平和こそが目的です 西原祐治

 過日、お墓で埋葬法要をお勤めしました。墓石には「和」と刻まれ、今風のお墓でした。読経しながら、タリバンのことに絡め、平和のこと、また法然上人のことが思われました。
 親鸞聖人の師である法然上人は9才の折、父時国と死別しています。やみ討ちを受け死に及んだ父は「敵を討つな、あの犯人を許せる人間になれ」と遺言して死んで逝きました。 平和の「和」とは、協調することですが、同質の者が協調することは簡単ですが、互いに異質なものを抱えている場合、大変なエネルギーが必要となります。法然上人も敵を許す境地に安住するまでは、相当なご苦労があった。そんなことを回想しながらの読経でした。
 寺に帰り、すこしその続きを考えました。というのはその時父、時国は43才、法然上人が、父の遺言通り殺した相手を許す境地を開いたのは43才です。私はこれは偶然ではないと見ています。法然上人が43の時、何があったのか。
 法然上人43才の春(1171)、念仏の門、すなわち阿弥陀如来の本願力にゆだねる心境を開いています。
 以下は半分は創作です。
 それは1171年、法然上人が43回目の正月を迎えたときのことです。
今年はわが齢(よわい)も43年、おもえば父君が命を落とした年、9才の折りの父は、「父を殺したあの武者を許せる人となれ」と言葉を残して逝かれた。しかし未だ、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体験することなく、また正しい智慧を開くことなく今日まできた。思えば母君の弟に当たる観覚師より仏教の手ほどきを受け、今日まで35年の春秋を重ねてきた。私は悟りを開く器ではないのかも知れない。そうであれば、自らの生を長らえることは殺生の罪を重ねるに過ぎない。
 もしこの齢の内に、怨親平等の世界を体験出来ないのであればな、身をなげうって、殺生の罪をあがなうのみ。今日より、大蔵経の経蔵に入り、悟りの境地を体験し、すべての人が安住できる教えにであうまでは、このいのちが朽ち果てるまでこの経蔵より出ることなをしない。 それにして念仏でどうしてすべての人が救われるのか。その1点が腑に落ちない。
 法然上人は、死を決意して経蔵に入りました。凝縮された日々は過ぎ去り、その年の春のことです。宿善開発、機が熟すと言うことがあります。一切経も見ること五編におよび、中国の善導大師のご書物のある一説に触れたときです。その言葉の真意を理解する以前に、自己の無意識の領域にある、どうにもならない罪悪性や黒雲のごとき深い闇が反応したのです。身の毛がよだち如来の世界に心が解放された喜びが心の奥底からふき出してきました。その押さえきれない喜びをおさえ意識を整え、再び詳細にその言葉を三編重ねてご覧なったといいます。都合八編、その言葉に思いを重ねる中に、すべてが理解されたのです。
 “法蔵菩薩はその本願を発動した根本に、私のような愚かな者の存在があり、その愚かな者を救い取る手だてとして念仏の行を選び、私の上にその行を成就して下さっていた”。その善導大師の言葉を通して、阿弥陀如来の願い、大悲の深さ巧みさ、円満成就の「南無阿弥陀仏」の真意に触れ、聞く人もない薄明かりの経蔵の中で、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と歓喜を極め声たかだかに念仏し、身体中の水分が涙となって、あふれ出るが如く、感涙は法然上人の全身を包んだのでした。
 それが法然上人が念仏の門に帰依した43才の春のこと、父、時国の遺言に導かれるように安住の境地を開いたのでした。(以上・黒谷源空上人伝ー十六門記参考)
 その法然上人が触れた言葉は、善導大師観経散善義の文
「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとわず念々に捨てざるは、これを正定の業を名づく。この仏の願に順ずるがゆえなり」
だと伝えられています。
 法然上人がこの念仏の門に帰依したとき、父の遺言であった「敵を許す」という心境が開かれたのだと思います。殺意を持って父をあやめた彼の人も、欲望の衝動に身を任せ生きていった凡夫、その敵を憎む私も、憎しみの心に閉ざされた凡夫、共に阿弥陀如来の救いの目当てという阿弥陀如来の大悲の中に、初めて相手を許すという境地が開かれていくのだと思います。
 「異質なものが和す」。相手を許す心境は、相手を理解することのよって生まれます。その理解は私を起点として理解ではなく、阿弥陀如来の願いを起点としたとき初めて到達されます。
「和をもって貴し」と言われたのは聖徳太子です。平和は、経済発展という目的達成のための手段ではなく、自由主義を守る手だてでもない。平和こそが最高なる目的であり、理想だといういうことです。
 非戦平和の叫びは、相手の憎しみを理解することから始まる。法然上人の逸話を思いながら、そんな思いを持ちました。