ビハーラ活動は

「終末期ケア」に限るのか

 

西原祐治 東京ビハーラ・会長

 

 『宗報』で長く連載さてれきた「焦点・ビハーラ活動」が昨年(2003)の3月号で終わりました。最終回は、当初より「ビハーラ活動」を支えてこられたお一人、桜井瑞彦師によって「ビハーラ活動の将来性」について書かれています。

 掲載原稿の中に「新しい胎動」として「ビハーラ・ケア」という言葉が紹介され、ビハーラ活動が「終末期ケアに限るかどうか、論議のあるところです」とありました。せっかく頂いたお言葉なので、この一点について、私の思うところを申し述べて、各位のご意見を仰ぎます。

 終末期にある人へのケアと、延命を望める老人や患者へのケアとの一番の違いは、「何かしてあげることがあるか、ないか=vということです。

通常、患者へのケアは、医師は医師の立場で何かを提供します。同様に看護師は看護師の立場で、ボランテイアはボランテイアの立場で何かを提供します。しかしいずれしても、命の終わりに臨んで何もしてあげられないステージを迎えます。この何もしてあげられない状況下では、「何かをしてあげられる」余地は全くなく、そのまま見護るしかありません。「何かをしてあげる」ことが許されない場なのです。もしこの「何もしてあげられない」場を共にすべき人があるとすれば、それは「何もしてあげられない」人をも大切にし、敬っていける人です。ここに阿弥陀仏の救いを拠り所とする者の真骨頂があります。

逆に、「何かをしてあげる」活動は、浄土真宗の人でなくてもでき得る活動です。

 現今の本派のビハーラ活動は、「何かをしてあげる」活動に始終しているように思われます。ビハーラ活動が「終末期ケアに限るか、どうか」の議論は、ビハーラ活動は、「何かをしてあげる活動なのか、どうか」の問題でもあります。

ケアにおいて何かをしてあげることのなかに、自らの存在の意味を見出していく人があります。

『歎異抄』の「第4条」に示される「慈悲」とは、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という立場です。もう一つの歩みは、「何もしてあげられない」、すなわち「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」という立場です。

阿弥陀仏の大悲の働きの場は、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と、人においてのその働きに真価を極めます。何も出来ないという一つの諦めは、無意味なことではなく、患者さんご自身が、私が、阿弥陀仏の大悲に出遇っていく大切な場でもあります。

 ビハーラ活動において、もし、浄土真宗の独自性、浄土真宗の者が関わらなければならない活動を求めるとしたら、終末期ケアこそがビハーラ・ケアの最も大切な活動であり、浄土真宗が現代に民衆のエネルギーとして蘇っていく可能性を持った活動であると言えましょう。

 何かをしてあげる≠アとへの関心から、何もしてあげられない≠アとをも許容できるケアへの関心が求められます。この世での終末を迎える人との歩みにおいて、「何もしてあげられない」という場に身を置くことは、次のような積極的で重要な意味があります。

 一つは、苦しみは、新しい扉を開く意味ある営みである≠ニする理解です。

私たちはこれまで、布教の現場で、安易に、苦悩を否定してきた感があります。人間には、終末期にあっても、その存在を肯定していける「資質」があります。その資質を私たちは信心の智慧として伝承してきました。その資質が、病気や苦悩や死に意味を与えてくれます。その新しい扉は、現実生活のなかで苦しみを通して開かれていくのです。

何もしてあげられない≠ニいうことは、共に苦しみのなかに身を置くことであり、当事者が苦しみと混乱のなかで新しい秩序を見出していく意味ある営みでもあります。

 二つ目には、人は、あなたはあなたのままで大切≠ナあるという評価をされない心のなかに無力な自分が肯定され、無力なままに存在にゆだね、自己の執着から解放され、心を開いて生きることがでます。何もしてあげられない≠ニいうことは、相手をあるべき方向にコントロールすることの放棄であり、重要な意味を持っています。

 それと、死にゆく人との交わりのなかで、送る人が多くの学びを得ることです。

過般、私の父が亡くなりました。その折りのことに触れさせていただきます。

父は4年前、食道がんを患いました。食べ物が喉を通らなくなってからの発見で、それまでに、不整脈や胆嚢の摘出、脳梗塞2回、肝炎などを体験しており、したがって、食道癌についてはもう手術は出来ないとのことでした。

当初、私が気になったのは、「父は後、何か月生きられるのか」ということでした。しかし、しばらくして、かけがえのない生命を何か月という数量ではかることは、何とも大変に不遜なことではないかという思いを持ちました。いのちを、一か月とか二か月という数量にした途端に、一か月より二か月、二か月より三か月のいのちほうが価値がある、という数量、あるいは物質的なものに転落せしめてしまいます。

私たちは、一日より二日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど一日の重みが増していきます。そして、その極みが今のひととき≠ナす。ここに立つとき、今という時は、二度とは巡ってこない≠ニいう、永遠に廻り遇えないという資質をもった生命であることに気付かされます。

死を意識するとことは、長い生命の上に幸福を感ずる価値観から、生命の短さのなかに永遠を感ずる考え方に回心する最良のときなのだと思います。

 父の最後は、肺炎でした。3日間、苦しい息あえぐなかでの生命の相続でした。前日から個室に移されており、最後となった日の早朝のことでした。私は午前5時ころから7時半ころまで、父の側にいました。

 個室の窓に、朝日の昇る景色が見えてきました。父のベッドの背を起こし、酸素マスクを付けた荒い息の父と、一緒にその光を仰ぎました。

「お朝事をしようよ」と、私は父の耳元で『正信偈』を称えました。『正信偈・和讃』と『ご文章』のなかの「信心獲得章」「末代無知章」「聖人一流章」を拝読し、『歎異抄』も第三章までを一緒に拝読しました。と言っても、私が声を出し、父と一緒にその私の声を聴くといった具合でした。私は、父と最後にお勤めできたことが嬉しく、家に戻ると、そのことを母に告げました。母はとても喜んでくれましたので、その喜びはいっそう深まりました。

そのときの父は、血圧は測れないほどに力無く、息荒く、酸素マスクのなかでの生命の相続でした。しかしそんな状況にあっても、人(父)は人(私)に喜びを与えることが出来るのです。父とのお勤めは、そのことの体験でもありました。ごく当たり前の日常的なことが、全く異なった意味を持ってくる。それが死という現場なのだと思います。

もとより、ビハーラ活動を「終末期ケアに限定すべきだ」などとは言いませんが、浄土真宗という仏の歩みのなかで、その活動がどのような意義と意味を持っているのかを、一人一人が真剣に訊ねてみる必要があるのではないでしょうか。