築地新報2004年11月号 巻頭の言葉原稿

冬のソナタに見る愛

 

南極の昭和基地で働いている新婚の隊員に、新妻から「あなた」と三文字だけ書かれた手紙が送られてきた。この話しは有名な逸話です。特に浦山明俊さんの『心にひびく日本語の手紙』(朝日新聞社)で紹介されて全国区の話しとなったようです。

地の果て南極。長期滞在は望郷の思いを強くさせます。それが新婚となればなおさらです。数ヶ月に一度、日本の家族から手紙が届く。ある時、日本にいる新妻から手紙が届いた。手紙は、たった一行。「あなた」の三文字。妻は夫を慕う万感の思いを「あなた」に託した。と語り継がれている話です。

しかし、この「あなた」は、手紙ではなく電報だった。しかも、新妻の夫を慕う万感の思いが詰まった「あなた」ではなく、お酒を飲み過ぎないように妻が夫を戒めたもの。お酒のトラブルを聞いた奥さんは、この 「アナタ」の電報に続いて「プンプン」と怒っているメッセージを送ったというのが実際だそうです。

   愛には二つの形式があります。一つは、冬のソナタのような二つのものが一つになろうとする情念です。三文字の「あなた」に見られる愛です。もう一つは、親子の愛のような本来一つであることから生まれる愛です。遠くに離れていても、離れているままに相手を気遣い労わろうとする情念です。「アナタ・プンプン」は、遠く離れていても、まさに隣に居るような二人の近さを感じます。

  浄土宗と浄土真宗、同じ六字の「南無阿弥陀仏」でも込めた願いがまったく違います。浄土宗では、私と仏が一つになろうとする「南無阿弥陀仏」です。私が一生懸命に念仏を称えて仏に向かっていくのです。浄土真宗は、阿弥陀仏が一生懸命になって、私に「南無阿弥陀仏」と称えられる仏さまになったという理解です。私と仏が、本来一つであることを「南無阿弥陀仏」と称えることを通して信知していくのです。

 世間では、冬のソナタのようは愛が受けます。壊れるかも知れないというドラマがあるからです。「アナタ・プンプン」には、ドラマはないが、本来一つであるという安心があります。

 

環境エンリッチメント 西原祐治

  ラジオをつけると、対談番組で動物園の「環境エンリッチメント」の話が流れてきました。「環境エンリッチメント」とは、その動物にとって何が幸福かを考える動物福祉の実践のことです。具体的には、動物の、行動レパートリーや行動の時間配分を動物本来の暮らしに近づけます。

   野生のサルやチンパンジーは一日の大半を、口をもぐもぐ動かし何かを食べて過ごし、食べ物を求めて移動しています。ところが野生とくらべて飼育されているサルは、食事の時間が圧倒的に短く、移動にかける時間も少ない。逆に、じっと動かないで休息している時間が長いので、退屈し本来的でない行動に及びます。

 そこで時間配分を本来の行動パターンに近づけるために、食事の時間を長くし、運動をさせ、休む時間を減らす工夫をします。

 たとえば、採食時間をのばすには、「道具」を導入します。野生のチンパンジーは、木の枝を使ってオオアリを釣ることが知られています。それをまねて、ハチミツを釣らせます。壁に五ミリの穴を開けます。同時に、五十ミリリットルのボトルにも穴を開け、そのボトルにハチミツを満たします。そのボトルを、セロテープで反対側の壁に貼り付けます。チンパンジーが蜜をなめるための「道具」をあらかじめ刺しておきます。その道具も穴に入れることのできないものも含め二十種類与えるそうです。動物本来の特性を見極め、その特性に環境を整えていく。これが「環境エンリッチメント」の考え方です。

 私はラジオから「環境エンリッチメント」の考え方を聞きながら、浄土真宗のお念仏のことが思われました。なぜ阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」の念仏となって、この私を救おうとされたのかということです。いつでも、どこでも、心がどんな状態にあっても、称えられるお念仏です。まさに人間本来の特性を見極めた上での仏様の選びです。「環境エンリッチメント」の話は、動物園だけの世界ではないようです。

