親鸞聖人81才の折りのことでした。聖人は、関東の同行である真仏坊の手紙に「この十日の夜、焼亡に遭うて候」とあるように火事に遭う83才まで、西洞院高辻下の斜め前の住居で道元禅師(54才・1200〜53)が病気治療のために転居されてきたのです。

道元禅師は、近年、健康の衰へたのを感じ、齢五十四歳でしたが、1253年7月14日、弟子の懐奨に永平寺を譲つて山を退いきました。寺を退いた禅師は、親族や弟子たちが上洛して薬養に努むべきとすするので、8月5日、都を指して発足、西洞院の弟子の家に住み病気の治療にのぞみました。しかし病は快方に向かうことなく、その月の28日にご寂滅されました。

その最後の都滞在の時のことでございます。

親鸞聖人は、末女の覚信尼が、道元の兄である久我通光公(太政大臣在位:1246-1248)の元に奉公に入っていた関係から、道元禅師の元をお訪ねになりました。
聖人「親鸞と申します。娘が、兄君の久我通光公の元に奉公に入っておりました。いつも禅師のお噂は娘から聞いておりました。お苦しそうなご様子、ご様態は如何ですか」
道元「あなたが親鸞さまですか。兄の通光公が、昨日見舞いに来て、あなたのことを申しておりました。聞けば近隣にお住まいとのこと。

今、うとうとしながら母君の臨終の折りのことを思い出していました。あれは私が8歳の冬(承元元年・1207年)ときでした。母はいよいよ臨終が近づくと、私の手を取り「出家して父母の冥福を祈り、人々の苦を救う道を歩むよう」と申され亡くなられました。私は息を引きとられたばかりの母君のかたわらに正座し、立ち上がる香煙をみて人の命のはかなさを、しみじみ感じたことです。 私はその時の母の言葉に導かれて、ここまできました。小さい時は、母のいない生活は淋しく悲しいものと思っていました。いかし今になって考えると、常に母と共に生きてきたように思われます。いまは母君は、仏さまであったと喜んでおります」

聖人「南無阿弥陀仏……」

道元「南無三世諸仏(なむさんぜしょぶつ)」。「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」…

聖人「ほー、お念仏ですか」

道元「私は、ことある事に弟子たちに、徳のある人には妬むことなく素直に誉め、不徳な人にも馬鹿にすることなくいたわる言葉をかけなさい。心がけて愛語を使っていくうちに、次第次第に身についていくと語ってきました。それは慈しみこそ仏そのものであるという思いからでした。

ある時、師の如浄がみなを集めて、こう仰ったことがあります。

「たとえ不徳な人に対しても、罵声や力をもって相対してはならない。相手の過去の過失を責めたり悪口を言ってはならない。それが道理である。しかし、この道場において、わしがおまえたちを叱ったり竹で打ちたたいたりしている。これは慎むべきことである。それは、仏に代わってお前さん方を仏道に導くためのもの。どうか慈悲をもってこれを許して下され」と頭を下げられた。その師の言葉を聞いた者は、みな涙し、師の慈愛の深さに常住の仏を拝したことがあります。
私はそれから、師の言葉や行為は、常住の仏そのものと拝してきました。また師と別れては行こそ仏であると語り、また味わってきました。今こうして、修行も出来ず、戒も保つことも出来なくなると、仏の言葉を保つことの中に常住の仏に出会っていけることがありがたいと思っているのですよ」。
聖人「如来の慈愛は常住です。どのような存在も漏れることはありません」

道元「ありがとうございます。あなたが言われるように、仏の慈愛の中の日暮らしは、経を読むことも修行も仏を身近に感じるためのもの。行が極まれば、念仏や仏を想う心のなかに常住仏と出会っていけます。南無三世諸仏… 。私もあと少しで息絶えることでしょう。

私は常日頃、「生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし」と語ってきました。ありのまま死んでいけばいいのですが、この度は、後の人のために、身を清め経を読み、仏道の形を示して逝こうと思っています。それが涙しながら私を叱ってくれた師の恩に報いる道だと考えています」

聖人「よき師に出会われよかったですね」

道元「師との出会いも仏のしからしめたもうところ…」

聖人「念仏も仏のしからしめたもところ…」

道元「南無三世諸仏(なむさんぜしょぶつ)」。「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」…

聖人「南無阿弥陀仏…」

禅師は、いよいよ末期に近づくと聖人に語ったとおり、『法華経』の「如来神力品」を唱え、夜半、一偈を残して入滅されました。

聖人は、近隣の慌ただしさから禅師の示寂を知り、「生死すなわち涅槃」と語られた時の毅然たる禅師のお姿を思いだされました。聖人は「南無阿弥陀仏…」とつぶやくようにお念仏され、老いたこの愚禿の身そのままが、阿弥陀如来と等しい存在であるという思いが報恩の思いと共にわき上がってきた。

禅師の遺骸は、京都天神の中の小路にある草庵に運ばれ、東山赤辻の小寺に龕を運び火葬にされました。このとき、弟子の懐奘和尚は『舎利礼文』を唱え、参集の僧侶もこれに唱和して、龕の周囲を巡ったといいます。9月6日、懐奘は遺骨を持って京都を発ち、9月10日に永平寺にもどり、12日午後4時、方丈において入涅槃の儀式が行なわれた。その後、遺骨は西北隅に建てられた塔「承陽庵」に納められたそうです。

親鸞聖人と道元禅師との対話