正座ってなに(西原祐治)

 私は法要などの時、『膝の曲がる人は最初と最後の礼拝の時だけ正座して下さい。あとはご随意で結構です。好きであれば正座も結構です』と言うことにしています。しかし正式にはお経を読む場合は正座で読むべきものです。

 以前、教区の勤式指導員を勤めていました。その間、色々な勤式の研修会に出席し、多種多様な質問を頂きました。その中で印象に残る質問があります。それはA住職からの問いでした。

 報恩講の折、地域の僧侶が出勤すべく参集した。内陣出勤の段になって、出勤法中から提言があった。『今日の内陣出勤は、あぐらで座りましょう』。A住職『それは駄目。内陣では正座に決まっている』。『だって、お脇掛けの蓮如上人も親鸞聖人のあぐらをかいて座っている』。A住職『……』。そして私への質問となりました。

 これは面白い質問です。礼儀作法の伝統と文化がすべて収まるほどの問題でもあります。

 礼儀は挨拶が基本です。ところがこの挨拶が地域により民族によって多種多様です。握手や抱擁やキス、あるいはニュージーランドのマオリ族がするような鼻をこすりあわせる動作などもあります。日本人のするようなおじぎ、インドのヒンドゥー教徒や東南アジアや日本の仏教徒がする合掌、あるいはマオリ族が行う舌を出す挨拶もあります。西洋人も国王に拝謁する際には,男は頭を下げ,女は片足を引いてひざを軽く折って挨拶するのが作法であると聞きます。

 初めて異文化に接し、その国の思いがけない挨拶に出会うと、何人も驚きます。1860年、日米通商条約が結ばれます。その折り副使で渡米した村垣淡路守(註1)が日記を書いています。

 万延元年(1860),使節一行は9ヶ月かけて地球一周し帰国します。アメリカで閏3月28日、ホワイトハウスで大統領ブキャナンに謁見し、日米修好通商条約批准書を渡しています。作家司馬遼太郎は『明治という国家』(註2)で、遣米使節一行77人と咸臨丸の一行99人合わせて176人がアメリカの最新の文化を見ていながら、ほとんどの者が帰国後にそれを積極的に語ることなく口を閉ざしていたなかで、小栗上野介、福沢諭吉
、勝海舟の3人が後の日本の近代化に生かす仕事を残したと書いています。

 その村垣淡路守の書いた「遺米使節日記」(註3)は、日本の最高のインテリが初めてアメリカ文化に接し、それをどう受け止めたかを詳細に書いているのです。

 ワシントンのホワイトハウスに大統領を訪ね、その日、宿舎に帰ってその印象を憤慨して書いています。「アメリカという国は大変野蛮な国である。一国の主であるものが日の本の国の大使に会うに、かみしもも付けづ刀も差さず、そして筒袖の着物に車引きがはくような股引をはいて出てきた。そしてお供も付けず一人で出てきた。実に野蛮な国である」といった具合です。会議を見ては「わめきあい罵りあっている。日本で言えば青物競り市をやっているようである」とか、ホワイトハウスで歴代の大統領の胸像を見ては「わが国の処刑場の如し」といった具合です。そこにはハワイでキスを初めて見た時のことが書かれています。「犬のようになめ合って」と笑いの対象でした。挨拶一つに国の文化や地域性がおり込まれています。

 さて正座の話しです。まずは正座の意味を伺う前にまずは礼・敬礼・礼拝(註4)についてお話しします。
 小学校で授業の前後、「起立、礼」とかけ声を掛けて先生に礼をした記憶があります。警察官や自衛官には敬礼の習慣があり、神仏の前では礼拝します。

 礼は古代からインドの習俗で、仏教とともに日本へ入ってきた尊敬を表わす身相です。礼拝とは相手を尊び恭しく敬いの意を体で表現する方法で、インドでは九種類(註4)もあるそうです。一般よく見るのは合掌低頭(ていず)、長跪(ちょうき)合掌、五体投地の三つです。これを一回すれば一拝、三回すれば三拝、九回すれば九拝となり、何度も何度もすれば三拝九拝となります。合掌低頭とは両手の掌(たなごころ)を合わせて頭を下げることです。長跪合掌とはお経の中に一番(註5)よく出てくる言葉で跪(ひざ)まづいて合掌することです。五体投地とは更に体を低くして、額、両肘、両膝を地につけておがむことです。

 この膝を付けて合掌する長跪合掌が、日本の正座の源流だと思われます。正座はインドに限定されるものではなりません。古代のエジペト、ギリシア、中国にすでにあり、礼拝中のイスラム教徒の座位も正座に近いことからも知られてます。アラブやイランなどでも日常往々にして正座をするそうです。日本では畳が江戸時代の元禄・享保のころ普及するにつれて正座も庶民に広がりました。ただし、この座位を正座というのは日本だけで、朝鮮での正座は一側は日本式正座で他側の膝を立て、アラブなども同じく右膝を立てて座ります。

