煩悩具足の凡夫

知人に、詩人であり司会やナレーション等で活躍されているかとうみちこさんと言う方がおられます。みちこさんは、高校2年の時、心臓発作を皮切りに、原因不明の病気になります。大学病院を転々とし、二〇歳の春、代謝不能のため、体重二十二キロ、血圧六〇〜三〇の最悪の状態とり輸血によって一命を取り留めています。二十二歳の時、あなたの病気は「無腐性壊死」(むふうせいえし・骨が腐る難病)と診断が下されたそうです。
 そのかとうみちこさんに数年前、お寺の講演会にお話しをしに来ていただいたことがあります。その時、次のような話をしてくださいました。20歳過ぎの頃、詩の勉強会に参加された。大変感動的な勉強会であったそうです。その折り、先生から富士山の絵を描いてご覧と言われたそうです。その後、その先生も富士山の絵を描いてくださった。何と丸い富士山を描かれたのだそうです。「驚きました。びっくりしました」とその時の驚きをお話し下さいました。真上から見た富士山の絵を描かれたのです。富士山も見方によって想像もしなかった形がある。その時、百パーセント病身であると思っている私以外に、両親から見た私、天から見た私、みんなから見た私など、百パーセント病身でない私がいるのではと、思われるようになったのだそうです。
 自分が自分を見るほかに、もっと違った自分があることに意識が開かれていくということがあります。仏教もまたこの意識の広がりを問題としています。自分が自分を意識するにとどまらず、仏様のまなざしの中にある自分に意識が開かれていく。これが信心の世界なのでしょう。
 浄土真宗の教えに「煩悩具足の凡夫」という言葉があります。煩悩とは煩い悩みとかく煩悩であり、具足とは、十分にそなわっているということです。阿弥陀如来の救いの対象者のことであり、それが私の真実の姿であると示されます。私の愚かさが明らかになる。ここに阿弥陀如来との出遇いがあります。
 ウソと本当は、対立しているようですが、ウソが明らかになるところに本当なるものとの出会いがあります。
 数年前の体験です。葬儀のご縁があり、雨の中、ある儀式会館に出勤しました。舗装されていない水たまりのある道で、思わず泥水がはね、白い足袋が、水玉模様ならぬ、泥玉模様になってしまいました。白いたびの上に泥玉模様ですからよく目立ちます。会館なのでスリッパがあるかも知れないと思い会場には入ります。会場は葬儀だというのに赤い毛氈がひかれ、座布団が並べてあります。とてもスリッパをはく状況ではありません。またその日に限りは足袋の備えがありません。
 私はその時、福岡の友人の話を思い出しました。その友人が、あるお寺にご法話に行き、衣装を普段着から和服の正装に着替えをしていた。たびをはこうをして手に取ると、なんと右だけが、2つあった。たびは左右で一足です。右だけが10あっても役に立ちません。その場はたびを忘れたことにし、お寺から拝借し無事済ませた。たびを整えたのは、パートナーです。お寺に帰り、パートナーに一部始終を告げ、非をなじったのだそうです。すると妻いわく、「片側を裏向けにしてはけば良かったではないか」とのこと。
 私はふとそのことを思い出しました。早速実行してみると、冬のことで、裏地が着いておりその裏までは泥玉もようはついていません。これ幸いとはきましたが、ハゼというフックが裏向きにはくことを想定していないのですぐはずれます。係りの方からセロハンテープを借り、ぐるりと巻き付け、袴を少し下におろし気味で着用し、何とか上手く法要をを済ませることが出来ました。
 私は、裏向けのたびは、参詣者の方には分からなかったと自負しています。裏向けのたびという先入観はないし、一般の方は、裏向けのたびなんか見たことはないので、気づかなかったはずです。もしその裏向けのたびを見抜いた人が居たとしたら、たびの裏向けを何度も目にしたことのある人です。本物を身につけている人が、ウソをウソとして見抜きます。「これはウソだ」とウソが明になる。そこに本物の働きがあります。
 「煩悩具足の凡夫」と、自分の愚かさが明らかになることです。そこに本物との出会いがあります。自分の経験や、社会の尺度からすれば、当然のことであっても、仏さまを基準に考えるとき、当然と思っていたことが、愚かな行為であったと明らかになっていく世界です。それは阿弥陀如来のまなざしの中にある自分が明らかになることでもあります。