脳死と臓器移植考
                            
 西原祐治
まずは私の意見から記します。

死はプロセスであり、どこの時点をもって死とするかは文化の問題。文化の問題

であるが故に、浄土真宗ではどのような文化を願うのかという視点で考えるべき

であろう。

プロセスとしての死に、境界を設けるのは、文化であり社会である。

  心臓死→個体死

   脳        3分  → 正常 → 生存

    大脳皮質    5分  → 植物状態→ 生存

    脳幹      10分 → 脳死→ 個体死へと向かう

   心臓の電気活動  15分 

   瞳孔収縮力    30分

   腱反射(3時間)・角膜(12時間)・皮膚(48時間)・動脈(72時間)・骨(72時間)

文化により、心臓死であったり、細胞レベルでの死であったりする。

仏教自体は死は否定されるものではなく自然なこととして受容を説く。浄土真宗にお

いては、念仏者の死は迷いからの解放であり、念仏者の死は還相への転換と示され

るように、死の肯定を説く。だからといって「死にたくない」という営みである脳死→臓器

移植の希望を否定する根拠とはなり得ない。

脳死の肯定は、「見て触って」という主観と感情を大切とし死を見てきた文化から、機械

や客観的なデーターで死を判断しるという、客観的・科学的な基準を大切にするという文

化への移行。これは感情より知性を大切にするという大きな流れの中にある。主観や感

情を大切にする文化であって欲しい。

また、人類が築き上げた最高の文化は、死を受容していける精神のしなやかさ・心の豊か

さを開発したということである。(浄土真宗では阿弥陀如来によって開発されていくのであ

るが)死を否定するのではなく、死を受け入れていく可能性に関心を持ち、その方向を大切

にすべきである。

ただ、脳死の否定は、脳死ー臓器移植によって苦悩の解決をはかろうとする人たちの希望を

絶つことであるから、そうした苦しみの中にある人の苦悩に寄り添うことを抜きししては語って

はならないのではないか。

臓器移植については、脳死は認めず、脳死者からの移植を許すという「違法阻却事由」(いほうそきゃくじゆう)です。「違法阻却事由」とは、正当防衛・緊急避難・正当事由のように、「刑法上、構成要件を充足し、違法として推定される行為について、例外的に違法性を否定する根拠となる事由」が、違法阻却事由と言われているものです。殺人であってもその罪は問わないことです。








西原祐治レポート

1,脳死・臓器移植に関する年表

1967年 世界初の心臓移植(南アフリカ)
1968年 札幌医大で和田寿郎教授が日本初の心臓移植。
殺人罪で告訴されるが不起訴処分となる。
1974年 日本脳波学会が日本初の脳死判定基準公表
1978年 免疫抑制剤サイクロスポリンを移植に使用。
以後、移植成績が飛躍的に向上する。
1979年 「角膜及び腎臓の移植に関する法律」制定
1984年 脳死患者からの膵・腎同時移植(筑波大学)
1985年 厚生省が脳死判定基準(竹内基準)発表
1992年 脳死臨調が脳死を人の死と認める最終答申
日弁連が脳死臨調答申に反対意見書
1994年 超党派議員15人が臓器移植法案提出し、廃案になる。
全国心臓病の子供を守る会が移植早期実現を国会に要望。
1997年03月 臓器移植法案を超党派議員6人が提出する。
1997年06月 臓器移植法修正案が衆参両院で可決し成立する。
1997年10月 臓器移植法実施

2009年5月30日 改正案 審議

臓器移植法 脳死臓器移植に道を開くため、1997年に施行された法律。臓器提供の条件として、本人の書面による意思表示と家族の同意を求めている。臓器提供ができる年齢も15歳以上に限定したため、国内での提供件数は81件と低迷。海外に依存する状態が続いている。

