ニヒリズムについて

千年サイクルの時代の変転

 

昨日(24.5.21)の金環食、ここ柏でも見ることができました。今回のような広範囲で見られるのは 平安時代の1080年以来となり932年ぶりだという。

今から千年前の平安時代後期、鎌倉・武士社会へと変転しました。このことをどう考えるか。金環食に想いを寄せて、そんな思いをもちました。

平安時代より、さかのぼることさらに約千年前、世界の四大聖人といわれる孔子・シャカ・キリスト・マホメットが誕生しました。なぜこの時代に同時的に普遍的な精神性に開かれる人が誕生したのか、諸説があるところです。

大峯顕先生の説だと、人類そのものに誕生から死まで成長して老化していくという工程があり、お釈迦さまがあの時代に誕生して仏教を見出したのは、人類の青年期にあたる(意趣)、そんな説だったと記憶しています。

そして千年後の平安から鎌倉武士社会の到来です。親鸞聖人を出すまでもなく、鎌倉時代以降の文学や手紙類は、いまとさほど表現が変わらないので容易に読めますが、平安時代のたとえば。『源氏物語』など、まったく言葉が違って、解説なしでは読み切ることができません。

平安時代から武士社会への変転は、千年規模の変転であったのではないか。何が変わったのかといえば、ある環境の中に産み落とされた生が、その因縁の中で死ぬまで全うされて命が尽きる。貴族に生まれたものは貴族として。そのような社会から、弱肉強食といった力が生きる原理となった時代の到来です。

その時代が千年続き、いままた千年規模の変転の時代に差し掛かっている。それが現代ではないか。金環食を見ながら、そんな思いをもちました。

 

ニヒリズムA

 

千年規模の人類の変転について。先般(24.5.16)、龍大の大学院生が布教実演に来てくれた折、学生のNさんが、教授から聞いた話だと、飛行機の「インサイド・アウト」「アウトサイド・イン」の話をしてくれました。飛行機は滑走路を移動しているときは、操縦士の視点で、障害物に注意しながら走り離陸していきます。この時の操縦士の視点が「インサイド・アウト」です。

その後、テイクオフをし、水平飛行に移ると「アウトサイド・イン」に変わる。その視点は、管制塔やレーダーなどによって、雄大な空の中で自機がどのように見えているかという視点に変わります。
世界の四大聖人といわれる孔子・シャカ・キリスト・マホメットの仕事は、まさに人類が「インサイド・アウト」から「アウトサイド・イン」の視点を手に入れたということです。
不変性の中にある私の発見です。

そして鎌倉武士社会の到来です。それは情報や知識も含め力による支配、つまり自分自身が「アウトサイド・イン」になることを模索した時代です。

現代はその終焉の時に差し掛かっている。これは私が考える精神史のヒストリーです。その病理的症状がニヒリズム(虚無思想)です。仏教では、このニヒリズムを大敵として扱っています。

仏道の凡夫から覚りまでの52の階位の中に「七地沈空の難」という菩薩の死といわれる難があります。その難を超えると不退転のいう境地に到達します。七地沈空とは、自己満足に埋没してしまうことです。

「七地沈空の難」とは、高位のニヒリズムです。「インサイド・アウト」も「アウトサイド・イン」も見失うのです。仏道的に言えば、師を見失うことです。


日本においては仏教が、生活の中で人間の本質を見つめるダイナミックな装置として、その役割を果たしていました。地獄や極楽絵図や、お寺そのものが視覚と音楽、言葉を通して重要な精神世界を表現するテーマパーク的な色彩を持って日常生活の中にありました。

自分の小ささを感じ、その小さな自分が大きないのちに抱き取られているという感覚を、日常生活の中で、仏名と称えるという行為の中に体験していける。そうした体験に関心を持ち、子から孫へと相続していくことを喪失してしまっているのが現代です。

現代人の興味の対象は大きくは科学技術であり、経済であり、政治であり、つまるところ自分以外のものです。死さえも、死を見つめてその不安から解放されることではなく、医学による延命であったり、快適な老後、苦痛のない終末といった、これまた物質的な安寧です。それほどに人々の精神生活において宗教的な問題の思いを寄せる環境が希薄化してしまっています。ニヒリズムはそうした環境が生み出しているとも言えます。

ニヒリズムって悪いこと

 

現代は千年サイクルの佳境にあるというのは、少し大げさでしょう。でもそうしたメガネで現代を見ていくことも、違った角度から現代を考えることができるので意味のあることかもしれません。

ニヒリズムをどう考えるか。私は哲学を学んだことがないので哲学的理解は不明ですが、根本的なところに、ニヒリズムをマイナスと考えるか、プラスの精神作用と考えるかがあるようです。

価値観には大雑把にいって2つあります。比べる必要のない豊かさと、比べるによって見出される豊かさです。比べつ必要のない豊かさの中には、大いなるいのちの中に自分を見出すといった感覚があります。2.3日前に目にした司馬遼太郎著『街道をゆく・芸備の道』に次のような言葉がありました。

