聖覚法印との最初の出会いの場面です。

時は建仁元年(1201)慈円が2度目の天台座主につき9月16日より21日間、如法法華五種の行を修行したときのことです。時に権律師であった聖覚法印は、僧綱有職の23人のひとりとして慈円座主が主催する法要に参加しました。その修行を終えた次の日のことです。それは聖人28歳の折りの、出来事でした。

聖覚「おたずね申す。私は聖覚と申しますが、このお堂に範宴さまはおいでになられますか」
範宴「私が範宴です。あなたが聖覚さまですか。お若いのに昨日は、慈円座主の主催(1201)されらご法要に加われてらと聞いています」

聖覚「法要の最後(結願)に、私の父が導師を勤めた、私のその付録です」

聖覚の父の澄憲は、天台唱道化の祖として重んじられ、大僧都の位についた人でもあった。

聖覚「それはそうと、以前、後白河法皇がご逝去(1192)された折り、法王の四十九日法要に招かれましたが、その折り、伯父君の範綱公にお会い致しました。今は範綱公も出家の身ですが、たいそうあなたとことを案じておられてました。また昨日は、法要を終えた後、慈円座主が、あなたのことを気にしておられました。修行の邪魔とは思いましたが、今日は思い切って訪ねてまいりました。して仏の道はいかがですか」

範宴「聖覚殿、私も、一度お目にかかりたいと思っておりました。私は今、このお堂で堂僧をしております。比叡にのぼり、早、20年目を迎えようとしています。祖師方の教えにより、心を静めようとしても煩悩の波が騒ぎます。また法界を観念しようとしても、迷いの雲にかきみだされます。悟りの峰は、遙か遠く、自分の力のなさに、ただただ、虚しい日々をいたずらに過ごすばかりです。深い闇に沈み、一寸の光さえも見出さない……」

聖覚「あなたは、いま、迷いの雲を払い、煩悩の波を沈める道を求めておられる。しかしもしあなたが、その煩悩の渦巻くただ中で、また深い闇の中で、その煩悩や深い闇を否定することなく、心の平安を実現し、真実との出遇いに開かれることがあるとしたならば、そのことは、あなた同様、煩悩と深い闇に閉ざされて、あえぎながら生きている人たちにとって、大きな希望であり、大いなる安らぎとなるのだと思います。どうか自虐することなく真実の道を求めて下さい」

範宴「……。そのお言葉は、今の私には重い……」

聖覚「私は今、叡山の竹林院を離れ、竹林院の里坊である安居院に住しております。巷では法然上人の念仏の教えが、もてはやされております。私も法然上人とはご縁があり、何度もお話を伺っております。一度、あなたもお訪ねになったらいかがですか」

範宴「私も噂は聞いております。善導さまのお念仏のお流れだとか」

聖覚「迷いのままに救いありという教えです。範宴殿、さとりを得ることを目的としては成りません。どんな良いことであっても、その良いことを向こうに眺めたとき、私たちはその良いことに縛られ、惨めさが生まれます。法然上人の教えから行くと、要は凡夫であることを受け入れることです…」

範宴「……」

聖覚「ご修行の中、ながいをしました。どうぞ一度、法然さまをお訪ねになって下さい」
範宴「私も末法の世において、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむこと自体が、間違いではないのかと、心のどかかで不安に思っておりました。少し時間を頂き、またおたずねしとうございます」

時に親鸞聖人28歳の時のことでした。聖人は翌年29歳になり、比叡山を下りる決心をします。決心したとはいえ、20年親しんできた仏道と決別するのには心が揺れ動きます。


* 聖覚法印(仁安二年・1167ー1135)。法然上人のお弟子の中でも、よく上人の念仏の教えを理解し、「御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり」(法然上人行状繪図)とあるように、すぐれた念仏の行者として過ごされた方です。親鸞聖人も生涯よき先輩と仰ぎ、師の著されました『唯信鈔』(承久3ー1221 宗祖49)を、お写しになられたり(寛喜2 1230 宗祖58)、そのお心を広く有縁の方々に勧めておられます。 
 法然上人の黒谷の庵で説かれていた浄土教の説教は、仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていきました。
 その理由の1つとして、文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する手段とし取られた口演(説経)による布教があげられます。その説教の中心を担った人が聖覚法印です。
 聖覚法印は天台宗の高僧として若くから高名でしたが、法然の説く浄土教に接するや、天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、その高弟となりました。この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、「説教念仏義の祖」として尊敬されています。
 聖覚法印は、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、語り掛け、身振り手振りを使い、内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法の大成者とも言われています。この聖覚法印は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、説教にて道俗を教化していた人です。彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことです。後に安居院流説教道は節付説教(説談説教)の名にて呼ばれ、本の話芸に多大な影響を与えている。この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、声明・和讃・講式などが発展するにつれ、これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていったとも言われています。

比叡山下山前夜