 法改正のきっかけは、世界保健機関(WHO)が今年1月、「臓器移植の自国内完結」を求める新指針の採択方針を表明したことだ。採択は1年延期されたが、海外でも臓器不足は深刻で、欧州や豪州などは日本人患者の受け入れをすでにやめている。

 6月初旬にも予定されている衆院本会議での採決は、政党の多くが党議拘束を外す方針。それぞれの改正案に対して投票され、いずれの案も過半数に達しない場合、すべて廃案になる。

2009年5月30日  読売新聞)

現行法と改正4案の比較

 

脳死の位置づけ

臓器提供できる年齢

臓器提供の条件

現行法

臓器提供する意思がある
場合に限り、「人の死」

15歳以上

本人の書面による
意思表示と家族の同意

A案

一律に「人の死」

制限なし

家族の同意。本人が生前に
拒否したなら提供できず

B案

現行法と同じ

12歳以上

現行法と同じ

C案

現行法と同じ
(脳死定義は厳格化)

現行法と同じ

現行法と同じ

D案

現行法と同じ

制限なし

15歳以上は現行法と同じ。
15歳未満は家族の同意と
第三者機関の承認。本人の
拒否権有り



* 人体を扱う法律

法令
臓器移植法(1997)
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.html
ヒトクローン規制法(2000)
http://www.ron.gr.jp/law/law/hitoclon.htm

法令に基づかない行政指導方針
厚生労働省・文部科学省「遺伝子治療臨床研究に関する指針」(1994)

厚生労働省・文部科学・経済産業省「ヒトゲノム遺伝子解析研究に関する倫理指針」(2001)
文部科学省「ヒトES細胞の樹立と使用に関する指針」(2001)
ほかに厚生科学審議会、中央薬事審議会などの意見書やガイドラインがある。

学会などによる自主ルール
日本組織培養学会・日本産科婦人科学会などによる自主規制やガイドライン




2,脳死の理解

脳死とは
・三兆候説=心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大固定Y脳死
・全脳説 vs 脳幹説
・ほとんどの人は、心臓死→「脳死」。
・死はプロセスである(脳死であろうと心臓死であろうと)
・では、どうして脳死が問題とされているのか。→臓器移植のため
脳死は死か
・脳死=生物学的な死か
・“脳死=死”は脳中心の見方
・社会的、文化的な死と脳死
・プロセスとしての死に、境界を設けるのは、文化であり社会である。
  心臓死→個体死
   脳        3分  → 正常 → 生存
    大脳皮質    5分  → 植物状態→ 生存
    脳幹      10分 → 脳死→ 個体死へと向かう
   心臓の電気活動  15分 
   瞳孔収縮力    30分
   腱反射(3時間)・角膜(12時間)・皮膚(48時間)・動脈(72時間)・骨(72時間)

脳死者の現況
死亡者の約1パーセント(3〜8000人)、交通事故やスポーツ事故の突然死で、家族は混乱と不安の極みの中にある。

諸外国の状況
脳死者からの臓器移植は、アメリカやヨーロッパを中心にほとんどの国で認められている。ただし国ごとに基準が異なり、ドイツ、オランダ、スイス、インドなど、脳死を個体死としていない国もある。臓器摘出について2つのタイプがある。
コントラクト・イン 提供の意志表示をしている人に限る。アメリカなど。
コントラクト・アウト 本人の拒否の意志表示が生前ないときは、医師の判断だけで臓器提出。家族の承諾も要らない。フランス・スペインなど。

