雑誌掲載原稿 探求社 よろこび 05.7号

浄土はどこにあるの? 西原祐治

「お浄土って、本当にあるの」。そう聞かれると少し戸惑ってしまいます。時間がないときは「あります」とだけ答えます。時間がある場合は、次のようにお伝えしています。

 以前、夏休みのラジオ「子供電話相談室」を聞いていたら、「明日ってどこになるの?」と質問してきたお子さんがいました。

回答者は困って、いろいろな角度から自分の思いを伝えていました。「明日」は、駅に電車があったり、宇宙に星があるような場所的な概念ではありません。だから「あるか、ないか」だけで聞かれると困ってしまうのです。

時間の流れを一本のひもに例えると、昨日があって今があり、今があって明日があります。明日とは、まだ迎えていない今のことです。時間がきたら、その人の上に開かれてくる今のことです。では明日はないのかといえば、いま豊かな生活をしている人は、豊かな明日を実感することができます。お浄土も同じことです。「南無阿弥陀仏」と念仏を称え阿弥陀さまの願いに開かれている人は、浄土に生まれていく私であることを実感できるし、時間の経過と共に明日が今になるように、凡夫のこの命が終わった即時に、浄土は私の上に開かれていきます。これは浄土を知る第一のヒントです。

 話しの角度を変えます。やはり以前、ラジオ番組で聞いた話です。英語のレッスンの番組でした。講師である外国の先生が、本国の両親に、徳利とおちょこをプレゼントとして送った。しばらくして両親から礼状が来た。その礼状には「とっても素敵な一輪挿しと卵立て、どうも有り難う」と書いてあったとのことでした。人は経験という色メガネですべてを見ています。酒を飲む徳利を知らない人が徳利を見れば、それは一輪挿しの花瓶であり、同様におちょこも卵立てに見えます。

人は同じ物を見ても、その人独特の経験や知識を通して物を見ています。だから同じものを見ても見え方が違っているのです。そして、お悟りを開いた仏さまに見えている世界が浄土です。だから浄土は、あるか・ないかではなく、浄土が見えている仏さまから、どう見えているのかを聞かせて頂く世界なのです。これは浄土を知る第二のヒントです。

お浄土は、凡夫の今の私にとっては、まだ体験していない世界であり、仏の功徳そのものなのですが、その浄土の功徳の全体が「南無阿弥陀仏」の名号となって私の上に至り届いています。そのことを教えて下さったのが親鸞聖人です。「南無阿弥陀仏」の名号は、浄土を知るヒントではなく、浄土の功徳そのものなのです。

一昨年六月のことでした。ある県立がんセンターに入院しているAさんから、私に「会いたい」という連絡を受けました。既にそのときは、セデーションという癌患者が終末期に用いられる鎮痛を目的として意識の無くす(必然的にそのまま死に到る)医療行為が行われはじめていました。その後、一週間の間に三度お尋ねしましたが、三度目にはもう意識はなくそのまま逝去されました。二回目に訪問したときのことです。Aさんはベットに横になったまま、「阿弥陀仏の四十八願とはどんな願いですか」と私に聞いてこられました。

私は、Aさんのベットの脇で口をAさんの耳元で近づけて、目を閉じて短い法話をしました。

「ある日お釈迦さまがお弟子に問われたそうです。今まで人々が流した涙と、大海の水とどちらが多いと思うか=B日頃から話を聴いているお弟子は、はい、それは涙だと思います≠ニ答えたといいます。お釈迦さまはその通りだよ≠ニ仰せられたのだそうです。その大海のごとき涙、悲しみと苦しみの涙のなかに終わって人たちを阿弥陀仏(法蔵菩薩)がご覧になったとき、その涙のなかに終わっていった無数のいのちを、すべて救いたいと思われたのだそうです。そしてその結論は、その涙の中に終わっていったいのちに対して願うのを止められたのだそうです。頑張りなさい、しっかり生きなさい、一生懸命生きなさい、正しく生きなさい、人のために尽くしなさい、精進しなさいといった、人としてのあるべき理想を示し、そうなれ≠ニ願うのは止められたのだそうです。そして涙のなかに終わっていった存在、頑張れない人も、一生懸命生きなれない人も、正しく生きられない人も、人のためにつくせない人も、ありのままに抱き取っていけるお慈悲の深さを問題とされ、慈しみの仏さまになることを願われたのだそうです。それが阿弥陀如来です。その阿弥陀さまは、今、その願いを成就し、私に思われ、称えられる「南無阿弥陀仏」の仏さまとなって、私やあなたののこ身の上に寄り添って下さっています。「南無阿弥陀仏」。この仏さまは、あなたの生き方を問わない慈しみの仏さまです。仏さまご一緒して下さっていますよ」。

私も一緒に、その方の上に宿り到って下さっている阿弥陀仏のお慈悲のご相伴に預かるといった心持ちでした。いのちの終わりにあって、終わり行くいのちを否定することなく、虚しく終わっていく命ゆえに大悲して止まない仏ましますと、念仏申す中に大悲の阿弥陀仏を実感してゆく。浄土の功徳の全体が念仏となって私の上に至り届いています。