―念仏者 川上清吉―
会員 西原祐治
島根県に川上清吉(1896〜1959)という念仏者がいました。佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務めた方です。
昭和32年、私の父が島根県から東京に出てきて、この川上師から励ましの手紙を何通かもらっています。
そして最後のハガキは、昭和34年6月5日、連れ合いの川上ミツさんからの印刷の死亡通知です。 後半面の書き出しは「川上清吉儀、去る6月1日午後4時、無事浄土往生いたしました」とあります。「無事浄土往生」の言葉が光ります。その前半面は川上清吉さんが、生前用意していたと思われるあいさつ文です。謹啓
生前は、いろいろお世話になりました。厚く御礼申し上げます。このたび、私もいよいよ久遠のみ仏のくにに参ります。
63年の間、わたくしとしては努めて来たと思いますし、後の事もこころにかかることはありません。この期にのぞんで、今さら、仏の教えの深さを讃えずにいられません。どうぞお幸せに。
昭和34年6月1日 川上清吉
川上清吉さんの本は、何冊か読みましたが、みな師の誠実さが伝わってくる文章です。
「愚禿譜」のあとがきに次のような文章があります。当時、川上さんは学生寮の学監をしていたようです。
【夜明であった。病人が寮の人に逢いたいという電話がかかった。私は偶然早く出勤していたので、自転車で病院に走せつけた。胸が不規則に大きく波打って実に苦しそうである。もう臨終なのである。
その母の声でわずかに目を開いたNは、私の顔を見定めると、やっと「ながながお世話になりました。」といった。私は思わず、病人の片手を両手でしっかり握りしめた。そしてこんなことをいった。「N。お父さんの処へいけるんだぞ。これだけは間違いないんだぞ。」
Nはよわく微笑して私の目を見た。そして非常に呼吸が楽になった。そして今一度母にお別れの微笑みせて、そのまま親身の人々の念仏のうちに、息を止めた。
今まで枕もとで誰よりもたくましく、たのもしげにしていたNの母の嘆きは、また誰よりも深くあわれでさえあった。
しかし「おかげさまでいい往生をさせてもらいました。」と私にいった。そのときに思った。もし私が仏の教えを聞かせてもらう身でなかったならば、どんなことをして、この教え子の死を送ったであろうと。先生の義務的な感情で、「しっかりしろ」といったような気休めを言うほか仕方なかったのではあるまいか。私は、本当の教師としての最後の勤めを、一人のNだけには尽くしたような気がした。私は、帰り道を、願正寺によった。私は何かしら如来さまにお礼をしたいような気がしたからであった】(以上)
清吉師は、がん疾患が原因で死亡しています。そして告知の日の思いを日記に綴っています。昭和33年12月27日の日の日記です。
【わたしは、そこから琵琶町に出る田圃道の時雨にぬれたぬかるみを歩きがら思った。−この平静さはどうしたことだろう。同じ道を来たときもちっとも異わないではないか。むしろ、今のほうが胸に内が澄んでいるではないか。この平静さ、というよりも、むしろ豊かに湛えた水のような状態はどうしたことだ。そう思ったとき、これ長い間、仏の教えに育てられたそのおかげではないか。−そうと思ったとき、わたしは瞼があつくなった。やっぱり浄土はあるのだ。その浄土につらなっているからこそ、この歓びが来るのだ。いま、私の胸には絶望や悲しみのかげだにないではないか。そればなりではない。ふかぶかとしたあたたかいものさえ満ちてくるではないか。】
「何かしら如来さまにお礼がしたくなった」といい、「瞼があつくなった」という素朴な信仰心に打たれます。
おのれの動きの背後に、大きな働きや力を見ていく。阿弥陀仏とともに生きている証がここにあるように思われます。
清吉氏には「しぶ柿問答」(光を聞く収蔵)という文章があります。この文章からも師の誠実さが伝わってきます。
ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
ー君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。―何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。
では、宗教は何の役に立つものなのかーと、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが、宗教だということは言っていいと思うーと答えた。
信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。―
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。
信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。―
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。
しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。
仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。―という突っこんだ言い方をしてきた。それで
自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられないーと、私もはずむような気持ちになった。それでは、仏というものは、存在するのかーという。存在するーと、きっぱりと答えると、何処にーと、追っかけるから
その、君の「問。」を起こさせている力として存在しているのだーと言いはしたものの、現在の私としては少し、早すぎる言いぶりではないかしらと、ひそかに思った。しかし、よく金ぴかの木像など、拝めるねーうそでは、拝めない。
だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。
川上清吉さんの本は、現在、古本でしか手に入らない現状ですが、師の生きることのへの誠実さ、念仏者としての現代に対する視座に触れたい人には手に入れて読む価値のある本だと思う。
* 川上清吉(かわかみ せいきち)明治29(1896)年〜昭和34(1959)年 64歳
若い時から短歌などの創作をし讃歌「芬陀利華」は現在でも歌われている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。著書「青色青光」「才市さんとその歌」「歎異鈔私解」「現実と未来との間」「愚禿譜」「教育の宗教的反省」「光を聞く」「川上清吉選集」他