遺族への接し方と法話

遺族とどう接するか

 グリーフワーク。死別の悲しみからどう自分自身を取り戻していくか。「悲嘆の作業」とも訳されます。私はこの悲嘆の中から自分を取り戻していくグリーフワークという言葉を「深い悲しみ、悲嘆の中から新しい秩序を見出す行為」と翻訳しています。死別の悲しみの中から、悲しみの事実を忘れたり悲しみを否定して、その悲しみから回復していくことではなく、悲しみの経験を通して、悲しみの持つ意味や、新しい秩序、信仰に開かれることによって、日常性を回復していくことです。

 一般に語られるグリーフワークを最初に紹介します。死別と言っても、その対象が親であったり配偶者であったり、子ども、兄弟、友人など、その関係性により一概には語れません。また突然死や病死、自殺、他殺など、その死別の状況によっても悲嘆の深さも内容もさまざまです。
 ひとことで悲嘆と言っても、怒りや無力感、悲しみ、敵意、罪責感、憎しみ、絶望感、無力感、無関心、浮遊感、非現実感、卑小感等々、多くの感情が組み合わされています。常に色々の感情に揺れ動いているというのが現実です。

 平山正美(「悲嘆の心理」サンエンス社刊所蔵)は、悲嘆の過程を次のようにまとめています。

初期・パニック  ショック 混乱 無感覚 非現実感 変様態 悲哀不能 浮遊感 脱         力感 否認
第一期・苦悶   敵意 深索行動 死者への思慕や憧憬 憎しみ 希死念慮 絶望 怒         り
第二期・抑うつ  引きこもり 自尊心の低下 卑小感 悲哀感 孤立感 空虚感 寂寥         感
第三期・無気力  無力感 感情の平板化 アパシー 意味や目的感の喪失 無関心
現実直視     平静 自己洞察 罪責感 現実世界への関心 あきらめ
見直し      意味の探求 和解 つぐない 希望 発想や価値観の転換
自立・立ち直り  新たな決意と自己同一性の獲得 新しいライフスタイルの確立 新た         な友人や仕事の獲得 

 遺族への接し方としては、まず死別の悲しみの中にある人は、その時々においてさまざまな感情に揺れ動いていることを理解し、その時の感情を否定することなく、その感情や思いを素直に表現してもらうことが大切です。悲嘆の反応は正常な感情です。無理に悲嘆反応が抑制されたり否定されると、重篤な睡眠障害になったり将来にわたって心の傷として残り、その傷がゆがめられた形で行動に表れることもあります。

 仏教こそ老病死の苦悩が解決される教えだからといって、仏教の教えに立って安易に慰めたり、考え方を強要したりすることは禁物です。その悲嘆の苦しみと共に「ある」「いる」ことが大切です。では何もしてはいけないのかと言えば、それもまた消極的過ぎます。故人の思い出や、ご遺族の悲しみに耳を傾け、積極的に傾聴することも重要です。故人との思い出があれば、そのことをお話しすることもよいでしょう。もしご遺族が、浄土真宗の門徒であれば、今まで聞かせて頂いたみ教えを共に味わうことも大切です。
 
 何よりも心を開いて話して頂くことが最良です。しかし、そうした時間がもてない場合は、死別の悲しみを分かち合う集いや法要の開催を通して、死別の悲しみを表現できる場を持つことをお勧めします。そうした場が持てないときは、死別の悲しみを聞く電話相談を紹介してあげて下さい。ちなみに浄土真宗のグループとしては、東京ビハーラ(築地本願寺内)が、「死別の悲しみを聞く」電話相談を開設(月〜金・午後二時〜五時 03-5565-3418)しています。