脳死と諸問題
脳死者の臓器移植の問題は、医学的な問題だけでなく、法律的な問題、経済的・社会的な問題、国際的な問題、文化・宗教的な問題などを含んでいる。

・臓器移植そのものの問題
・臓器移植しないと治らないのか?
・臓器移植は過渡的な治療法にすぎないのではないのか?
・臓器移植も、もうひとつの延命策ではないか?
・末期医療(精神的ケアなども含む)全体の中で脳死−臓器移植は語られるべき
・救急医療体制の貧弱な現状
・臓器の絶対的不足の問題
・医師−患者関係
・死を医師が一方的に、密室で決めることへの不信。患者の権利が確立されていないところで脳死−臓器移植が導入されるとどうなるか。
・「死(脳死を含む)」
・臓器移植法が(唯一の)死の定義法となってしまう。他の法律やその運用への深刻な影響
・脳死を死とせずに臓器移植ができる道がある。
・違法性阻却論/責任阻却論→移植医はこれに満足しない。なぜか。
・「脳死=死」と認定してほしい 移植医〜「殺人罪からは守られても、法律で死者と決まっていないと、自分のメスで殺すことになるのでは気分が悪い」という感覚。

3,仏教界の意見

臓器移植推進
布施行としての臓器移植
ジアータカ物語・「大智度論」のシビ王(逃げてきた鳩のために自分の肉体を鷲に与えた)・「それがし親鸞閉眼せば、賀茂川にいれて魚にあたふべし」(改邪抄・覚如)
布施行には、三輪清浄(する人、される人、する物が清浄)が不可欠。

菩薩行
個体の生命に執着するのはエゴイズム、私の臓器は私の所有物でない・

仏教の道理に基づいて肯定ではなく、医療技術への信頼。

臓器移植否定
不殺生、慈悲の精神のもとずいて
他の生命を傷つけない

命の長短をそのままに生きる・与えられて生命を精一杯生きる

身心一如
精神と肉体を一元論的に考える。肉体もその人の人格の一つ。

意識と体温の両方を重視してきた伝統
具舎論では 命根(いのち)は寿と暖と識の統合的な持続

仏教における知見の独自性
対象が非人格的であっても、かけがえのない人と見ていける。

本多静芳 
脳死臓器移植は、人間の分別による、いのちの私有化と分断化である。いのちは、その成立として、あらゆるいのちは所与性として始まった。それが自然の道理である。そのいのちを「私のもの」化したとき、分断し、分節化し、利用していく道、即ち手段化・道具化がおきる。手段化されたいのちは「もの」として扱われる 。人間が自らのいのちを「非いのち」化して行く歩みである。

田代俊孝
生命を時間の長短で測り、自我的な立場で延命を果たしても、その価値観に縛られている限り、どこまでいっても死は不本意な死でしかない。仏教は、本来「死すべき身」である事実に目覚め、主体的な立場で死を受容し超越説く。移植はいのちの所有化。臓器移植によって延命をはかることではなく、主体的な立場でその束縛から解放され、絶対満足を得ることこそ大切。
現代社会の生命に対する見方1.生命のもの化。2.死あるいは死者のタブー化。3.いのちの所有化。

松永有慶
安易な欲望充足ではないか。

小川一乗
脳死を死の承認することは科学的合理主義の帰結。
仏教の基本的立場
1.生まれ死ぬ命は自分のものではないという自己発見。生かされているものとして、共に仲間として生きる。
2.効率性を本とする合理主義は、弱者を排除する結果となる。臓器移植もその結果のこと。障害や病気がないのが「理想的な社会」であるのに対して、仏教は障害があっても病気があってもともに助け合って生きるそれが「理想的な社会」としている。生命延長のためなら何をしてもいいという生命尊重は終わった。効率性を元とする動機移植は必ず差別を生み、弱者の排除する社会現象を生む。科学的合理主義から生まれる不幸(原爆、公害、自然破壊)に苦しんでいるのが現代。
3.死を敗北とみず、死の受容を説く。
4.人間の死は関係の中で確認される。医学的一側面で、利用のために便宜的に決めた命の物質かを容認すべきでない。

