本派勤式(声明を中心に)の流れと、勤行集の発行(03.6.30発行)について
宗祖は、60才を越えて京洛に帰られてから、法然上人のご入滅にあえなかったことを嘆き悲しまれて、毎月月忌に声明僧を招いて四昼夜にわたって、礼讃念仏を勤められた。覚如「拾遺古徳伝」。建久3年3月(1192・宗祖1歳)法然上人とその一門により、京都八坂引導寺にて、日本で初めて「往生礼讃偈」による礼拝儀式を行う。
宗祖遷化は弘長2年(1262)11月28日午後2時頃(本願寺史)。三条富小路の舎弟尋有僧都の禅法坊。臨終には、尋有、覚信尼、息男道性や顕智坊、専信など在京の門弟が侍り、一同念仏読誦のうちにその夜を明かし、翌29日午後8時興しを奉じて、はるか鴨川東を通って、東山西の鳥野辺東のほとりで火葬して、翌30日収骨した。その時の勤行は記載無し。おそらく当時盛んに唱えられていた引声短ん声の念仏や往生礼讃などが誦されたといわれている。
覚恵の時代には、すでに宗祖晩年より正信偈と和讃を引声して5種または7種を読誦していたことが、了源(1285-1336)の記録にあり。また覚恵は声明にも通達しており、早くから正蓮院や禅法坊で名人といわれていた尋有僧都の伝授を受けた。徳治2年(1307)4月12日、父覚恵の病重きを聞いた覚如は、日頃の望みにより枕元にて往生礼讃を唱えたところ、床上に端座して西向きにしてこれに即し、念仏百偏して入滅したという。
覚恵は少壮の頃天台宗に入り、大原の尋有僧都について学ばれる。この尋有は、魚山声明のは譜にその名をとどめ、慈鎮和尚と共に蓮界(声明の中興たる良忍の弟子の家寛ー智俊ー蓮界・法然の指示した叡空は良忍の弟子)の弟子。「慕帰絵詞」巻一に「三部四曼の蕚をもてあそび、五音七声にたしけるが、隠遁して覚恵房とよばれき」
第3代覚如宗主(宗祖滅後8年の文永七年・1270年世寿81才)の勤式上の功績は、報恩講式(宗祖33回忌・覚如25才)と伝絵の制作。式文の制作当時、毎月28日の例事として、必ず1座をもうけて式文を修していた。
元応2年(1351)1月19日82才にて死寂。収骨勤行は礼讃無常偈。
第4代善如宗主(正慶2年・1333年世寿57才)の時、宗祖百回大御忌記録なし。
第5代綽如宗主(観応元年・1350年世寿43才)
草創の影堂に対して、寺院としての制度を整備され、勤式威儀に意を注がれた。
専ら往生礼讃偈と阿弥陀経。御堂衆6人を置き、妻子のない清僧がいつも精進して経論聖教に励み、朝夕勤行に携わっていた。前宗主の晩年かこの頃、御堂に本尊阿弥陀如来を安置。善如・綽如両上人の頃は、浄土宗の流儀に倣っていた。
第6代巧如宗主(永和2年・1376年世寿65才)に、それ以前行われていた念仏・和讃系の声明が休止され、阿弥陀経と六時礼讃を中心とする声明が復活。礼讃は、浄土宗全般に隆盛し、各宗ともに同じ譜が用いられていたようである。門主の声明本に、法事讃・礼讃・十四行偈あり。宗主35才の折、宗祖150回大御忌、記録無し。
第7代存如宗主(応永3年.1396年世寿62才)は、正信偈を本典から別立し、和讃と共に書写して教化と勤式に用い、蓮如上人の基礎を作る。また阿弥陀堂が文献上初見。実悟記に「存如上人の頃より六種の和讃勤め成申したることに候」
第8代蓮如宗主(応永22年・1415年世寿85才)、吉崎時代の文明5年(1473)3月に、三帖和讃に正信偈を加えて四帖として開版。以後、歴代の宗主によって幾度か改版されたが、みな「文明本」を踏襲。「悲歎述懐和讃」と「善光寺和讃」「正像末和讃」に納められている11種の「皇太子聖徳奉讃」、帖外2種の「太子和讃」は、いずれも諷誦しない。これも文明本による。
御正忌の御俗姓のご制作。式嘆・ご伝記の拝読、改悔批判など山科御坊の頃から始まる。
ご遺言に「我死セバ大阪ヨリ曲録ニ乗セ、正信念仏偈ニテゴ影堂前ニ移スベシ」とあり、以後の葬儀は、それまでの往生礼讃偈を廃し、正信念仏偈と定められた。『実悟記』(蓮如十男・本願寺の故実に関する記録)「当流の声明は小原流なり。総じて諸宗共に声明は小原流・千本両流を本とする也。しからば円如の御事には下間名字のの幼少の人を一人小原の声明師の弟子となして置、よく稽古の功ゆき候はば、こなたへ取りてきて声明の譜をよくならわせ置て、当流によく覚悟すべきことなりと仰せ候き」
