四季社刊「これからの真宗しきたり全書」第5章

差別

 仏教は、一切の差別から私やあなたを解放する教えです。従って仏教徒のはたす社会への働きかけは、すべての差別を解消する方向に向かっているとも言えます。

 私が教えに耳を傾けること自体、誤った分別への固執や偏見から解放されることであり、浄土真宗を依りどころとする私の歩みは、御同朋御同行の言葉のように、他者を差別せず阿弥陀如来の平等の慈悲に安住する者同士の関わり合いです。また近年提唱されてきたビハーラ活動は、終末期のいのちであっても差別すべきものではないといういのちの尊厳を大切にする活動であり、靖国神社国家護持反対の行動も、いのちの問題から捉えたとき、戦死者を英霊とする「英霊の死とその他の死」に分ける死の差別化への反対行動なのです。

 一言で差別といっても語り尽くせない広い問題を含んでいます。まずは何が差別なのかを見抜く見識と、自分の言動を見つめる良識、また差別を温存させている社会の構造や体質にも思い寄せていくことが重要です。

差別ってなに

 差別とは、人を「評価」するところから生まれます。一般社会にあっては、人を評価することは当然の行為です。経済活動の分野から、受験、就職、スポーツなど、人を評価することをぬきにしてはこの社会は成り立ちません。しかしその評価が、社会的な評価に止まらず、「あの人は足が遅いから駄目な人間だ」となれば、ここに不当な差別が生まれます。足が遅いくらいでは個人の尊厳が冒されることはありませんが、「あの人は障害者である」「癌を患っている」となると、人として劣った人であるがごとき待遇を受けてしまいます。また社会的な評価も、部落差別に代表されるいわれなき不当な認識に基づく評価は、人権を無視したいのちを踏みにじむ行為だともいえます。

 国連人権委員会は差別を「個人に帰することができない根拠に基づいた有害な区別」、「社会的・政治的ないし法的な関係において正当化できない結果をもたらすような根拠(皮膚の色、人種、性など)、あるいは様々な社会的カテゴリー(文化的、言語上、宗教的、政治的意見その他の意見、民族系列、社会的出身、社会階級、財産、出生または他の地位)に所属しているという根拠に基づいた有害な区別」と定義していますが、差別とは個人が責任を負えない評価による有害な区別のことです。

 差別には、部落差別をはじめ人種・民族・性別・障害者に対する差別など、さまざまな差別が存在します。差別事件とは、特定の個人や集団の基本的人権を不当に侵害し、市民的権利を著しく脅かす行為、および、その行為によって引き起こされる事態を言います。具体的には、歴史的・社会的に被差別の立場にある人々に対し、自覚的・無自覚的に蔑視に伴う発言・文書・身振りなどあらゆる表現形態を含む行為と、それにもとづいて人間として安心して生きる権利(教育・職業・結婚・住居などに関して平等に認められている権利)を、その人から不当に奪う結果をもたらす行為全般をさします。この項ではいくつかの差別をご紹介し実践への手がかりとなればと思います。

部落差別

 部落差別は近世の封建社会(特に徳川幕府の政治)に形づくられた身分階層からから出てきた差別であって、現在でも一部の人々に対して、誤解や偏見による差別が残されており、個人の尊厳と自由を侵害する深刻な社会問題です。

 宗教教団しては、「『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議」(1981年結成、69教団、3協賛団体(新日本宗教団体連合会、全日本仏教会、日本キリスト教協議会)が組織され、それぞれの教えの根源にたちかえり、部落差別問題への取り組みがなされ、各都道府県において、反差別・人権確立のための「同宗連」活動を展開しています。