 遺族が子どもである場合は、悲嘆が表現されず、悲しみの体験が心の傷として残ることも考えられるので配慮が必要です。

 「死ぬってどういうこと?」―子どもに死を語るとき(アール・A・グロルマン・重兼裕子訳・春秋社刊)に「身近な人の死を体験した子どもに接するとき」の親としての心構えが示されています。少し紹介します。
1.「死」ということばをタブー視しない。
2.悲しい気持ち、人を悼む気持ちは、年齢に関係なく、すべての人に共通しているのだという認識を持つ。子どもは、年は下であっても、ひとりの人間だということです。
3.子どもの気持ちを素直に表現させ、開放させる。
4.家族のひとりが亡くなったことを学校の先生に知らせる。
5.子どもへの対応に自信がないときは、ほかに相談をしてみる。
6.子どもに、死んだ人の生まれ変わりだといったたぐいの話をしない。
7.目先をごまかすような架空のつくり話をしない。
たとえば「お父さんは長い出張にでかけているだけなのよ」といった説明をすれば、子どもは父親がいつか帰ってくると思いこんでしまいます。また若い母親が亡くなった場合、「神さまがお母さんをつれて行ったのはね、お母さんがいい人だったから」と言えば、子どもの頭は混乱します。…不適切な説明は、子どもの心のなかに恐怖心と猜疑心を呼び起こす。
8.親の説明が絶対に正しいと思いこませない。
「おかあさんにも本当のところはよくわからないの。おかあさんにだってわからないことはあるのよ。だから、こうしてお話してるんじゃないの。いっしょによく考えてみようね」
こう言える人は成熟した大人です。
9.悲しい気持ちを素直に表現する。
親が感情を押さえこんでしまうと、子どものほうも自分の気持ちを閉じこめてしまいます。子どもは大人が嘆くようすを見て、自分も泣いていいのだと感じるからです。
10.あふれる愛情で子どもを支え続ける。
以上は項目の抜粋と補足ヵ所の紹介ですが、大人にとっても大切な視点だと思います。要は死や死別から起こる感情を否定したりごまかしたりしないことです。

念仏者としての関わり

 一般に語られる遺族への関わりの注意点を見てきたが、では念仏者としての関わりはいかがなものでしょうか。   

 死別の悲しみという事実は、どうすることも出来ない事実です。この何もしてあげられない状況化では「何かをしてあげる」余地はなく、そのまま見守るしかありません。「何かをしてあげる」ことが許されない場なのです。もしこの「何もしてあげられない」場を共にする人があるとすれば、それは「何もしてあげられない」人をも大切にし敬っていける人です。ここに阿弥陀仏の救いをより所とする者の真骨頂があります。逆に「何かをしてあげる」活動は、浄土真宗の人でなくてもでき得る活動なのです。

 悲嘆に沈む人へ、何かしてあげるとこの中に自らの存在の意味を見出していく人があります。『歎異抄』(第4条)に示される慈悲で言えば、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という立場です。もう一つの歩みは、「何もしてあげられない」、すなわち「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」という立場です。阿弥陀仏の大悲の働きの場は、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」人においてのその働きに真価を極めます。何も出来ないという一つの諦めは、無意味なことではなく、私が、遺族が阿弥陀仏の大悲に出遇っていく大切な場でもあるのです。

 何かしてあげる事への関心から、何もしてあげられないことをも許容できる関わりが求められます。「何もしてあげられない」という場に身を置くことは、次の重要な積極的な意味があります。

 一つは、苦しみは新しい扉を開く意味ある営みであるとする苦しみの理解です。
私たちはこれまで、布教の現場の中で、安易に苦悩を否定してきた感があります。人には苦しみの中にあっても、その存在を肯定していける資質があります。その資質を私たちは信心の智慧として伝承してきました。その資質が、死別の悲しみや苦悩に意味をあたえてくれます。その新しい扉は、現実生活の中では苦しみを通して開かれていくのです。「何もしてあげられない」ということは、共に苦しみの中に身を置くことであり、当事者が苦しみと混乱の中で新しい秩序を見出していく意味ある営みでもあります。

二つ目には、人は、あなたはあなたのままで大切であるという評価されないこころの中に、無力な自分が肯定され、無力なままに存在にゆだね、自己の執着から解放され、心を開いて生きることがでます。「何もしてあげられない」と言うことは、相手をあるべき方向にコントロールすることの放棄であり、重要な意味を持っています。
 遺族への関わりは、苦しみを肯定的に見ること。相手をあるべき方向へ向かわせるという圧力を放棄することが大切です。この2つのことは、法話を考える上でも重要なことであり、阿弥陀如来が私の罪悪性を肯定し、私に理想的な生き方を求めず摂取して下さるということと重なります。

