弁円の涙
「山も山 道も昔にかわらねど かわりはてたる我こころかな」。
修験者弁円が、親鸞聖人のお弟子となり、昔、殺害を企てた板敷き山の道を歩きながら述懐したという有名な歌です。
明法房は、もとは弁円といいました。弁円は当時戒律の厳しい修験者として常陸の国に強大の勢力を誇っていました。そこに在家仏教を説く聖人の出現です。民衆の心が聖人に傾くことを快く思うはずはありません。弁円は弟子35人と共に板敷き山で聖人殺害の機会を伺い待ち伏せをします。弁円は山頂に護摩壇を焚き、3日3晩待ったが、この道を通るはずの聖人がいっこうに姿を見せない。業をにやした弁円は武装姿のまま、夜半に稲田の草案を襲います。そこで聖人の温かく自分を包み込む大きな人格に出会い、聖人のお弟子となります。時に弁円42才、聖人49才の秋のことであったと歴史書にあります。
覚如上人の御伝抄には、そのところを短く記されています。「尊顔にむかいたてまつるに、害心たちまち消滅して。あまつさえ後悔の涙きんじがたし」。「害心たちまち消滅」する背景に何があったのか。
その時聖人が、どんな言葉をかけ、どんなやりとりがあったのか。そのやり取りを幾度か想像したことがあります。おそらく凝縮した短い言葉の中に、言葉を越えた意識が重なり合ったのでしょう。あるいは宗教的大天才、「ただびとにあらず権化の人」なので言葉もなく、人間の闇の底まで見通す眼孔に触れ、たちどのろに打たれひれ伏したのかも知れません。
しかし今の私には、その時の凝縮した言葉や深い沈黙がイメージできません。いつかきっと「ふっと」思い当たるときが来るのかも知れません。
短い言葉や沈黙のイメージが見つからないので、矮小化でしょうが少し想像してみました。
業を煮やした山伏姿の弁円は、聖人の草案に怒鳴り込んでいきました。
「こーらクソ坊主。念仏一つで成仏できると、民衆をたぶらかしおって。神仏に代わり成敗してやる。出てこーい」。
長刀をかざした弁円の声は、自分のなわばりをあらされた怒りに染まっています。すーと出てこられた聖人のお姿は構えることなく弁円の姿を認めました。聖人には、仁王立ちした弁円の怒りの炎の中に、自分の都合通りに仏教を理解し、自分の思いで他者を裁いて止まない過去の自分が重なります。もし私もよき人との邂逅がなく、弥陀の本願に出遇うことがなかったら、同じ理屈で彼を裁いたに違いない。そう思うと相対している弁円の怒りの炎は他人事ではありません。我が身の如く、如来の救いの目当てとして愛おしくさえ思えましたのです。
「私が親鸞です」と声をかけた聖人の瞳は、牛王の如く、やさしく穏やかで慈しみに満ちていました。その聖人のやさしいまなざしに弁円は、遠い記憶の中にある幼き頃の母の声、母のまなざしがよぎったのかも知れません。
聖人の普段と変わらない様子に、意を削がれた弁円は、振り上げた長刀をふり下げるのではなく、思わずとっさに「念仏一つでなぜ仏になれるか」と、尋ねてしまったのです。
聖人は弁円の問いに直接答えず、その場所に端座すると、ひとり語りのように言葉を足していきました。
「とーい昔、法蔵菩薩という尊い仏さまが、怒りに沈むある男を救いたいという願を起こされたのだそうです。来る日も来る日も、その男の成仏の可能性を思惟し案じておられた。ながーい思惟の結果、その菩薩はある結論を出された。それは「成仏の可能性なし」という結論であったそうだ。もしここでこの男に、成仏のための修行や人格の向上を求めたとしたらどうなるだろう。目の不自由な人に、前をもっとよく見て歩けと告げる如く、その教えの前に、自身のいたらなさ・ふがいなさを嘆くすべしかない。そしてその菩薩はまた、来る日も来る日も思惟し続けたのだそうです。その結果、その菩薩はこの男に願うことを止め、その男を燃えたぎる炎のまま、抱き取っていける仏に成るとご自身の大悲の深さを問題とされといいます。お慈悲の仏に成ると願われたのです。今はその菩薩は、その男をそのまま救っていけるほどの深い慈しみを阿弥陀如来として成就して、その男の上に「南無阿弥陀仏」と宿り、その願いを成就したのだそうです。
いまこの親鸞が称える「南無阿弥陀仏」の念仏も、怒りの内にあなたが称える「南無阿弥陀仏」の念仏も、この慈しみの如来様が、この私を、そのあなたを呼びたもう阿弥陀如来の存在の証。そう私は、お師匠様から聞かせていただいております。
その親鸞聖人の話を聞く弁円はいつしか座り込み、目は涙に濡れ、自分の声を確かめるように「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」…とつぶやいていた。念仏を申しながら、涙は止めどもなく流れ、その涙は聖人を殺害しようとした懺悔の涙に変わっていたと言います。