浄土真宗から生まれた文化


 日本の文化には、仏教が大きな影響を与えています。日本文化は仏教文化だと言っても過言ではないほどです。
 また親鸞聖人を開祖とする浄土真宗から生まれた文化も数多くあります。今日はその中の2つほどご紹介します。その1つは結婚式の婚礼の時に女性が用いる「角隠し」です。この角隠しを広辞苑で引くと次のようにあります。「一向宗門徒の女性が寺参りの時に用いたかぶりもの。現在では婚礼の時に花嫁がかぶる頭飾り」とのことです。角隠しは、頭の上の角を隠すかぶりものという意味ですが、この角隠しは、私には人を傷つける角がありますという、念仏者の慎みによって生まれた営みなのです。親鸞聖人がご自身を「愚禿」と名乗られています。愚禿の愚は「愚かの愚」であり、愚禿の禿は、ハゲと言う文字を書きます。愚禿とは「僧の形をした愚か者」という意味です。親鸞聖人が愚禿と表明されたのは、智慧才覚を他の人と比べておっしゃったのではなく、阿弥陀仏のまことの心に出遇って、明らかになってきたご自身の心のあり方や、自分の自由意志でのどうにもならない欲や怒りの現実の我が身を見定めた言葉なのです。まさに「私には角があります」ということでもあります。めでたい婚礼の席でそのめだたさに溺れず私には角があるという「角隠し」を用いる。次の世代に伝えたい大切な文化のようにも思われます。

 もう1つ、浄土真宗から生まれた文化としてご紹介したいものは「させて頂きます」という言葉使いです。現在の日本語の表現として「読ませて頂く」とか「見せて頂く」とか用います。この「させて頂きます」は、浄土真宗から生まれた言葉づかいです。これは司馬遼太郎さんの説ですが、司馬さんの「街道をゆく」という著書の中に次のように書いています。

「日本語には、させて頂きます、という不思議な語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。「それでは、帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。…この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お陰」が成立し、「お陰」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などという。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。」途中を少し省略して続けます。

「かつて近江商人(近江門徒)が、京・大阪や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい門徒語法が出た。「かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます」というふうに、この語法は、とくに昭和になってから東京に浸透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである」とのことです。
 真偽のほどは定かではありませんが、大いにあり得ることです。
私が仏の名を称え、合掌礼拝する。それは偏に阿弥陀仏の働きやお育てによると受け取る念仏者が、自分の行為行動の背後に大きな恵みやお陰を感じ、何事にも「させて頂きます」という表現となり、日常会話を行った。

 この「させて頂く」という表現も、先の「角隠し」と同様、浄土真宗の教えが味わえる奥ゆかしさ感じます。
 その近江商人の代表と言えば伊藤忠や丸紅の初代の創業者伊藤忠兵衛氏が有名です。この伊藤忠兵衛さんは篤信の真宗門徒でもありました。
 平成14年2月の産経新聞に「われ官を恃まず」という連載の中で、伊藤忠兵衛氏が紹介されていました。この連載が、後に同名の本として出版されています。

 この創始者の伊藤忠兵衛氏は、米国向け直貿易のパイオニアでしたが、「商売は菩薩の業」という信念で商売を営み、毎朝店内の仏壇に向かい念仏を申し、よく店員を引き連れて大阪の御堂さんと親しまれている津村別院に法話を聞きに行ったそうです。
 その連載記事にその伊藤忠兵衛氏が常日頃語っていた言葉が紹介されていました。それは次の様な言葉です。

「事業や財産の興廃存滅は意とするに足らぬ。理由のあることで仕事を潰しても文句は言わぬが、お前は信仰のある…他力安心の家庭に育っただけに、他の全てを失っても、本当の念仏の味、有り難さだけは忘れてくれるな。仕事も生活もそれに乗せてくれ」とのことです。
 事業にはうまくいくときもあれば失敗するときもある。それが人の世の姿。しかし浄土真宗の信仰は、商売が上手くいったときも、失敗したときも、自分を支えてくれる生きるより所。その生きるよりどころは、すべての財産を失っても、失ってくれるなという人生の心髄を示した言葉です。
 「させて頂きます」。なにげなく使っている言葉ですが、この言葉が生まれた背景に、こうした念仏を喜ぶ方々の営みがあったのです。