 本願寺派では1950年、浄土真宗本願寺派同朋会が設立され、2000116日同朋運動50周年に当たり、「同朋運動50周年記念大会」が開催されました。現在でも基幹運動の目標に「御同朋の社会をめざして」と掲げ差別撤廃に向けて取り組まれています。こうした取り組みの中で、差別事件は差別者個人だけに、その責任・問題があるのではなく、教団の差別構造や、差別体質のあらわれと理解されるようになり今日に至っています。差別事件に取り組むことは、何が差別であり、何が差別状況を作り出し、差別を温存させているのかを問うことを通じて、さらに差別構造を明らかにしていくことでもあります。
 また大谷派でも、1921年以来、真身会、大谷派同和委員会として取り組んできた歴史をもち、1962年には同朋会運動が始ました。しかし、必ずしも教団人全体に受け止められてたはいえず、たびかさなる差別事件を起こしてきました。教団の差別体質と差別構造の変革を目指し、1972年、各教区に同和協議会を設置、1977年に同和推進本部を発足して、この問題に取り組んでいます。

 現象としての差別事件にみでなく、差別意識を生み出す教学や制度・慣習が厳しく問われている問題でもあり、差別の行為個人の責任と共に、身近なところから取り組むことが不可欠です。 アメリカ公民権運動の指導者であったキング牧師は、人種差別について「後世に残るこの世界最大の悲劇は、悪しき人の暴言や暴力ではなく、善意の人の沈黙と無関心だ。後世に恥ずべきは『暗闇の子』の言動ではなく、『光の子』の弱さと無気力である」と語っています。部落差別も同様に、自分は差別していないといった傍観者的立場や無関心が、差別を許す土壌を培っているのだとも言えます。差別は、心理的にも実態的にも、個人の人権や尊厳に対する暴力的な行為であり、人間存在そのものを否定する行為です。見て見ぬふりは許されない事象なのです。

性差別

 性差別とは、性別に基づいて人を不平等に扱う行為や言動のことです。男女の関係は、現代でも対等・平等な関係ではなく、常に男性が女性を差別するという一方的な関係にあります。

  この性による差別は、近代まで封建思想や女性を不浄視する社会の中で、差別することに何ら不審も持たず、女性の尊厳と自立性を否定してきた長い歴史があります。仏教も、女性を五障(仏になれないことを含む五つのさわり)・三従(女性は親・夫・子に従うべきもの)の思想により成仏できないと差別に荷担してきました。浄土真宗では、蓮如上人以後、五障三従の女性の救いを説いてきましたが五障三従という表現自体に差別性があり、現代では不適切な言葉だといえます。

 ジェンダーという言葉をご存じでしょうか。社会的・文化的性差や、女らしさ・男らしさのことです。女らしさ・男らしさは、生まれつきではなく社会的・文化的につくられたものだということです。ジェンダーは、あたりまえのことのように、私たちの意識や生活の中にとけ込んでいて、気づきにくいものです。特に伝統的な分野では顕著です。お寺でも、知らず知らずのうちに、ジェンダーにしばられたものの見方が支配しています。これからの寺院運営においては、男尊女卑や性別役割分業を見直していく時代にきています。

 例えば、 総代や役員は、必ず男性である。男性は上座で、女性は下座。法要や会合では、女性が湯茶の準備や後片付けをし、男性だけで話し合っているなどはよく見受けられます。それが今までのしきたりであったとしても、差別性のある因習の継続は、現代人からみ教えを遠ざける要因となります。

  本願寺派では、1999年「男女共同参画を考える委員会」で2年間に亘る協議を経て、「提言書〜教団の男女共同参画を進めるために〜」としてまとめられました。教団の主要ポストや活動分野では、そのほとんどが男性が占めている現状の中で、時代の流れという立場からではなく、本来の同朋教団の姿に立ち返っていく営みとして取り組まれています。

 大谷派では1996年宗務所組織部に女性室を設置し坊守制度の問い直しや男女共同参画による同朋教団「男女両性で形づくる教団」の創造に向けて取り組んでいます。

 私が所属する東京教区でも、性差別解消に向けて、宗派の法規が「坊守を住職の補佐」としている現況の改正や、運動推進者への女性の積極的登用、女性僧侶の法要出仕への環境整備など、具体的に一歩一歩実現に向けて推進しています。また女性の参画は、儀式や権威偏重の法要式や宗教活動のあり方そのものを問い直す契機とする視点も重要です。

