親鸞聖人と開寿殿(9才の北条時頼)との一切経校合にまつわる会話
北条時頼は、禅宗の熱心な保護者であり、鎌倉の古刹・建長寺の建立者としても知られています。周知のことは「いざ鎌倉」の人です。
上野国佐野で雪に悩む旅僧が茅屋に宿を借りようとする。留守居の妻は夫を迎えに出、その旨を告げる。夫はにべもなく断ったが、妻のすすめに雪中を追って連れ戻し、粟飯をすすめ秘蔵の鉢木を火に焚いてもてなす。
感じた僧が名を尋ねると佐野源左衛門尉常世と名乗り、具足・長刀・馬を示して落ちぶれても武士の心意気を示す。やがて関八州に動員令が下り、鎌倉に馳せつけた常世は思いがけず執権の前に引出される。執権北条時頼こそあの夜の旅僧であった。面目を施し褒美を与えられた常世は意気揚々と故郷に帰る。
この旅の僧が北条時頼です。その時頼が9才の時のことです。聖人は関東在住20年の最後の時期にあたる63才、都に帰る直前の頃です。その1年前のある日のこと。
恵信尼「善信さま、幕府から使いの者が参っております」
面会を求めてきた使者に、聖人は怪訝に問いかけられました。
親鸞「して、この善信に何のごようでございましょうか」
使者「はい、実は、いま鎌倉に明王院五大堂を建立しております。建立完成の折りには一切経供養を予定しており、いま、明王院別当定豪〔1152〜1238.87歳〕らによって、一切経が書写されております。お願いの旨は、その書写した一切経の校合するお一人に加わって頂きたい。
聖人「…」
聖人は、幕府の仕事を手伝うと言うより、顕浄土真実教行証文類を完成するに際して、自由に親しく一切経が閲覧できるとの思いがよぎりました。
聖人「この善信でよろしければ、お仲間に加えて頂きましょう」
聖人は 稲田から鎌倉へ移り住み、一切経校合のお役を勤められました。それからほぼ1年後のことです。
一切経書写・校合もいよいよ終りに近づいたある日、他の僧とともに執権主催の宴席に招じられました。宴席には副将軍をはじめ、明応院別当なども加わり、魚類やお酒などもあり日頃口にしないも種々の珍物によりもてなされました。
明応院別当が聖人に近づくと小声で話しかけてきました。「善信殿、漁や酒を頂く時は、このように袈裟を外して食することが礼儀。それが戒を破る者のせめてもの勤め。食べられる魚や鳥への哀れみともなります。魚も坊さんに食べられては浮かばれません」。
聖人「……」
親鸞はふと、耳の底に止まっていた母から聞いた物語が一瞬、脳裏をかすめた。それは母より聞いてより今まで思い出したこともなかった釈尊ご幼少の頃の逸話であった。
母「お釈迦様が、まだお小さい頃のことです。庭園を歩いていると、トンボが飛んでいる光景にお出会いになりました。するとそのトンボを、陰に隠れていたカエルが飛び上がって食べてしまったそうです。カエルが満足していると、するすると近寄ってきたへビが、そのカエルをひとの飲み。すると今度は空を舞っていた鷲がそのヘビをついばみ大空へ舞い上がっていきました。そのご様子を見たお釈迦様は、悲しいお顔をなさいました。このときの体験が、お釈迦様がご出家され動機の1つだったそうです」。
優しい母の声に反して、親鸞の心には、母の死と強いのものが弱い命を奪うという残酷な話しとが重なり、心の奥底に刻み込まれていたのです。
聖人は、釈尊のご幼少の頃の逸話を話す母の言葉と共に、お悲しい顔をされた釈尊の悲しさに思いが及びました。釈尊の悲しみは、弱肉強食という命の連鎖の中で、力弱く終わっていく命に対する哀れみではなかった。弱い命を殺してしか生きるすべを持たない強きものへの哀れみであったという思いでした。
哀れむべきは、食べられる魚ではなく、弱い他の命を食べてしか生命をながらえるすべしか持ち得ない自分。その自分の存在と釈尊は悲しみが重なります。