親驚の絶対神である阿弥陀如来は、多分に哲学的で、宗教性がおさえられている。
 すくなくとも、教団性にとぼしい。(中略)弥陀はひたすらにひとを救うという誓いをたて、その光明とその名によってひとを救済しつつある。親鸞においてはひとびとはそれを信じ、感謝するだけでいいという。このことはたとえば無神論者でさえ、夏の夜の涼しい海浜などで大きな星空につつまれたとき、「自分という小さないのちが、広大無辺の体系のなかで生かされていることにふとよろこび、何者かにお礼をしたくなる衝動をもつことがある。
 親鸞はその衝動をおこしさえすれば浄土にゆけるという。だから親鸞の思想にあっては、偶像は否定される。(以上)

この“広大無辺の体系のなかで生かされている”といった感覚は、自分の小ささを受け入れるまでは苦しみとして体験されます。以前紹介した、「波と海」の話を例話として出します。

この話は『モリー先生との火曜日』のなかにある話です。(以下転載)
 
「この間おもしろい小ばなしを聞いてね」とモリーは言い出し、しばらく目を閉している。ぼくは待ちかまえる。
「いいかい。実は、小さな波の話で、その波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていて気持ちのいい風、すがすがしい空気−−ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。
 『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』
 そこへもう一つの波がやってきた。最初の波が暗い顔をしているのを見て、『何かそんなに悲しいんだ?』とたずねる。
 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波はみんな砕けちやうんだぜ! みんななんにもなくなる! ああ、おそろし』
 すると二番目の波がこう言った。『ばか、わかっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」(以上)


“ああ、おそろし”という苦しみが、転換されると“広大無辺の体系のなかで生かされている”となります。だとすると“ああ、おそろし”という苦しみは重要な意味を持っています。

孫引きですが、すぐれた哲学者であります西谷啓治は、宗教的要求というものを次のように述べています。

我々は果たして何のためにあるか、我々自身の存在が、或は人生といふものが、結局に於て無意味なのではないか、或はもし何らかの意味や意義があるとすれば、それはどこにあるのか。さういふやうに我々の存在の意味が疑問になり、我々にとって問ひとなると共に、宗教的要求が我々の内から生起して来る。

ニヒリズムが、この宗教的な要求「存在の意味が疑問」だとすれば、人が質的な転換をしていく重要な意味があることとなります。虚無の体験の問題点は、その体験に執着しているところに問題があるのであり、その執着が破れたとき、虚無の体験は、“広大無辺の体系”体験となっていく。これは私の仮説です。

 

ニヒリズムC

 

ニヒリズムについてコメントを掲載する動機は、氣多雅子氏が、現代人が抱えている「不安」はニヒリズムと近い関係にあり、そのような不安は「最も先鋭的な苦しみ」・「苦しみ以前的な苦しみ」であると指摘されています。宗教はそのような「先鋭的な苦しみ」に応えるべきではないか、(コルモス『現代における宗教の役割』2002年)と書いていたからです。ニヒリズムについて3冊本を読みました。読みましたというのはおこがましい“開いてみた”というのが正しい表現です。

まとまった本だと『ニヒリズムからの出発』(竹内整一・古東哲明編)は、いろいろな角度から説かれていました。
竹内整一氏は、“一世紀前のニーチエによって主題的に問われ始めた問いであったが、同じ頃日本の思想状況にも、それとは違う文脈ながら、自己と自己の生きる世界をうまく説明できないという「煩悶状況」なる精神の危機があったと、「曰く“不可解”。我この恨みをいだいて煩悶終(つい)に死を決す」という藤村操などをあげて、日本の状況も紹介されていました。

氣多雅子著『ニヒリズムの思索』(1999.12)、これは哲学書なので、やたら難しい。でも2004.1発行の『宗教への視座』2(岩波書店)に、同氏が「宗教の本質」という論文を掲載しており、そこに、先の本をより簡潔に、また深めて説かれています。簡潔と言っても、いろいろな角度から説かれていますが、親鸞という言葉のある部分だけを転載しておきます。

そして、回心、リアリティの転換と言われるように、ここには或る根本的な翻転が存する。この翻転は、罪責の苦悩から神の愛に充たされた歓喜へというように、しばしば負のリアリティから正のリアリティヘの翻転として語られる。自覚の出来事としては、自己が無になるという仕方でしか神の愛を受け取ることはできない故に、そう語られるのは理由のあることである。しかし、親鸞の「二種深信」に示されるように、罪(あるいは死や虚無や悪)がリアルに現成することと、如来の本願力(あるいは神の愛や真空妙有)がリアルに現成することとは別々の事柄ではない。前者のリアリティには常にその裏側に後者のリアリティが貼り付いているのであり、後者のリアリティにもまた前者のリアリティが貼り付いている。そういうものとしてのリアリティが現成することがそれまでの自己と世界のおり方に対する決定的な翻転なのである。(以上)