 膝を付けて礼拝するスタイルが、合掌・礼拝の元にあり、畳の普及などによって正座が寺院における礼拝の時の座位として定着したものと思われます。またこの座位がもっとも安定したスタイルでもあります。

 以前、別院に勤めていたとき、先輩から次のような話を聞きました。報恩講のクライマックスである大逮夜の折、諸僧が並び座る前で御伝抄(註6)を拝読する儀式があります。

 前巻と後巻で、拝聴するメンバーが交代するのですが、30分間、長い報恩講の御座で足も相当疲労しています。そこで悪知恵のある一人が考えたそうです。『おい、今日は、足が痛いから、有り難そうな振りをして手を前について腰をかがめて拝聴しよう』。そうと決まり実行した。その先輩いわく、「ところが変な姿勢で30分、その体勢を保つのはかえってしんどかった」とのことでした。いがいと正座が長時間体勢を保つのには相応しいのかも知れません。

ついでに先の親鸞聖人のご絵像のあぐらですが、日本の男子の用いるあぐらはもと高貴な人の座位で,胡床と呼ぶ床几(しようぎ)に“足組(あぐ)み”して座ったことに由来します。柿本人麻呂が歌を詠む際にとった歌膝は一側が胡坐で他側は立膝の姿勢でした。あぐらと片立膝は中世の絵巻に多数描かれ、当時はむしろこれらが一般的でした。そのほか箕踞(ききよ),割坐,楽坐,結跏趺坐(けつかふざ),半跏趺坐(はんかふざ),蹲踞(そんきよ),跪坐(きざ)などがあります 結跏趺坐はインドでは円満安坐とされ,如来はこの姿勢ときまっています。右膝の上に左足がくるのが降魔坐(ごうまざ)、その逆が吉祥坐(きつしようざ)だそうです。 

 話しが長くなりましたが、国際色豊かな時代です。今日はイタリアの礼儀で法要を営みましょうという時代が、もうすでに到来していると思うのですが。

 しきたりの意義の限界をこころえて、新しい作法を作り出す時代に至っています。

註1
村垣範正 むらがき のりまさ  淡路守
生没年 文化10年(1813)〜明治13年(1880)
安政6年9月、日米通商条約批准交換のための副使に選ばれ、正使新見正興・目付小栗忠順と共に万延元年正月出発。途中ハワイに寄り、帰りは大西洋を通って9月帰国。使命を全うし、その功により300石加増された。
同年12月、日普通商条約交渉の全権となり、文久元年、露艦の対馬占領の際は箱館に有って露国領事ゴシケヴィチにその退去を交渉した。


註2
「明治」という国家 NHKブックス 司馬 遼太郎 (著)

註3 萬延元年 第一遺米使節日記/補修/日米協會/大7

註4 一般にはレイ、ケイレイ、レイハイと読むが、仏教ではライ、キョウライ、ライハイと発音する。

禮拝[らいはい]
@ 合掌しておがむこと。恭敬・信順の心をもって敬礼すること。『西域記』(二巻)には、礼拝の種類として、発言慰問・俯首示敬・挙手高揖・合掌平拱・屈膝・長跪・手膝踞地・五輪倶屈・五体投地の九種類があげられている。そのうち、五体投地とは、身体を地に伏せ、両手両足を地にのべ、頭を地につけて敬礼する最高の敬礼法である。
A 浄土教などで、身業により恭敬を示すこと。上品の礼拝は五体投地、中品の礼拝は長跪合掌、下品の礼拝は坐して合掌低頭する。
『佛教語大辞典』東京書籍 より

註5 
仏説無量寿経
阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄に…

右に繞ること三匝して、長跪合掌して、頌をもつて讃めてまうさく、〈光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明、ともに等しき…

仏説観無量寿経
みづから己身を見れば蓮華の台に坐せり。長跪合掌して仏のために礼をなす。

註6 
御伝鈔 2巻 覚如上人

 『本願寺聖人親鸞伝絵』『善信聖人親鸞伝絵』あるいは、単に『親鸞伝絵』とも称されている。本書は宗祖親鸞聖人の曾孫にあたる第3代宗主覚如上人が、聖人の遺徳を讃仰するために、その生涯の行蹟を数段にまとめて記述された詞書と、各段の詞書に相応する図絵からなる絵巻物として成立したが、写伝される過程でその図絵と詞書とが別々にわかれて流布するようになった。そしてこの図絵の方を「御絵伝」、詞書のみを抄出したものを『御伝鈔』と呼ぶようになったものである。

 (本願寺ホームページより)