その悲しみべき私が、無条件に救われていく仏法が、いま私の上に念仏として、お経の言葉として、また袈裟や法具などのお荘厳として整っている。「南無阿弥陀仏…」。親鸞は念仏を称えながら袈裟を押し頂いた。如来の慈しみを袈裟の上に拝したのです。
聖人は、袈裟を付けたまま座に着き、はばかることなく、魚や鳥の肉を食べ始められました。
しばらくして鱠が御前に運ばれてきた時のことです。他の出家者と異なり、袈裟を付けたまま、はばかることなく口に運んでいる聖人の姿を目にとめ、異様に感じらた、のちに最明寺の禅門となる9才の開寿殿が、聖人の耳元におよび小声でお尋ねになられました。
開寿殿「あの出家者たちは、あのように魚を食べつときは袈裟を脱いで食べておられます。善信さま(親鸞)、何かお考えがあってお袈裟を御着用してお食べになっておられるのではないですか。その訳を教えて下さい」
聖人「これは開寿殿さま、真意などありません。あの出家者たちは、つねにこうした座に着かれているので、魚や鳥の肉などを食べる時は袈裟を脱ぐべしという作法が身に付いているのでございます。この私は、このようなご馳走は今までに食べたことがなかったので、うっかり袈裟を脱ぐことを忘れていました」
開寿殿「そのお答は偽りでございましょう。きっと深いお考えがあるのでしょうが、この私がまだ幼稚なので、その真意を伝えても理解されないと思っているのではないですか。どうかその真意を教えて下さい」。
聖人「真意などありません。ご馳走を目の前にしてボーとしておりました」
またある日のことです。その日も宴席が催され、聖人は前回同様に袈裟を着服して魚食におよびました。その様子を見た開寿殿は、また過日の如く聖人の元に来て、その訳を尋ねられました。聖人は過日のように「また忘れました」と答弁すると、開寿殿は引き下がることなく、さらにその真意を聞いてきたのです。
開寿殿「そうたびたびお忘れになるはずはありません。きっと私が幼少でその真意は理解できないとお思いで、お心の内をお述べにならないのでしょう。どうかそこをまげて本当のところを教えて下さい」。うっすらと涙を浮かべた少年に、隠し通すことができないと思われた聖人は、心の内を打ち明けました。
聖人「私は生まれがたい人に生まれ僧となりました。この私が釈尊のお戒めになられた肉味を食べ、舌つづみを打つなどということは滅相もないことです。しかし今は末法濁世の時、戒律を保ってさとりを開く道は閉ざされ、戒律を保つ者もなく、その戒律を破るという思いを持つ者さえもいません。
私は、姿形こそ僧侶ですが、やっていることは皆さんと同じです。ただいまもこのように魚や鳥の肉を食べております。どうせ食べるならば、食べられる魚を仏道に導こうと思うのですが、私は如来の仏弟子と名乗っていますが、その姿に反して心は貪りと愚痴に覆われております。どうしてその私が、この魚を導くことができるでしょうか。
しかしこの袈裟は、過去・現在・未来にわたる仏たちのお覚りを見護り、そのお覚りを開いた仏の肌に直接触れてきた希少なる服です。私にはこの袈裟と如来のこの私を見護って下さる慈しみとが重なります。食べられる魚も如来の救いのめあて、食べる私も如来の救いのめあて、魚も私もこのまま救われていくしか救われようのない存在、その両者を救って下さる阿弥陀仏の功徳を常々この袈裟の上に仰いでおります。いまも如来の功徳をこの袈裟に感じながら、袈裟をつけて食べております。人が聞いたら愚かなこととおかしく思われることでしょうが、真意はそんなところです。南無阿弥陀仏…」。
聖人の心の内を聞かれた開寿殿は、幼少の身ながら、聖人のその言葉に感動し、「得難いみ教えを聞かせて頂きました」と、宴席も仏と知遇する道場となることを喜ばれ、深く聖人の言葉を心に刻まれました。