害者差別

 障害者差別は、身体的・精神的な特徴と理由により、他の人々と平等な立場で社会生活に参加する機会が奪われ、あるいは制限され、その自由が束縛されている状態にあることをいいます。

「障害はその人の個性である」。そんな言葉をよく耳にしますが、まだまだ障害者と言えば、「〜できない人」であり、「負担・重荷になる人」であり、「かわいそうな人」といったマイナスのイメージがつきまといます。障害とは「〜できない人」ではなく、健常者中心の社会で「〜させない」社会があるということなのです。 

 「障害者に思いやりを」という言葉を聞いたことがあります。思いやりという言葉は、心地よい響きがありますが、「被差別部落の人に対する思いやり」とは使いません。使わないというよりも許されるはずがありません。「思いやり」の根底に「思いやるべき人」という差別の現状を追認する考え方が潜んでいるからです。また、「障害者の人たちだって頑張っているのに、私もしっかりしなくては」という発言も同様です。「障害がその人の個性」とは、背が高い人や低い人、男性や女性、顔の形の違いと同じ様に、「障害」も他人との単なる『違い』であり、その人の『個性』の一つという理解が大切です。

  寺院と言えば階段や段差のある建築というイメージでしたが、東西本願寺を初め、徐々にですがバリア-フリー(建築設計において、段差や仕切りをなくすなど高齢者や障害者に配慮をすること)のお寺も増えつつあります。また大きな法要などでは手話通訳も試みられるようになりました。

 障害者差別は、個人の尊厳への差別と共に、本堂に参拝できない等のみ教えに出遇うたの障壁を低くしていくことも課題です。朗読聖教の常備や法要や法話ビデオテープの宅配など、障害者への障壁を低くしていくことは、そのまま門信徒の老齢化が進む現実への対応でもあります。

差別法名

 浄土真宗には、差別法名や過去帳への差別記載を行ってきた歴史があります。差別法名の責任をただ過去の時代的な背景や教団・社会に転嫁してしまうことは、同じように時代の制約の中で生きている、私のあり方を問う機会が失われてしまいます。

 現在、差別法名をつける寺院はありません。しかし人権が侵害される可能性のある「差別につながる添え書き」の記載はいかがでしょうか。人権が侵害される可能性をもつ記載とは、門地(華族・氏族・本家・分家・資産家・使用人など)・死因(自殺なの具体的な病名の記載)・国籍(国籍を正しく標記せず、北朝・南朝・半島人など差別性をもった表示)・職業・出生(嫡出子・庶子・私生児等の表現)などです。過去帳の記載は、法名・俗名・死亡年月日・性別・年齢・施主(喪主)との続柄・施主(喪主)の現住所に限定します。

 また過去帳は、個人の基本的人権に関わることなので公開を厳禁とし、門徒からの問い合わせの場合、書面にてその目的、対象等の明示があったとき、その門徒の直接の先祖に関する部分の抜き書き等に限定して開示します。取り扱いは代表役員もしくはその許可を得た者に限ります。人権侵害に繋がる記載は過去帳に限らず、門徒名簿・教化団体会員名簿及び現在帳にもあってはならないことです。

 本願寺派では1998年に「差別法名・過去帳調査」を行いました。99%を越える提出率の中、差別法名や近世被差別身分を表した添え書きが多数報告されました。また過半数を超える寺院から居士等の規定外法名が確認され、今後は、法名の意味を問い直しつつ二字法名への回帰が早急な課題となっています。

 大谷派でも、1983年、鹿児島別院保管の過去帳から、差別法名が発見されたことを機縁として、差別法名に関する調査を実施し、教団のもつ差別体質克服のための取り組みがなされています。

 現在本願寺派では組単位で、二字法名に限定しようとする活動も行われつつあり、山口教区都濃東組は組が一体となってパンフレット等の作成啓発を通して法名の二字化を進めた実例もあります。大谷派でも、東京教区で教化実践項目で位号(居士・大姉・信士・信女)の撤廃に向けての取り組みが行われています。法名に優劣の価値観を持ち込むこと自体が反仏教的な行動であり、法名とは何かをひとり一人に問うていく営みが不可欠です。 