善意善行に左右されることなく、人間にとって何が本当の救いかという視点を失ったら仏教でなくなる。
人間の発想自体が排除の論理
臓器を提供しなければ死ぬと言う人を助けたい。それはユーマニズム、人情の世界。
私が慈悲を行うというのは本来間違っている。
善行と悟りは本来関係ない。
医者が治療し、悪いところを切り取って知立するのと、説法によって病気から解放されるのとは全く意味が違う。
物に頼ったり、心に頼ったりしてはだめ。ただいまこの瞬間で大満足といえる救いの原理にであっているかであって否か。その知見をそくすのが仏教の慈悲。
 
西原祐治
死はプロセスであり、どこの時点をもって死とするかは文化の問題。文化の問題であるが故に、浄土真宗ではどのような文化を願うのかという視点で考えるべきであろう。
仏教自体は死は否定されるものではなく自然なこととして受容を説く。浄土真宗においては、念仏者の死は迷いからの解放であり、念仏者の死は還相への転換と示されるように、死の肯定を説く。だからといって「死にたくない」という営みである脳死→臓器移植の希望を否定する根拠とはなり得ない。
脳死の肯定は、「見て触って」という主観と感情を大切とし死を見てきた文化から、機械や客観的なデーターで死を判断しるという、客観的・科学的な基準を大切にするという文化への移行。これは感情より知性を大切にするという大きな流れの中にある。主観や感情を大切にする文化であって欲しい。
また、人類が築き上げた最高の文化は、死を受容していける精神のしなやかさ・心の豊かさを開発したということである。(浄土真宗では阿弥陀如来によって開発されていくのであるが)死を否定するのではなく、死を受け入れていく可能性に関心を持ち、その方向を大切にすべきである。
ただ、脳死の否定は、脳死ー臓器移植によって苦悩の解決をはかろうとする人たちの希望を絶つことであるから、そうした苦しみの中にある人の苦悩に寄り添うことを抜きししては語ってはならないのではないか。

4, 仏教が問われていること

◇ いのちの尊厳とは
 いのちの尊厳は客観的な基準に依らず主観的な営み。いのちはなぜ大切なのか。「大切だと思える」ことが重要。

◇ いのちとは(死をどう見るか)
 輪廻転生的生命観(以下生命観は梯勧学の論による)
  仏教で語られる輪廻説は、自己中心的な妄念から行う善悪の業によって六道を輪廻していくという、迷いとしての輪廻転生説が中心になっている。それはどこまでも克服すべき課題としての輪廻観である。
それと輪廻転生のもつもう一つの生命的な意味は、一切の衆生との連帯感、一体感が根底にある。生まれ変わり、死に代わり、無量永劫にわたって様々な形態をとってきたとすると、一切の生きものは、父母兄弟でであるという思いがわいてくる。そこから自身は、他のすべての者と生命的な連帯性を持ち、元来万物は一体であるというような万物一体の生命観が成立していく。
 縁起的生命観
仏教で生命現象を考えるとき、生命という実体があるのではなく、様々な条件関係の上に、よって起こっている流動的なもの。
 親鸞聖人の生命観
聖人にとって人間とは、本質的には尊厳な物資でありながら、現実的にはどうしょうもないほど深い惑いの中に埋没している者であり、それ故に如来の大悲の対象となっている者と了解されていた。

◇ 幸福とは
死を敗北としない。死を受容していける豊かさに出会うこと。仏教では仏教と出会うことがこの世の最高の幸福であると説く。それは仏教は、私のすべてを肯定していけるまなざしを開いてくれるからである。

◇ 布施行とは
他者のためになることをするのが布施行の本質ではない。布施という行為を通して出会っている純粋さこそ行の本質。その純粋さとの出会いがなければ、いくら善いことをしても「善いことをした」という驕慢を増長するだけ。

◇ 医療の進歩をどう見るのか
  医学の進歩は、よりよい方向や結果を選び探求し実現していく。ベスト・ワンを求める
  仏教は、その時その時において、かけがえのかいものにであい、受け入れていく。オンリー・  ワン

◇ 慈悲とは
  願望が満たされることが慈しみの目的ではない。
 
                                      以上