ご継職されて4年目に(寛正2年・1461)宗祖二百回大御忌法要。「正信偈大意」を著わされて二百回大御忌の記念とされる。
第9代実如宗主(長禄元年・1457年世寿92才)
22日(太子)・25日(法然)に早引きを始められる。「浄土法事讃」を廃し「浄土三部経」にかえられ、三経伽陀を初めて用い、年忌・祥月には、「正信念仏偈」や「正信偈和讃」を依用される。御影堂での勤行の上に法談(賛嘆)を始められる。「御文」の編集。各地から得た合計197通の中かろ肝要な80通を五帖に。開版は実如上人13回忌。宗祖二百五十回大遠忌。正信偈は墨譜・舌々の別が生じ、江戸初期には、句切・句下・墨譜行・墨譜真・墨譜草・繰引・中拍子・舌々真・舌々行・舌々草の10種類を数えるに至った。(現在の大派の9種類の正信偈は、この9種類とあまり変化のないものといわれている)
第10代証如宗主(永正13年・1516世寿39才)
御文鶴の丸の他に八籐を用いられるようになる。しかし、次代顕如上人のお袈裟の文は鶴の丸であったが、准如上人の時、幕や諸道具まで八籐とする。
元文元年(1532)山科本願寺炎上にて、翌二年石山本願寺を本山とする。漸次造営を加え、天文11年(1542)阿弥陀堂ご遷仏法要修行。勤行は、三部経・伽陀・早正信偈・和讃三種。「御文」の開版。
宗主が戒師となり顕如さまを本山で得度執行。彼岸会七日間勤修始まる。
第11代顕如宗主(天文12年・1543年世寿50才)
正親町天皇の勅旨で門跡に列せられる。門跡寺院となり、法式は一変。法衣(色会、金欄七條袈裟・絹袈裟・織物袈裟)、儀式等に他宗敵色彩が強くなる。
宗祖三百回大御忌法要、各日中とも初めて七條袈裟、法服(袍裳)を依用。各日中とも、伽陀・三経の順読・漢音行道、華篭を依用され、行道散華、この大法要から。
第12代准如宗主(天正12年・1577年世寿54才)
慶長3年(1598)8月、本寺を擁護した太閤秀吉が伏見城で逝去、翌4月と8月に洛東大仏において八宗の僧百人ずつ招いて追弔の法会あり(毎年)。この時、御堂衆・一家衆以外にも七條袈裟の着用を許す。
宗祖三百五十回大遠忌、御影堂内陣を塗り金彩色、御真影の御厨子を内外金箔に、礼盤卓に初めて打敷きをかける。天蓋を新調。阿弥陀堂本尊が寄進されクシ御光を円光(船型)とされる。作法は天台の作法。
本山の年中行事について、諸式を制定(御酒海等今日に続く)。その大綱は現在も伝承されている。輪袈裟を依用。晩年に雅楽を始める。両堂焼失、阿弥陀堂再建。
第13代良如宗主(慶長17年・1611年世寿51才)御影堂再建。宗祖四百回大御忌の記念事業として、大谷本廟のご造営。四幅のご絵伝を八幅にし現在に至る。
築地別院の建立。
第14代寂如宗主(慶安四年・1651年世寿75才)厳正な勤式を督励。阿弥陀合殺念仏。八句念仏。半鐘。歴代御影を書き改め画讃。寺院建築に諸規則を定める。
宗祖四百五十回大遠忌記念事業として本廟の明著堂・総門等を新築。
第15代住如宗主(延宝元年・1704年世寿67才)、別院の整備。福井・津村の再興。山科・伏見・堺・北山・讃岐の塩谷など。
第16代湛如宗主(享保元年・1716年世寿26才)ご在職2年。
第17代法如宗主(宝永4年・1707年世寿83才)
宗祖五百回大遠忌の記念として本堂再建。(仮本堂は西山へ)
これまで宗祖以外の歴代の年忌は三十三回忌までであったが、覚如上人の四百回忌等を修行し、以後先例とされる。宗祖五百回大遠忌に際し本堂再建。
宝暦6年初めて「真宗声明品」を開版。「大谷本願寺通記」15巻(玄智編集)。本堂晨朝は漢音小経舌舌を止め讃仏偈、短念仏、回向(我世彼尊)、御影堂は正信偈草譜に日没は正信偈四句下がり短念仏回向に定める。三部経読誦に節柝を用いる。
第18代文如宗主(延享元年・1744年世寿56才)
この時代のことは、光隆寺知影の「魚山余響」に詳しい。蓮如上人三百回遠忌。別修祥月永代経を始められる。