老病死の差別
 死は敗北のいう観念は、いのちの価値を有用性に見る価値観がら生まれています。いのちの価値も物の価値と等しく、役に立つ、有益であるという観点からのみ量られ、老人や病人は、役に立たない存在であり、自身がそうした状況に陥ることは不幸なことであるという考え方です。老病死のいのちに対する排除の価値観、それが老病死への差別です。

 浄土真宗の教えは、消えゆくいのちの終わりであっても、そのいのちが見捨てられることなく阿弥陀如来の慈悲に摂取される。すなわち仏に成るという意味づけされた存在であるという、いのちの尊厳を明らかにしてくれる教えです。終末期におけるいのちの尊厳への差別は、生命倫理の問題と共に、今後ますますクローズアップされていくことでしょう。

  この終末期におけるいのちの尊厳に関わる活動をビハーラ活動といいます。ビハーラは西洋のホスピスの代わる仏教の言葉として田宮 仁氏が1985年に提唱し定着した言葉です。浄土真宗本願寺派では1987年より「ビハーラ実践活動研究会」を組織し、毎年70名程度の人に実践者の養成を目的として二カ年に亘る学習会を行っています。こうした学習会を終了した人が中心となり、全教区にビハーラが組織され、活動が展開されています。大谷派でも、教団としてではなく、個々の有志による活動が各地で行われています。

 私の関わる東京では、「浄土真宗東京ビハーラ」(1983年結成)が組織され、「がん患者・家族語らいの会」(月一回開催)や「死別の悲しみを聞く電話相談」(月〜金)を中心に、悲しみも苦しみも評価せず、ありのままのその人を受け入れる活動が展開されしています。

 苦悩を安易に否定する傾向が、老病死の否定を生み出し、老病死は不幸なこと、死は敗北という認識を醸成しているとも考えられます。じっくりと隣人の苦悩に耳を傾けることから始めなければなりません。

 また安楽死や脳死、堕胎など生命倫理を考え、念仏者として発言していくことは、個々の問題とを通して、仏教の考え方や価値観を現代に伝道していくことであります。

死の差別

 毎年、夏になると真宗連合(浄土真宗十派で構成)から、「首相・閣僚の靖国神社参拝中止要請文」が提出されます。参拝中止声明の骨子は、「英霊の死とその他の死」という死の差別化と、「戦争の正当化」への反対という二点です。国(政府)のために死ぬことを善とする風土を造ろうとする国の指導者への反対声明です。

 死の差別化は、靖国神社に限ったことではありません。「良い行為をしたら良い死に方をする」という考え方として、多くの人の意識の底に流れています。この生前の行為への評価を、そのまま死後へも反映させる考え方は、仏教が培ってきた考え方だともいえます。死や死者を差別しない。実はこの考え方こそ阿弥陀如来のお慈悲の教えに立った者だけしか発言できない事柄なのです。

  毎年、本願寺派では9月18日国立千鳥ケ淵戦没者墓苑において、「全戦没者追悼法要」が営まれ、大谷派でも4月2日に真宗本廟で「全戦没者追弔法会」が営まれています。ともに戦争で命を失ったすべての人を対象とする法要です。

 具体的な活動としては、そうした法要への参拝や、同時に開催されるシンポジウム等のイベントへの参加を通して理解を深めていくこと。また、靖国神社への総理や閣僚の参拝反対のデモ行進への参加などがあげられますが、そうした活動に参加することは、社会へのアピールと共に、自分の問題として考える契機ともなります。

 死に優劣をつける考え方は、先祖のたたり等の死者供養の問題も同根であり、最も身近な問題だとも言えます。


社会運動への参加

 浄土真宗の教団史の上で、江戸時代の初期は、最も伽藍や教団の機構が整備された時代です。それは教団の独自の努力というよりも、幕府の諸法度による引き締めに負うところがおおきいようです。この時代、幕府の宗教政策は、寺院ごのと個別的統制から、画一的統制への移行していったのです。その一環として檀家制度の成立が挙げられます。

