、まさしく、あなたの思考システムが731部隊を支えた思考システムだったのです。

 ご指摘して下さった方の住所は無記名でしたが、三重県の消印と釋妙智とありました。ご指摘を感謝します。
亀の念珠にまつわる話は、父の癌疾患からはじまり、長いストーリーとなりました。上記のことを私のホームページに掲載したら、龍谷大学の深川宣暢教授からメールが入りました。これまたそのまま掲載します。

鼈甲の念珠についてのやりとり、すこし原理主義的に過ぎるのではないでしょうか。虎は死して皮を留め、亀は死して鼈甲を残すのも自然のあり方であって、必ずしも念珠をつくるために殺された亀だとは限らないのでは…。宗祖の「熊皮の御影」ものこされています。

 皆さんから、ご意見を頂きお二人のご親切に、「この世は有り難いことになっている」という思いをもちました。それと鼈甲の念珠は、さすがに鼈甲の念珠で、「鼈甲の念珠」という姿で、仏さまのお仕事をされていると感心しました。深川先生ありがとうございました。