 グリーフワークと同意語にモーニングワークという言葉があります。「喪の仕事・作業」のことです。グリーフワークやモーニングワークというと、何か新しい試みのように感じられますが、仏教では喪中や中陰という考え方の中で取り組まれてきたことでもあります。 浄土真宗は往生即成仏だからと、喪中や中陰を否定することなく、グリーフワークという視点から、喪中や中陰の持つ意味を見直すことも大切です。

遺族への法話

 悲嘆の中にある人へ、安易な励ましや真宗の考え方の押しつけは好ましくないと言いました。では法話は、考え方の押しつけになるのかと言えば、一概にそうだとは言えません。逆に考え方の押しつけや悲しみを否定することのならない法話が求められます。そのためには「共にみ教えを聞く」という姿勢と法話の内容が求められます。

 「人はみな死ぬ」という話しでも、健康なときであれば聞き流す言葉ですが、いざ自分が当事者となれば、身を切られる思いで、その言葉に接しているかも知れません。だからといって死という言葉を避けることもありません。

 阿弥陀仏の本願は、ぬぐうことのできない人の悲しみから起こされたのですから、浄土真宗の教えの中に、その悲しみを越える道があります。一緒にその教えに頭を垂れ聞かせて頂くという心構えが重要です。

 内容は、話す人の経験の深さや故人や遺族との関係の相違によって色々です。いくつか大切な視点を列記します。

1.悲しみが悲しみだけで終わるほど虚しいことはないことが伝わる法話。
2.悲しみの中でしか出会っていけない世界があることを告げる法話。
3.悲しみが悲しみのままで終わらない世界があることが伝わる法話。
4.阿弥陀仏の慈悲は、この私の悲しみを否定するものでく、この悲しみによって起こったこと伝わる法話。
5.私がみ教えを聞き、み教えに出遇うことこそ、故人への最高の供養(礼拝)であることが伝わる法話。
6.死は自然なことであり、人生は一期一会であることを、故人の死から学ぶべきであることが伝わる法話。
7.勤めをするお経の言葉を通しての浄土真宗の教えを伝える法話。
8.故人が残してくれた一番大切なものが仏縁でありみ教えであることが伝わる法話。

などが考えられます。遺族が浄土真宗の教えに初めて接する方であれば、故人が死を通して出会わせてくれた、この仏縁をこれを大切に育んでいくという将来へ向けての希望をお話しするのも良いでしょう。逆に故人が門徒であれば、生前よく聞法されていた話をお話しすることも最良です。

 遺族が子どもであれば、絵本や物語をお話しすることを通して、死の悲しみを分かち合うことも大切です。
「100万回生きたねこ」(講談社)佐野洋子作
「1000の風」ーあとに残された人へー(五三書房)
「生んでくれてありがとう」(サンマーク出版)葉 祥明作
「はっぱのフレディ―ーいのちの旅」レオ バスカーリア (著), みらい なな (翻訳)
などは、悲嘆の中にある大人が読んでも悲しみを潤す力がある本です。
 遺族への法話は、講演形式に限定する必要はありません。通夜、葬儀での表白は重要な法の伝達の場、法話の場と心得るべきです。形式的な言葉の羅列に終わらず、故人の足跡に即した法味豊かな文面を考え工夫する必要があります。

 葬儀の場だけで言えば、住職から門信徒への弔慰状や、住職が添削をした門信徒から門信徒への弔辞は法話以上に、短くても人の心を動かし遺族に伝わるものがあります。遠方で、住職が出勤できない場合でも、住職から弔慰状だけでも送って、葬儀式が形式だけに終わらないよう心がけたいものです。その他、見舞い状や葬儀式の志の受納書送付状なども、仏さまの願いやおこころを伝える大切な場です。文字に残るものは、責任が重い分だけ、果たす役割も重いようです。