 従来の本願寺門徒の性格は、時代や地域による差はあっても、一貫する特性は、宗祖親鸞聖人の経説と人格を慕う人々の集まりでした。そして人々は、信心の沙汰をすることが中心課題となっていたのです。檀家制度成立以後、寺と門徒の関係は、念仏による結合から、葬儀年回へと重心が移っていき、それは1671年(寛文11年)に、全住民を宗旨人別帳に記載し、それを僧侶が証明するという檀家制度として成立します。この制度により、寺院と門信徒の結びつきが本末関係となり、門徒という限定された人々のみへの対応となりました。また仏教本来の役割である「苦悩の除く」活動が形骸化し、阿弥陀如来のダイナミックな働きが概念化していったとも言えます。驚くことに封建社会崩壊後、その関係は一世紀をゆうに越えた今日に至るまで及んでいます。

 仏教の社会運動は、仏教本来の生命である「苦悩を除く」原点に立ち、現代に浄土真実の教えを復興し、すべての人に浄土真宗の教えを解放していく運動でもあります。

 時代には、その時代特有の濁りがあります。先の封建時代で言えば、幕府は1684年、「服忌令」(ぶっきれい)を制定し、死の汚れを法律で規定し死穢の観念を強めていきます。この死穢の観念は、同時に動物の死等を扱う被差別部落の人々に向けられたことは容易に想像されます。そして部落差別は、心理的にも実態的にも被差別者を蔑視の対象として確立していきました。個人の尊厳を冒とくする部落差別が、社会の常識という社会体質となっていったのです。また他の差別で言えば、物質的な豊かさを唯一絶対とする価値観により身障者を劣ったも者と差別され、世間の優劣の価値観を法名に持ち込み差別法名を付けるなど、その時代ではそれが常識でした。その常識が、差別者の差別意識をマヒさせ、被差別者の痛みを覆い隠してしまっていたのです。

 このことは「明治」期以降、教団は差別事件を、ひとりの人の不見識として、差別のすべての責任を個人に転嫁してきましたが、解放運動の発展や同朋運動推進の取り組みの中から、差別事件は差別者個人だけの責任の誤った認識に止まらず、社会の体質や考え方の反映であると理解されたことと同様です。社会の誤った常識がさまさまな差別を生み出していくのです。性差別にしろ障害者差別にしろ、差別者が、差別していると認識していないところに根の深い問題があり、社会運動化していかなければならない必然性があります。

 しかしその差別の体質がその時代の常識であっても、その常識ゆえに涙した人が無数にいたはずです。なぜその時代の濁りや人の悲しみが見えなかったのか。それは私自身が少数者ではなく多数者の側に立ち、弱者ではなく強者の側に立ち、被差別者ではなく、差別者の立ち、他者よりも優位であることの中に、自らの存在の証を見出すという差別体質を持っているからだと思います。その差別体質ゆえに他者の涙や苦しみに耳を傾けることを拒み続けてきたのです。念仏者の社会運動への参加は、苦しんでいる人の側に立つこと、それは自らの差別体質との決別することから始まるのです。

 前章でキング牧師の言葉にふれました。1964年にノーベル平和賞を受賞し、その4年後39才で銃で撃たれ死亡した彼の生涯の中で最も有名は言葉があります。1963年8月28日,リンカーン記念堂前で黒人公民権運動の行進に参加した25万の人びとにむけて行なわれた“I have a dream.”(私には夢がある)の演説で語った言葉です。彼はその時、歌うように語ったと言います。

「私には夢がある。いつかジョージア州の赤い丘で以前の奴隷の子と、以前奴隷を所有していた者の子が兄弟のように同じテーブルにつくのを……」。「兄弟のように同じテーブルつく」。この当たり前のことが日常の出来事となる。その背景には、人種によって個人の尊厳が否定されない社会があります。差別をなくす運動は、あなたと私と社会が、個人の尊厳を尊重する価値観に目覚めていくことであり、実はそれは、私自身がすべての差別から解放されていくということなのです。