医療事故遺族への法話

 この度の、突然のご逝去、悲しみの極まりであろうとお察し申し上げます。
 医療事故という許されることのない事故でのご逝去、残された者の責任として、二度と再びこのような事故が起こらないように努力することと共に、ただ憎しみだけに終わってはならないのだと思います。といって相手を憎む心は捨てられるものではなりません。こうした相手を憎む心や死別の悲しみを通して、それ故に、その私を気遣い、願って止まない阿弥陀仏のおこころを聞かせて頂き、阿弥陀仏の大悲に心が開かれていくことこそ故人の死に報いる道でもあります。

 以前、故花山勝友先生がそのご著書(「いい生き方いい死に方,」 ごま書房刊)の中に次のような逸話を書いておられました。先生には六人のお子さんがおられました。ところが四歳の誕生日の直前になる次女が、わずか一日の出来事で他界しています。かわいいさかりです。大勢の方が弔問に見える中、奥様はポツリと「子供を失ったことのない人には会いたくない」ともらさたそうです。

 父である師も、同様な気持ちを持ったと言います。
そのご夫婦が救われたのは訪ねて下さった方からの言葉だそうです。
「あなたは、大事なお子さんを亡くして、さぞおつらくて悲しいことでしょう。しかし、その悲しみさえも、私のように、欲しくて子どもができなかった人間から見ると、大変うらやましいことなのですよ。あなたには、少なくとも四年間の思い出が残っていますが、私たち夫婦には、その思いですらないのです」
 その言葉に「こんな辛いことはない」と、自分が世界一不幸な人間のような顔をしていた自分は、なんと増上慢であったことかと思ったと示されてありました。

 師のある種の気づきは、悲しみに対して違った意味づけを持つことができたということでしょうか。悲しみが深ければ深いほど、それは同じに頂いたものの大きさでもあります。

 私たちのこの死別の悲しみが救われるのは、その悲しみが否定されることなく、悲しみを通して新しい出会いや気づきがあったときその悲しみが意味をもつのだと思います。

 私たち浄土真宗の者は、自身の存在の悲しみを通して、その私故に大悲してやまない阿弥陀如来の慈悲に出遇っていく教えなのです。阿弥陀如来の大悲に出遇えたとき、私の抱く悲しみの感情は、大きな意味を持ってくるのだと思います。

 悲しい出来事を忘れて、立ち直るということであったらなら、その悲しさは虚しさだけが残ります。悲しみを通してしか出会えないものに、しっかり出会っていくことが、この悲しい事実に、虚しいままで終わらせない道だと思います。これからご一緒にこの悲しい出来事を仏縁として育てていくことを念願致します。

運動中の突然遺族への死

 ただ今ご一緒致しましたお経は「仏説阿弥陀経」というお経でした。まずはお経の内容をお話し致します。このお経には、阿弥陀仏の功徳、豊かさが示され、その功徳を東西南北の八方と上下を入れた十方の諸仏方が誉めたたえるという内容でした。

 その阿弥陀仏の功徳を宗祖であります親鸞聖人はよく海にたえることがございます。人間を川にたとえると、長い川もあれば短い川もあります。また濁った川もあれば澄んだ川もあり、流れの強い川もあれば流れのゆるい川もあります。しかしその川の水がいったんが海に注ぐと、まったく違った川の水も同じ一味の海水となります。それは川の努力や川の力によって一味の海水となったのではなく、偏に海の働きによります。そのようにそれぞれの個性を持ったすべての命は、阿弥陀仏の功徳の中に、豊かさの中に、慈しみの中に、光の中に、願いの中に、働きの中に、安らぎの中に摂取されていく。その阿弥陀仏の功徳・豊かさが示され、その阿弥陀仏の豊かな功徳を十方の諸仏方が誉めたたえるというお経でした。

 とはいえ、21才の若さ、また運動中での突然死、ご遺族に取りましては、ご悲嘆の極まりであろうとお察し申し上げます。

 この悲しみの中で、私はふと、以前聞いたことのあるお釈迦様の逸話を思い出しました。ある日お釈迦様がお弟子に向かい問われたと言います。「今まで人々が流した涙と、大海の水とどちらがおおいと思う」。日頃からお話を聞いている弟子たちです。釈尊の意をくみ「はい、涙だと思います」と答えられた。するとお釈迦様は「その通りだよ」と仰せられたといいます。

 この大海のごとき人々が流した悲しみの涙から阿弥陀如来の慈しみは起こったと聞きます。故人は20数年、色々な思い出を残してくれました。故人が残してくれたことの1つに、辛い悲しいことですが、この度のこの悲しみがあります。私たちはこの悲しみを通して、その私の悲しみ故に、それ以上の悲しみを持って大悲して下さっている阿弥陀仏のお慈悲に出遇っていくことが何にも増して大切なことです。その阿弥陀仏のお慈悲にふれ得たとき、この悲しみが悲しみだけに終われず、仏さまのお慈悲を味わっていく意味ある営みになるのだと思います。

 人類の歴史は、弱肉強食、強き者の歴史です。生命の営み自体が、強きもの、強きものという弱肉強食の連鎖によって今に至っています。しかし、涙と共に力無く終わっていった生命の営みは、涙と共に力無く終わって行くものを、ありのまま受け入れていくという慈しみを生み出していったと聞きます。人が涙を流すこの場は、それ故に大悲して下さっている阿弥陀仏との出遇いの場でもあります。
その阿弥陀仏の慈しみの中に、故人はもとより、こうして見送っている私たちもいずれは命の終わりを迎え、同じようにおさめ取られていくのです。


