平家は、文治元年(1185)、壇ノ浦で滅亡します。その4年前、養和元年(1181)は、墨俣川をはさんで平重衡を総大将とする七千余騎の平氏が西岸に、新宮十郎行家、源義円ら三千余騎の源氏が東岸に陣を整え、源平一大合戦がはじまろうとしていた頃のことです。

 世の中は、院政のゆきづまりから戦乱がひきつづき、たびたびおそいかかる天災地変や悪病の流行で、人々は不安に おびえながら苦しい生活をおくっていました。またこの年は、前例のない大飢饉がおそって、それは 翌年までつづき、みやびやかなはずの都大路は、死体のにおいがただよい、廃虚の街になりはてていた。
比叡山・奈良の僧兵たちの争いのために、東大寺・興福寺をはじめ諸大寺が焼きはらわれてしまうという事件もあいついで、今まで人々に尊ばれてきていたものが、その権威を失い、不安と混乱の時代でもありました。

親鸞聖人の父、日野有範(ありのり)は、藤原氏のわかれで皇太后宮大進(こうたいぐうのたいしん)でしたが、 この度、出家して三室戸大進入道(みむろどだいしんにゅうどう)とよび、日野から4キロほど南に行った三室戸に身をひそめることなりました。

聖人は、父の出家と共に、伯父である範綱卿に手をひかれて、青蓮院に慈鎮和尚を訪ねお得度することとなりました。慈鎮和尚はこの年より慈円の名のりはじめた。慈円は「新古今和歌集」撰進の和歌所寄人に加えられ、同集では、西行に次いで入集歌が多い(92首)歌人でもあった。

範綱卿 「慈円さまの歌を、一度、よみ聞かせいたことがあるが憶えているかね」

松若丸「はい、存じております。その慈円さまからお得度を受けることを喜んでおります」

範綱卿「……」

松若丸「……」

範綱卿「慈円さま、お約束通り松若丸を連れて参りました」

慈円「これが松若丸か、心の強そうな賢きお子じゃ。だが今日は日が落ちてしまった。明日の朝にでも、得度してしんぜよう」

松若丸は、期待と不安をもちながら、祖父の範綱卿に連れてこられたが、「明朝でも」という慈円の言葉に、期待と不安は決意に、心の中が変わったのを憶えた。その決意は、母との別れと、自分の今から進むべき道が重なったからである。

松若丸の心に一瞬、6歳の時、死別した母との最後の夜のことがよぎった。

母「よそさまの柿の実を、あなたがもぎっているのを見たという人があるけど、松若丸ではないですね」
松若丸には、心当たりがあった。しかし、叱られる怖さよりも、母を悲しませたくないとの思いが強く、つい「私ではありません」と口をついて出てしまった。安心した母の顔が、嘘をついた松若丸の心の痛みを和らげてくれた。

しかし松若丸は、その晩、母の嘘をついてしまったことへの自責の念に苦しみ、「明日、母の詫びよう」と思ったときは、夜半を過ぎていた。

翌朝、ただならぬ気配に起こされ、松若丸の耳に、父の母の名をよぶ声が突き刺さった。
「吉光御前 吉光御前」、その声は深い眠りから呼び覚ますように、声をかけていた。
すでに母は、息はなかった。松若丸は、母の元で悲しみと共に、母に嘘をついたまま、別れねばならない、どうにも成らない割り切れない思いと悔しさが身を包んだ。

その6才の時の記憶が鮮明に浮かぶと、松若丸は後先を考えることなく言葉が口を告いだ。

松若丸「お師匠様、どうか、どうか今宵に、お得度をお願い致しとうございます」

母と別れて以来、持ち続けている、自らへの許し難い「明日あやまろう」と思った、いたらなさが、涙と共に懇願の言葉となったのである。

何か事情でもあるのか、と問う慈円和尚に、松若丸は今の思いを歌にした返された。

松若丸「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に 嵐の吹かぬものかは」。

「今を盛りと咲く桜も、一夜の嵐で散ってしまいます。明日の命をだれが補償してくれるでしょうか。明日と言わず、どうかどうか今宵のうちにお願い致します」

涙と共に切々と訴える松若丸の心情が、慈円の胸を打ち、その日のうちに、得度の式をあげることとなったのである。

母との死別の悲しさ、自らの至らなさや後悔の念が、松若丸を動かし、仏道を歩むエネルギーとなったのである。

養和元年(1181)、慈円(慈鎮和尚)を師として出家、松若丸9歳の出来事である。以後範宴と称し20年間の比叡山での修行の始まりの時でもあった。

お得度・9才