第19代本如宗主(安永7年・1778年世寿49才)法如上人よりの三代四〇余年に及ぶ三業惑乱の裁断。宗祖五百五十回大遠忌。日野別堂の草創。
第20代広如宗主(寛政10年・1798年世寿74年)
安政4年(1857)本山蔵版の「声明品集」一部四巻を出版。
蓮如上人三百五十回遠忌、法要記念に正信偈三帖和讃を開版。(章譜付・昭和8年まで依用)。宗祖六百回大遠忌。
第21代明如宗主(嘉永3年・1850年)
明治21年「龍谷唄策」(二冊本)初めて調子・音階とも明記して編集出版。本派近代声明の原本となる。今日の声明集に比べ、次第も多く、長文で曲譜も難しく、一通り修得するのも難しい専門職の領域の声明といえる。
蓮如上人(第8代宗主)
吉崎時代(1471,7建立)正信偈を朝夕の勤行とし、文明5年(1473)3月、三帖和讃に正信偈を加えて4帖とし開版。これが本宗における聖典開版の初めであり、今日の正信偈読誦の基礎となりました。
明如上人(第21代・明治18年)の時、正信偈の唱法は整理され、真譜・墨譜(ボクフ)・中拍子・草譜・舌舌行の5種類とされる。
明治30年勤式練習所開設。
明治5年11月に政府の改暦の令に合わせ(陰暦12月3日をもって明治6年1月1日と定める)、宗祖を始め歴代宗主の命日を太陽暦に改正。
明治7年に、初めて宗祖降誕会を5月21日に行われる。15年より前夜「無量寿会作法」今日に至る。
明治9年11月28日、親鸞聖人見真大師を賜る。
明治15年3月22日、蓮如上人慧燈大師を賜る。両大師の宣旨は両本願寺で保管。毎年4月1日勅使門(唐門)にて奉迎する。西暦奇数年は宗祖を偶数年は中宗を迎える。
同15年、宗祖の御得度を記念する行事として毎年5月12日に青蓮院において得度会を参行して修行(東本願寺と共に)。
同31年蓮如上人四百回遠忌。
第22代鏡如上人(明治9年・1876年)
明治36年(1903)伝灯奉告記念に、記念五條袈裟、また「下がり藤」文を宗門全体の紋章とする。同41年(1908)、服装規定を定め、僧綱襟の分離、有文・色衣を一般僧侶に解放。
明治44年(1911)宗祖六百五十回大遠忌。
大正12年(1923)立教開宗七百年記念法要の時、正信偈作法登場。
第23代勝如宗主(明治44年・1911年)
昭和6年(1931)勤式練習所再開。
昭和2年(1927)明如上人25回忌と法統継承を記念して、法式調査会をおこし、新しい時代にふさわしい法要勤式のあり方について、鏡如上人の思い入れもあり、勧学・学識者・音楽家などの衆知を集めて5年調査研究後、8年の伝灯奉告法要は新制の声明作法で勤修。同4月1日蔵版本発行(現在のものと異なる)。この時、現在の正信偈真譜・行譜・草譜が制定。葬場勤行の正信偈は舌舌を用いていたが、今までの中拍子を三重で称える。
真譜と行譜(善導以下)の譜は、五会の荘厳讃の譜を依用。念仏和讃は、礼讃中夜偈の譜から編曲。
昭和12年(1937)ご婚儀に際しては、真宗の教義に基づく仏前結婚式を制定。
昭和23年(1948)蓮如上人四百五十遠忌法要の記念行事として「意訳聖典」刊行。勤式指導所より「新制勤行聖典」(抜粋の三部経)
昭和24年(1949)勤式指導所「龍谷勤行要集」発行。
昭和33年(1958)春大谷大谷本廟にてお待ち受け「親鸞聖人七百回大遠忌」のおり「奉讃大師作法」制定。この時のご消息にて真宗の生活信条を示される。36年本刹にて勤修。
昭和44年(1969)本廟ご造営慶讃法要に正信偈作法。
昭和48年(1973)ご誕生800年・立教開宗750年慶讃法要、正信偈作法第三種。一般寺院用にその依用本として正信偈作法第二種を制定し配布。昭和42年(1967)4月15日立教開宗記念法要の日「浄土真宗の教章」を制定。
往生礼讃の譜について
旧来初重・三重で「アタリ」で唱えていた箇所は、昭和48年(1973)9月以降すべて「ユリ」で唱えることに統一。阿弥陀を各偈とも一字一拍とする
第24代即如宗主(昭和20年・1945年)
◇伝統奉讃作法ー昭和54年伝灯奉告法要の折制定。
◇奉讃蓮如上人作法(第1種・第2種)