浄土真宗では、ニヒリズムを阿弥陀仏の本願力と出遇う素材として認めていこうとするものです。虚無に至ることそのものが仏の働きにしからしむところのものであり、虚無の中で如来が見いだせないという不幸が問題なのでしょう。(続く)

 

ニヒリズムD

 

『ニヒリズムからの出発』(竹内整一・古東哲明編)の中で、古東哲明氏は、宇宙に生きるちっぽけな人間存在は、究極理由や根拠やなすべきことや目的などあろうはずもなく、漆黒の闇夜にたまたま生まれ、わけもなく生きて死ぬ。ニヒリズムこそ正常と述べ、「存在の究極的な根拠・起源・規範・目的を欠落させている。が、むしろだからこそ、存在が究極根拠・起源・規範・目的である」と論を展開させています。以下要所の転載です。

宇宙の歴史の末端で、太陽が西から昇る可能性はあっても、しかし存在〈に〉根拠が与えられたり、目的が付与されるなどということは、原理的に永劫にありえない。なぜなら、存在〈が〉根拠だからだ。…

 その意味で、存在〈が〉最終起源であり目的であり存在理由だ。それ自体が根拠(究極・絶対性)であるのに、どうして〈根拠の根拠〉を求める必要があるだろう。
…ソレとは別のなにかにソレを求めてしまう所有モードのなごりである。そんなレッテル貼りの習慣を捨て、じかに存在を味わったらいい。極上の香味さえただようはずだ。ぼくたちは長い間、それ自体が根拠(法外に凄いもの)である存在を忘れ、根拠とは別のところに〈根拠の根拠〉を求めるという錯覚におちいってきたのである。
 ニヒリズム。それは、根拠とか目的をそれとはべつの外在的(他律的)なものに求めてきた旧来の思考様式や生き方(モデルネ=近代のしくみ)を破砕し、存在をその内在性(自律性)において生きようとする、これまでとはまったく別の思考や生き方(存在モード)の誕生のための陣痛だった。そういっていいのではないか。
 ニヒリズムから出発しよう。ニヒリズムが出口、そして入り口だから。(以上)

と語っています。

私の結論は、少し書きましたが、ニヒリズムという苦しみは、人間の「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(顕浄土真実教行証文類)の症状であり、“苦しみは成長のとびら”の一局面であるというものです。

たとえば今≠ニいう「時」は、二度と繰り返すことはないという無常も、はかなさという面では、ニヒリズムを生み出す要素となります。その負の思いを突き抜けると、今≠ニいう「時」の永遠さ、二度とないいのちであるという感動ともなります。

 

ニヒリズム最終章

 

ニヒリズム、ネットの辞書によると「虚無主義。1 すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。2 既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度。ツルゲーネフ・ニーチェ・カミュなどに代表される。」とあります。

前回の記述では、ニヒリズムの体験にも、負の体験と正の体験があることを記述しました。ではどうしたら負の体験から正の体験へと突き抜けていくかが問題です。
負の体験は、「松影の暗きは月の光なり」の暗き部分だけを見ている状態だと思われます。影が月の影であることを、どうしたら知り得るのか。それが問題です。

影が、自己のパターンであることが明らかになる。そうした気づきを得るための手法が、仏道修行なのでしょうが、大から小まで、いろいろな試みがあるようです。

自己のパターンを知る方法としては、心理療法としては、フォーカシング、内観療法などがあります。

内観療法は、今から50年ほど前に、吉本伊信という人が開発した「自分を知る」ための方法で、浄土真宗の自己の罪悪性を知るための手立てである「身調べ」を土台に開発されたといわれています。

自分の、過去の年代を区切って、たとえば母親に対して「してあげたこと」「してもらったこと」「迷惑をかけたこと」と内観していくことです。詳しくはネットで見てください。

私も数日間体験したことがありますが、その体験を通じて思ったことは、自己の中にあるパターンへの気づきを得ていく手法なのだというということです。

しかし内観療法は、意識化・無意識化を含めた自分が経験した範囲内での気づきではないかという疑問が残ります。親鸞聖人の「無始よりこのかた」「一切群生海」といった、宇宙レベルの自己の本質への気づきには、機縁にはなるがほど遠いようです。

結論から言えば、宇宙レベルの自己の本質への気づきには、その気づきを成立させるための言葉や概念との出会いが不可欠です。その言葉や概念が、“弥陀の無条件の救い”という経説なのでしょう。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いを疑いなく受け入れました。無条件の救いを受け入れたということは、自己の闇の深さが、無条件でなければ救われようのないほど、深く広く、どうしようもないことが明らかになったということでもあります。

結論としては、ニヒリズムという現代の闇に対しては、阿弥陀如来の救いを告げることが最大一ということになります。