がん死遺族への法話

 最愛なる方のご逝去、お悲しみのこととお察し申し上げます。

 ゼロに立って考える。それが仏教の考え方でもあります。仏教の言葉に「色即是空」という空(くう)、そらのいう文字で仏教の考え方を表しますが、この空と数字のゼロは、インドの言葉で「スーニア」といって同じ意味だと聞きます。

 故人○歳のご生涯でした。平均寿命から見れば、まだまだという思いになりますが、ゼロ視点から見れば、かけがえのない○年のご縁を頂いたことでもあります。

 知人にIさんという方がおられました。数年前、肺癌でお亡くなりになられました。43歳3人のお子さんのお母さんでした。余命1年と言われてから、2年間ご存命でした。死の宣告を受けてから1年くらい経ったとき、私はIさんに「あと1年と言われ、毎日を過ごしているお気持ちは?」と尋ねたことがあります。するとIさんは「はい、毎日がジャンボ宝くじに当たったような気持ちです」とおっしゃいます。私がその意味を尋ねると「ジャンボ宝くじに当たるとこの世で欲しい物が手に入る金額です。私が今最も欲しいと思っている1日が朝目覚めると手の中にある。その1日を迎えた喜びはジャンボ宝くじに当たったような気持ちなんです」とのことでした。

 故人から頂いたご縁は、まさにジャンボ宝くじよりも価値のある一日一日の積み重ねの○年間のお縁でした。その賜ったご縁を、人と比べて推し量るのではなく、もしこの方がいなかったらと、ゼロの視点に立って故人ことを考えることが大切です。

 浄土真宗の念仏者であり、長く学校の校長先生をお勤めになられていた故東井義雄先生の歌に次の様な歌があります。

妻 ひょっとして これは わたしのために 生まれてきてくれた ひとではなかったか
あんまり 身近に いてくれるので 気づかずにきたのだが
「(東井義雄)『東井義雄詩集』探求社刊」

もう一度読んでみましょう。

妻 ひょっとして これは わたしのために 生まれてきてくれた ひとではなかったか
あんまり 身近に いてくれるので 気づかずにきたのだが
いま、この妻という言葉を、○○さん、お母さん、おばあちゃん、それぞれがご縁のあった呼び名で読み替えてみましょう。

お母さん ひょっとして これは わたしのために 生まれてきてくれた ひとではなかったか あんまり 身近に いてくれるので 気づかずにきたのだが

という歌になります。この方は何のためにこの世にお出まし下さった方なのか。ひょっとして私の命を育むために、ひょっとしてこのことを教えるために…頂いたご縁を、私のため故と深めていくことが大切です。そのような出会いがあったとき、別れることのない、いつでもご一緒して下さっている故人との出会いがあるのだと思います。


地震での死遺族への法話

信頼し生きるよるべであった大地に裏切れ、突然の災害による死、ご遺族お悲しみお察し申し上げます。
 生きる拠り所についてお話しさせて頂きます。浄土真宗という仏道は、阿弥陀如来の大悲を拠り所とする教えです。阿弥陀如来の慈しみは、よく母親の愛情にたとえられることがあります。

 過日、インターネットで「母の涙」と入力して検索していると、タレントのオスマン・サンコン氏の「母の涙がぼくの心を救ってくれた」というある雑誌に投稿していたコラムに出会いました。それは次のような文章でした。
「私が高校2年生のとき、サッカーの試合中に足に大けがし、2カ月間入院しました。絶対に治ると思っていましたので、ギプスをはずしたときのショックは言葉にできないほど大きいものでした。足首から先が曲がったまま固定されていたのです。私はペレのようなサッカー選手を夢見ていましたが、サッカーどころか歩くことさえ満足にできません。絶望感でいっぱいになり、何かを考える気力もありませんでした。

 その日から、いろいろなわがままを言って困らせる私に、母はいやな顔一つ見せず、私の足を毎日マッサージしてくれました。父は私が中学生のときに亡くなっていたので、母は朝早く起きて、父が残した畑で野良仕事と家畜の世話、大勢いる家族の世話を一人でやっていました。母の毎日は多忙でした。

 懸命なリハビリのおかげでなんとか歩けるようになったものの、口を開けば母に反抗し、生きる気力もなく死ぬことばかり考えていました。

 そんなある日、ふと夜中に目をさますと母がぽろぽろ涙を流しながら、私の足をマッサージしていました。母のやつれた顔がみえました。そのとき初めて気がついたのです。母がどんなに苦しくつらかったかを。このときほど母の涙を重く感じたことはありません。母の言葉にはできない愛情を感じました。もう二度と母を泣かせはしない。母の涙を笑いに変えようと思いました。その日を境に私は立ち直ることができたのです」。

 母の慈しみの中にある自分に気づいたということでしょうか。それは大きないのちの中にある自分の発見でもあります。

 その大きないのちを浄土真宗では阿弥陀仏を申します。その阿弥陀仏の願われ、育まれて、念仏を申し、仏に合掌する今が恵まれております。この仏の慈しみは裏切ることのない生きる支えでありより所でもあります。