 

 

築地本願寺テレホン法話 2題

他力回向の教え 西原祐治

 過般、地域にある公園墓地に出勤しました。受付に「ご自由にお持ち下さい」と冊子が置いてあります。表紙には「墓石に刻もう一言一句・墓碑銘傑作選」とありました。近年、新設墓地に行くと墓碑に色々な言葉が刻まれています。その墓碑に刻む言葉を特集した冊子です。実際に刻まれている言葉も紹介されています。【愛・感謝・慈愛・安らかに・絆…】など今風な言葉が並んでします。しかし、この冊子の多くの部分は、創作募集の文言です。

冊子にはユーモアな文言が並んでいます。【水かけずに さけかけよ】【花はいらん 酒は絶やすな】【ここから出せ】【はかなくも大器晩成の夢 崩れさり】、夫から妻へ、妻から夫へ等々、多種多様な言葉が並んでいます。

 私が面白いと思ったのは次の言葉です。いわく【化けてでません】。私が興味を持ったのは、私たちは通常、成仏していない人が化けて出ると思っています。しかし浄土真宗の立場からいうと、成仏した人が化けてでるのです。逆に成仏していない人は、化けて出られないのです。

 「正信偈」にも「遊煩悩林現神通」(煩悩の林に遊びて神通を現ず)とあります。仏様が私のいのちの上に、私に思われ感じられえる姿となって現れて下さっているということです。その最も具体的な姿が「南無阿弥陀仏」の名号です。

 浄土宗の念仏と浄土真宗の念仏とでは、念仏の受け取り方が違います。

 浄土宗では、私が一生懸命念仏を称えて仏に近づいて行きます。ところが浄土真宗では、阿弥陀さまが一生懸命になって、私の「南無阿弥陀仏」になって下さったと言う理解です。私は「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら、早、阿弥陀さまの働き・願い・慈しみ・功徳の及んでいる身であると、阿弥陀さまとご一緒の人生を歩んでいくのです。

 私が日常生活の上で、「南無阿弥陀仏」を称え、合掌礼拝をする。そうした仏との交わりの全てを、仏の働きと仰いでいく。それが浄土真宗の他力回向のみ教えです。

安心こそ文化の至宝  西原祐治

近年、お寺で子どもたちを畳の上に座らせると、ほとんど体育館すわりをするそうです。体育館すわりとは、ひざを立ててそのひざを両腕で囲む座り方です。

学校で正座と言えば、悪いことをしたときの座り方だと思っていることもが子どもがいると聞いたことがあります。

昔は児童が学校内で過ちを犯すと、先生は叩くとかバケツを持って立たせるなどの罰を与えました。しかし近年は、叩くことは許させません。大方、正座をさせるのだそうです。子どもはそうした学校習慣の中で、正座イコール悪いことをしたという思考パターンを持ちます。残念なことですが、この正座にはもっと深い文化的側面が意味合いがあります。

動物の行動パターンには静と動があります。静とは静かで、動とは動きのある行動です。この静の行動パターンを極め尽くしたのが人間です。そしてこの静の行動パターンの一つが正座です。

 この正座は次の行動に移りにくい姿勢です。周囲が物騒では正座どころではありません。日本人が正座を大切にしてきたことは、安心できることを、文化の中の大切なこととして位置付けている証しでもあります。

安心といえば、「産声をあげて生まれるのは人間だけ」だとご法話で聞いたことがあります。産声は、肺呼吸時の空気の振動によって発せられる音ですが、ただそれだけではありません。そんな簡単な理由だけだったら、シマウマや小動物が生まれ出たときも産声が発せられるはずです。しかし、シマウマが草原で産声をあげて生まれる習性だったら、すぐライオンの餌食になってしまいます。動物は産声をあげ得ないどころか、多くが夜の闇の中で出産します。敵に囲まれているからです。

 「産声をあげる」のは、そこに安心があるからです。この「安心」こそが、人間の文化の至宝であり、いつでも、どこでも、どんな状態であっても安心できる世界を説いているのが浄土真宗のみ教えでもあります。