第1種は平成9年(1997)、第2種は平成10年(1998)蓮如上人五百回遠忌法要のおり。
三奉請・画讃・正信念仏偈・念仏・蓮如上人奉讃・回向(第1種は画讃なし)
● 昭和61年(1986)4月 葬儀規範勤式集発行
・ 添引和讃の名を廃し和讃とする。変成男女等男女の別をなくす。
・帰三宝偈の譜に「引」を記す。
●御文章の拝読における伝承音の一部変更(平成8年1月1日より)とひらがな御文章の発行(日常拝読用御文章の選定変更)
日本語は古代より開音節語と呼ばれるもので、必ず最後が母音で終わる音節によって組み立てられています。撥音「ン」や促音「ツ」は漢字の影響によって平安時代に入ってから新しく生じた音節と言われています。漢字の中で「t]で終わる入声音は、原型とは多少異なるが、鼻にかなる、呑む、ふくむ、などという独特の鼻音(鼻的破裂音)で発音して伝えてきました。ですからお経の「ツ」の文字は鼻音で唱えます。しかし和語の「つ」(保つ)などは「つ」と発音して伝承されたものです。それが何時しか和語の「つ」と入声音の「ツ」が混同され伝承されました。平成8年の伝承音の一部変更はこうした経過の中で変更されたものです。
【拝読における伝承音の一部変更について】式務部・勤式指導所 H7/9宗報
1 和語(本来日本語・一(ヒトツ)・二(フタツ)・三(ミツ)・保つなど)の中で従来、鼻 音(鼻的破裂音)によって発音していた下記の文例に準ずる箇所を普通の 「つ」「tsu」と発音することに変更します。
〈文例〉
ワカ身ニハヒトツモアヒソフコト (御文章1帖第11通)
ヒサシクタモツヘキニアラス (御文章2帖第7通)
フタツモミツモアルヘカラサル (御文章2帖第8通)
当流ニタツルトコロノ (御文章2帖第10通)
アヒソナワリツヘキモノナリ (御文章3帖第9通)
ヲクレサキタツ人ハ (御文章5帖第16通)
御タスケアリツルアリカタサ (御文章5帖第22通)
2 従来、促音によって発音していた下記の箇所を「つ」「tsu」と発音する ことに変更いたします。
信心トイフコトハカツテ是非ノ (御文章1帖第12通)
後生ヲハカツテネカハス (御文章4帖第2通)
信心ノ沙汰トテハカツテモテ (御文章4帖第12通)
フツトタスカルトイフ事 (御文章5帖第2通)
3 漢字音(中国音の日本語化したものー(イチ)・七(シチ)・八(ハチ)・吉(キチ)・越(エ チ)・日(ニチ))の下記の文例に準ずる箇所を普通の「ち」と発音することに変更いたします。
〈文例〉
コノタヒノ往生ハ一定ナリ (御文章1帖第5通)
万一相違セシムル子細 (御文章4帖第6通)
三途八難ニシツマン事ヲハ (御文章2帖第1通)
*昭和36年3月5日発行「本願寺新報」に
「今般正信偈、念仏および和讃の唱読法を左記の通り定めましたからおしらせ致します」「鼻音(鼻的破裂音)について、従来唱えていた鼻音化された『つ』は、すべてこれを廃し、普通の『つ』に発音する」と発布されている。
● 平成8年(1996)3月 表白集発行 文語調・口語調の2種類
*文語調ー生(しょう)を 口語調ー生(せい)と仮名の改訂。
● 平成10年(1998)日常勤行聖典発行「誓不成正覚」に従来読み癖であった火急の「ー」が入る
● 平成9年(1999)浄土真宗本願寺派 法式規範(改訂版)発行
● 平成15年(2003)7月1日「勤式集」(2冊本)の発行
特徴ー現行の「声明集・往生礼讃偈・御文章」の中から依用頻度の高いものを選出し、仏事 勤行として阿弥陀経と正信偈、和讃、奉讃早引作法(大師・源空)をあわせて編集されている。
改訂点
・声明集からの変更点は、実勢の声明に則した譜に譜を改訂
例 一音半上がる場合、「ウツル」から「ハル」に変更
・経段等の読み方の仮名の変更 鼻音の場合 「つ」→「ツ」 終「しゅう」→「しゅ」
促音「ふっ」→「ふ」」
「無量寿経作法」35カ所 「阿弥陀経作法」13 他 全111カ所
・旋律回施譜の表記法の改訂(折れ線表記の採用)等。
得度、教師の折りは、「龍谷勤行集」から、この「勤式集」持参に変更となりました。
以上