浄土によって今が明らかになる

 日本の昔話が今と昔では変わっていると言うことをよく耳します。
 たとえば「桃太郎」はこんな具合です。。
 桃太郎といえば鬼退治。鬼は悪の権化。しかし鬼塚さんや鬼頭さんに気の毒だと、「鬼がやってきて悪さをしている」といい変え、「家来」は身分制度を助長すると「おとも」や「なかま」となっています。これは当然のことでしょう。問題は最後の結末です。
 本来の物語は、鬼を殺し、その首と引き替えにお姫様を助けるという筋書きです。ところが現在の物語は「どうか おゆるしを。ぬすんだたからは ぜんぶ おかえしします」「よし、にどと わるいことを するなよ」(「ももたろう」講談社)という形で終わっています。
他にも「花咲か爺さん」「猿蟹合戦」「かちかち山」「舌切り雀」など、同様に、残酷さや死を避け、復しゅうや汚いものをなくすといった、子どもたちに好ましくないと思われる描写をさけ、「めでたし、めでたし」で終わるようになっています。
 一見、子どもたちに良さそうですがいかがなものでしょうか。私は、この大人のこざかしい配慮は、むしろ逆効果でないかと思います。これでは善悪という人間特有の概念が子供の心に根付きません。悪を許すという博愛の精神も大切です。しかしこの博愛も懺悔や後悔が機能していないと、たんなる「何でもあり」でわがままを許すだけに終わってしまいます。懺悔や後悔は、悪の自覚そのものです。悪は、罰を受け身を斬られるといった痛みを伴うものとして身にすりこまれていきます。
 社会経験の少ない子どもには、行為の上に善悪をみる力が充分育っていません。身を切られ、死んでいくという状況の上に、登場人物が犯した罪の大きさを語っていきます。結果によって、その原因であった行為の意味を知るのです。だからむかし話では、斬られたり死んだりが重要な役割を持っているのです。
 私たちは、今を明らかにする場合、結果を持ち出すことがよくあります。食事で好き嫌いをいう子に対して「そんなことでは大きくならないよ」と結果を示します。結果を示す方が、より効果的に現実が理解できるからです。
 お経の中にも、こうした結果を説き示すことによって今を明らかにする表現が沢山あります。たとえば「地獄の堕ちる」こともそうです。これは未来に地獄という場所に行くというよりも、いま現実に存在している自身の罪悪性を言い当てた言葉なのです。
 お釈迦様は、社会経験が乏しく善悪の概念を身につけていない子どもに、結果を示すことによってその行為の意味や値打ちを伝えるように、未来にどのような世界が訪れるかという結果を持って、私の行為の意味や価値を教えて下さっています。
浄土真宗の教えは、念仏を申し浄土に生まれ仏になるという教えです。浄土というと、何か死んだ後のことで、今とは無関係の出来事のように思われるかも知れません。しかし浄土に生まれるとは、決して未来のことだけを語っているのではありません。
 「すべての人が無条件に阿弥陀如来の浄土に生まれる」。この浄土真宗の教えに心が定まるとは、どのような生き方であっても、浄土に生まれていくほどに価値と意味を持ったいのちであることに意識が開かれることでもあります。浄土によって今の値打ちが明らかになるのです。
 社会の尺度では、どうしようもない存在であったとしても、尊い阿弥陀如来の浄土に摂め取られていくいのちであると思われるとき、私の存在が、社会の尺度とは違った意味づけをもったいのちとして転換されていくのです。
 私の願いは、病気はいや、困難はいや、不幸はいやと言った排除の価値観です。ところが阿弥陀如来の願いは、病気の貴方も、困難や不幸にある貴方も、かけがえのない貴方ですと、私のマイナスをも受け入れて下さいます。お浄土とは、そうした阿弥陀如来の願いを形で表した世界であり、私の今の一歩一歩に、存在の意味と値打ちを与えて下さる世界なのです。