アジアの笑い話

 図書館でふと「アジアの笑いばなし」(東京書籍刊)という本が目にとまりました。まずは、その本の中から1つお裾分けです。
小見出しに「中国・指一本の意味するもの」とあります。そのまま紹介してみます。
 国家試験を目前に控えた3人の受験生が、結果を占ってもらいに、ある占い師のところへいきました。
 すると、占い師は、なにも言わず、ただだまって指を一本立ててみせました。
 結果が発表されてみると、3人の内一人だけが合格しており、おかげでこの占い師の評判はぐんとあがりました。

 占い師のわかい弟子は、どうしてそれが分かったのか知りたがりました。
「成功の秘訣は、ものをいわぬことじゃ」と、占い師はいいました。そして、それを聞いた弟子がぽかんとしているのを見て、こうつけ加えました。
「いいかね、おまえは、わしが、指を一本出したのを見ておったろう。それは、三人の内一人だけが合格するという意味にも取れる。事実そうなった。だがもし二人合格しておったとしても、わしの見立ては、やっぱり正しい。指一本は、一人落ちるという意味にも取れるからな。三人通ったとしても、指一本は、三人そろって一度に合格という意味にも取れる。その反対も同じこと。どんな場合もわしは正しいんじゃ」
 この指1本の話しを読んで、私はテレビや週刊誌に出ている「星占い」のことが思われました。たとえば「乙女座ー今日は、人との出会いと大切」とあれば、人との出会いを大切にして幸せであった人も占い通り。不幸な目にあった人も、その人の努力が足りなかったので占い通り。という具合です。

 大方の占いは、気休めや遊びの範囲ですが、いつも親しんでいるとここ一番の時に判断を誤ります。占いは右か左か、選択の余地があることが前提です。

 戦国の武将・武田信玄(一五七三没)に次のような逸話があります。戦さのさなか、一羽の鳩が飛んできて陣屋にとまった。これは吉兆であると喜んだ家臣を前に、信玄は鳩を鉄砲で撃ち落とした。そして「大事な戦中である。詰まらぬ迷信に左右されず、しっかりと腹を据えよ」と諭したといいます。一生懸命の心情には選択の余地はありません。このこと1つに心が定まる。ここに本当の強さがあるのだと思います。
 阿弥陀仏一仏という言葉があります。一般には多くの仏さまを拝むことが深い信仰心だと思っておられる方もおありでしょう。しかし浄土真宗では他の神仏を拝まず阿弥陀仏ただ一仏だけを礼拝します。
 私たち多くの仏を拝む時の心情は、何か私の願いを実現するときです。たとえば、商売繁盛にはどの神さま、思う人と結婚できるためにはどの神さま、じんぞう病の時にはどの仏さま・・・というように、それぞれの神さま、仏さまにおすがりして、自分の欲望や願いをとげようとします。願いの用途別に神仏を礼拝するのです。私の願いを病気にたとえますと、神仏を薬のように、病気の種類によって薬がことなるように、拝む対象も違ってきます。

 しかし如何でしょうか。果たして私の願いが叶うことだけが神仏の恵みなのでしょうか。以前あるお寺の開示版に「病気が治ることがご利益ではない。病気を無駄にしない心こそご利益である」とありました。病気や老いや死は、避けることの出来ない人生の必然の事実です。そうした病や老いや死に際して、その事実を遠くに押しやり避けることだけを唯一の生き方とせず、そうした苦しみを新しい成長の扉を開く意味ある営みとして受け入れ、より大切なものに出合っていく。ここに病気を無駄にしないという生活があります。
 過日、30代のがん患者の方のお話し聞きました、がん告知、手術、化学療法、2度の再発、社会復帰、凝縮された数年間の体験を通して、「病気が治る・治らないという以外の生きる座標軸が大切です」と語っておられました。

病気が治ることが最も望ましいことです。しかし治らない病気の中にあっても、失われることのない出会いや喜びがあり、治らない病気を抱えた私を支えてくれる座標軸、すなわち生きるより所の大切さをいわれたものでしょう。

阿弥陀仏一仏をより所とするとは、私の願いや欲望が満たされることをのみ唯一の希望とするのではなく、私
がどのような状況にあっても、その私を受け入れて生きてゆける。阿弥陀仏の慈しみの中に、いかようなる私であっっても、その私が満たされ生きる意味が与えられていくということです。
指一本ですべてが語り尽くすことが出来る。先の話しは対象が三人だから成立する話しですが、阿弥陀仏一仏という浄土真宗の信仰は、他の神仏を拝む必要のない世界に私が開かれて行くことなのです。