1185年、長門国壇ノ浦で源平の合戦により平家は滅亡した。その年をさかのぼること12年前(1173)のことです。

時代は平安時代の末、平氏・源氏という武士が台頭し、武力が朝廷を動かし、聖人の戒師である慈円が歴史書「愚管抄」に「武者(むさ)の世」となった表されたように、政治の中枢を武士が実権を握り、武家政権誕生の流れの足音は次第に強くなっていった。巷は権力闘争の嵐は、そこかしこに巻き起り、地震・大火・飢饉・疫病とまさしく「末法」に突入したことを実感させる時代でした。

当時(親鸞聖人誕生・1173)民衆は、『周書異記』により1052(永承7)年から末法に入るとする説が広く信じられ、仏法が滅びる時がきたという危機感、流行病の広がり、度重なる天災地変、加えて平家のおごり、人々は刹那的な喜びに始終し、希望のない日々にあえいでいた。

末法とは、釈尊の入滅後、仏教は正法・像法・末法という三つの段階を経て次第に衰退していくという考え方である。正法とは、教(教え)と行(教えの実践)と証(得られる証し)の三つがすべてそろっていること、像法とは、教・行はあるが証を得る者がいなくなること、つまり形式的に仏教が継承されている時代。そして末法は、教だけ、つまり抜け殻だけしか残るという、次第に仏教が衰退し、出家者も堕落していくとする考え方である。

そんな時代の藤の花が咲きこぼれる、初夏の日差しに包まれたある日のとです。

有範「兄上、春爛漫だというのに気持ちはふさぐばかりです」

兄範綱「昨日、羅生門の側を通ったが、死人の骸(むくろ)が、たいそう捨てられておった。何か動くものがあるので、犬であろうかとみると、婆が死人の髪の毛を落としておった。なんと死人の骸を金にしようというでのあるから、悲しい世の中になったものよ」

有範「そうそう、ある女が売る干し魚は、蛇を打ち殺して切って、それを家に持ち帰って塩をつけて干したものだそうだ。何を信じてよいやら。疫病もはやるはずです」

兄範綱「人が蛇や犬を食うのはましなこと。河原で何かうごめくものがあるので見ると、犬が死人にかぶりついておった。よく見ると死人ではなく、まだ息のある人間であった。犬であろうが、人であろうが強い者がおごって、出家者から犬畜生まで、餓鬼道そのままじゃ。人間は息も絶え絶えだというのに、犬やウジ虫、ネズミなどは、活気づいておる。末法とは、闇にうごめくものがこの世を支配する。まことこの世は末法そのものだ」

有範「…」

兄範綱「平時忠殿が「平家にあらずば人にあらず」と放言したそうだが、まこと平家のほしいままの世の中。したい放題、まつりごとではなく、自分たちの快楽のためのまつりごとよ。ひでりや長雨で穀物もとれず疫病もはやるし、民衆は不安と飢餓で難儀をしているというのに。平家も長く続くまい。」

有範「シー。都では六波羅蜜の禿(かむろ)といって、髪を短くきった子わっぱが、徘徊していて、だれかが平家の悪口や政治の批判をしようものなら、すぐに仲間を呼び寄せて、好き放題の乱暴をして、六波羅蜜へ引き立てられてさんざんなめにあわされる。おきょうつけなされよ」。

「オギャー オギャー」

有範「おお、生まれた。生まれた」。

兄範綱「これはこれはめでたいことよ。末法の闇に飲み込まれるか。時代の闇を飲み込むか。お大切にお育てあれ。で、名は何とする」

有範「いつまで生きられるか分からないが、生きている間は、松のように若々しく生きてほうし。松若と呼ぼう」

のどかな日野の里に、親鸞聖人はご誕生になられました。ご幼少の名を松若丸と言い、混乱の不信の渦巻く時代の中で、両親の愛情に育まれ成長していきました。

聖人誕生夜半