法然上人との対話

親鸞聖人は東山吉水に、法然上人をお訪ねになりました。法然上人の公開のお話しが終わると、奥の書院に師をお訪ねになられました。

法然「あなたが範ねん殿か。聖覚さんから聞いておりますよ。なまんだぶ…」

聖人は、挨拶もそこそこに、単刀直入に質問しました。

聖人「なぜ悪人が救われるのですか」

深い闇に沈む若き親鸞の存在に、法然は43歳の時の求法に明け暮れていた自分と重なります。

法然「悪人がどうして救われるのか。私も、以前あなたと同じ問いを持ったことがあります。なまんだぶ…」

親鸞「…」

物静かに語りかけてくる師の言葉は、心の荒波を包み、自分のすべてを理解してくれているという暖かさが感じられた。

法然「あれは、私が43才(1171)のときでした。
その年は、私が9才の時に死んだ父の齢。争いで死んだ父は私に「私を殺したあの武者を許せる人となれ」と言葉を残して逝かれました。なまんだぶ…。しかしその年まで、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体験することなく、また正しい智慧を開くことなく仏道を歩んできました。母君の弟に当たる観覚師より仏教の手ほどきを受け、それから35年の春秋を重ねていました。私は悟りを開く器ではないのかも知れないとも思いました。そうであれば、自らの生を長らえることは殺生の罪を重ねるに過ぎない。もしその齢の内に、怨親平等の世界を体験出来ないのであれば、身をなげうって、殺生の罪をあがなうのみと決意し、大蔵経の経蔵に救いを求めました。悟りの境地を体験し、すべての人が安住できる教えにであうまでは、いのちが朽ち果てるまで経蔵から出ないという決意でした。

その時の1番の疑問は、今あなたが問われたご質問と同じ「念仏でどうしてすべての人が救われるのか」ということでした。なまんだぶ…。

私は無我夢中で、経蔵で一切経を読み続けました。その一切経も五編目に至り、中国の善導大師のご書物のある一説に触れたときでした。言葉の真意を理解する以前に、私の無意識の領域にある、どうにもならない罪悪性や黒雲のごとき深い闇が反応したのです。頭で理解していないのに、身の毛がよだち如来の世界に身と心が解放された喜びが心の奥底からふき出してきました。私は、その押さえきれない喜びをおさえ意識を整え、再び詳細にその言葉を三編拝読しました。私はその時、すべてを理解しました。なまんだぶ…。

“阿弥陀仏の前身である法蔵菩薩はその本願を発動した根本に、私のような愚かな者の存在があり、その愚かな者を救い取る手だてとして念仏の行を選び、私の上にその行を成就して下さっていた”ということを。私は「南無阿弥陀仏」の真意に触れ、聞く人もない薄明かりの経蔵の中で、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と歓喜を極め声たかだかに念仏し、身体中の水分が涙となって、あふれ出るが如く、感涙を流したことを昨日の如くよく憶えています。なまんだぶ…。

その時私が触れた善導大師観経散善義のご文は

「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとわず念々に捨てざるは、これを正定の業を名づく。この仏の願に順ずるがゆえなり」という言葉でした。
 悪人が念仏によって救われるのではなく、どうにもならない悪人とは、この私のことだったのです。闇に沈み仏縁のない私を、念仏申す身となさしめて救い取るというご本願だったのです。なまんだぶ…。

私はその念仏の教えの中に、父の遺言であった「敵を許す」ということを理解しました。殺意を持って父をあやめた彼の人も、欲望の衝動に身を任せ生きていった凡夫、その敵を憎む私も、憎しみの心に閉ざされた凡夫、共に阿弥陀如来の救いの目当てだったのです。なまんだぶ…」。

師の言葉を静かに聞いて折られた聖人は、この道こそ我が道という核心が心の中に浮かび上がった。それから聖人は、100日間、来る日も来る日も師の元をお訪ねになりました。それは偏に「仏に親しむ人も仏に背を向ける人も、同じように生きることの本当の意味を体得できる道」を求めてのことでした。

ある日、法然は親鸞にお尋ねになりました。

法然「あなたは地を這う蟻のいのちと、あなたのいのち、どちらが尊いとお思いですか。なまんだぶ…」

聖人「それは同じです」

法然「では、蟻のいのちと、自分のいのち、どちらも尊いと思える私と、そう思えない私では、どちらが尊いとお思いですか」

聖人「…それは同じはずです」

法然「では、迷いを重ねるあなたのいのちと、お覚りをお開きになった大聖釈尊にのちでは。なまんだぶ…」

聖人「……」

法然は母が子に昔話を語るかのように言葉を継いでいかれました。

法然「ある日お釈迦様がお弟子に向かい問われたそうです。「今まで人々が流した涙と、大海の水とどちらがおおいと思う」。日頃からお話を聞いている弟子は、お尋ねになった釈尊の意をくみ「はい、涙だと思います」と答えたそうです。お釈迦様は「その通りだよ」と仰せられたと経にあります。なまんだぶ…

その大海のごときの悲しみ・苦しみの涙から阿弥陀如来の慈しみは発動(起こった)したそうです。人のいのちの歴史は、弱肉強食、強き者の歴史です。生命の営み自体が、弱肉強食の連鎖によって今に至っています。しかし、涙と共に力無く終わっていった生命の営みは、涙と共に力無く終わって行くものを、ありのまま受け入れていくという慈しみを生み出していったのです。なまんだぶ…。
阿弥陀仏は、阿弥陀仏になる前に、涙と悲しみの中に終わっていった無数のいのちを、すべて救いたいと思ったそうです。なまんだぶ…。

そしてその結論は、人々に願うことを止めたそうです。頑張りなさい。正しく行きなさい。人のために尽くしなさい。念仏を称えなさい。豊かな人格を形成しなさいという理想的なあり方を求めず、がんばれない人も、正しい行いができない人も、人のために尽くせない人も、念仏を称えられない人も、豊かな人格を形成できない人も、みな共に抱き取っていける、自らの慈しみの深さを問題とし、お慈悲の仏に成ることを願われたのです。なまんだぶ…。

そのお慈悲の仏さまが、今私が称え、あなたが称えている「南無阿弥陀仏」なのですよ。阿弥陀さまは私のいのちの上に本願を成就されたのです。称えられるという姿となって、この私のいのちの上におよんで下さっているのですよ。

これが賢き者も愚な人も、豪貴も鄙賤もへたてなく、救われていく、阿弥陀如来のご本願の仏道です。南無阿弥陀仏…」。

親鸞「…」

法然「蟻のいのちとあなたのいのち。あなたのいのちと釈尊のいのち。あなたが尊いと思おうと思わなくても、阿弥陀さまの願いのかなった存在です。阿弥陀さまお慈悲から漏れるものではありません。みな共に阿弥陀仏のお慈悲の深さに救われていくのです。そう私の思いを大切にせず、ただただ私たちは愚者になりて往生していくのですよ。なまんだぶ…」

親鸞「なまんだぶ…」

聖人は、念仏を称えながら「自分は仏道を求めていたと思っていたが、そのすべてが阿弥陀仏の計らいであったことに、ただただ、随喜の涙と共に念仏を称えていた。「観無量寿経」に念仏者を観音菩薩や勢志菩薩は護って下さるとあるが、菩薩は菩薩の姿のままではなく、最も身近な人となって私を導いて下さっているのかと、驚きと有り難さの内に、法然上人に対して思わず合掌していた。
時に聖人齢29歳、蝉の声被う吉水での出来事であった。