“いのちの実話”法蔵物語
「仏説無量寿経」に法蔵菩薩の経説が登場します。私はこのような神話的な表現を「いのちの実話」と名付けています。実とは「かならずもののみになる」(親鸞聖人)で、そのいのちに実りや頷きを与えてくれる物語のことです。法蔵菩薩の物語は、凡夫である私の上に、無量のいのちの恵みを明らかにして下さる物語です。
まずは、「いのちの実話」とは何かを、一つ二つ紹介してみましょう。
「心に残るとっておきの話」(潮文社刊)に埼玉の斉藤紘子さんが次のような文を寄せています。
概要は、生まれながらに頬にアザのある少女が、小学生となり、アザを気にするようになった。母である斉藤さんが、ある日「アザの神様」の話を娘にした。本の中からそのまま引用します。
その日、私は、娘にアザの神様の話をしました。「生まれてくる何人かの赤ちゃんに、アザを付けなくてはならない神様がいてね。その神様は「自分の身体はアザだらけになってもいいですから、赤ちゃんにアザを付けなくてもいいでしょうか」って、偉い神様にお願いしました。そしたら「アザがついても、強くて、やさしい心を持った赤ちゃんをさがしなさい」と、偉い神様に言われたんだって。アザの神様は、毎日毎日泣きながら、普通の人より強くて優しい心を持った赤ちゃんにアザを付けたんだって。そしてアザのある赤ちゃんたちが笑ったときだけ、アザの神様も笑うことができるんだって。だから厚子は、だれよりも強くてやさしい心を持って生まれてきたのよ…。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの私。見上げている娘の目もぐしゃぐしゃでしたが、笑おうと必死でした。それ以来、今まで1度も娘の口からアザのことを聞いたことがありません。
斉藤さんの娘さんへの「いのちの実話」です。キリスト教のバイブルに似た話があると記臆しています。
「生んでくれた、ありがとう」(葉 祥明著 サンマーク出版刊)という本が話題となっています。これも「いのちの実話」です。短い文をそえた絵本です。
…
ママ、ボクがうまれたとき、
ボクの身体のことを知って
おどろいたでしょう?
ごめんね。ボクがみんなんと
すこしちがっているんで、
しんぱいしたんだね。
…
…
ボクのカラダは、
けっしてまちがいや、ぐうぜんで
生まれたんじゃないんだ。
もちろん、なにかのつぐないなんかでもない。
ぼくがほかのことちがうのには
ふかいわけがあるんだ。
…
ボクはしっていた。
ママのおなかのなかで、このカラダができるまえから…。
ボクが、どんなふうにうまれてくるかを。
それだけじゃなく、これからさき、
ぼくがどんなせいかつをおくることになるのかも
ぜんぶわかっていたんだよ。
すべてわかったうえで、
ボクはママをママにえらんだ。
なぜって、こんどのじんせいで
ぼくがちゃれんじしようとしていることに
もっともふさわしいカラダのボクをうけいれる
おおきな、おおきなあいが、ママにはあったからだよ。
ママも心のどこかで、そうかんじていなかった?
…
…
ボクのねがいは、
ママがだれにもひけめをかんじることなく、
むしろほこりをもって、いきてほしいってこと。
きそいあったり、くらべたりするせいかつとはちがう、
おだやかで、おもいやりにみちた、やさしいせかい。
それが、ぼくがいきているせかいなんだ。
ママも、みんなも、すこしづつ、
そのことがわかってくるはずさ
あまり書くと、出版妨害になるので書きません。いい本です。
築地本願寺本堂にhide追悼ノート(元X・japan)が置いてあります。その横に、作者不明の「1000の風」の詩が貼ってあります。これも「いのちの実話」なのかも知れません。
私のお墓の前で泣かないでください
そこにはわたしはいません
永遠に眠ってなんかいません
ほらもういまはもう世界中に吹く
1000の風の中です
雪にきらめくダイヤモンドのように
世界中を照らす光のうちにいます
実りの穀物を照らす陽の光となり
あきにはやさしく降る雨となって
すべてのものを包んでいます
あなたが朝、窓を開ければ
風となってあなたの髪を
さらさらとなびかせます
夜あなたが眠るとき
星となっていつもあなたを見守っています
だからどうぞお墓の前で泣かないでください
私はそこにはいません
私は死んではいないのです
新しく生まれたのですから
はやく親と子どもへの「いのちの実話」、障害を持った子の「いのちの実話」、おじいちゃんと死別した人への「いのちの実話」、平凡に生きている人への「いのちの実話」、そんな「いのちの実話」ばかりを集めた本があればいいなーと思います。
私は、その「いのちの実話」の極まりが、大無量寿経の法蔵菩薩の物語だと思います。これは全人類の上に頷きを与えてくれるいのちの実話です。
ラジオ放送の「なんでも子ども相談」がおもしろい。私の聞いた中での極めつけは「明日ってどこにあるの」です。明日は場所的概念ではないので答える人の感性で、様々に答えられます。「お浄土ってどこにあるの」という問いも同じ事です。
先日は、小学生が「鳥はどうして鳥って言うの」と問うていた。これは難しい。リンゴってどうしてリンゴって言うの。猫はどうして猫と言うの。
語源辞典に、紹介されているのかも知れません。鳥は、古文にすでに鳥の表記があり、江戸時代の語源を研究した書には「とぶ・はしり」を縮めて鳥というとラジオの中で答えていました。
私は、そのラジオを聴きながら面白く思ったのは、「仏説阿弥陀経」の名義段(なぜそう表記するのかを示した箇所)です。
お経の中では釈尊が「アミダさんって、どうしてアミダというと思うかね」と舎利弗に質問しています。
『舎利弗よ。阿弥陀さんを、なぜ阿弥陀と呼ぶと思う』
そして自ら答えられます。
『阿弥陀仏は、あらゆる存在を照らし(無量光)、妨げられない(無碍光)光である。その阿弥陀様の光にあうともがらは、量ることのできない(無量寿)存在の輝きの中に安住する。だから阿弥陀と言うのだよ』
その阿弥陀如来について、「仏説無量寿経」には法蔵菩薩の物語として示されています。この神話的な表現を、私は「いのちの実話」とは言っています。あらゆるいのちの上に、その存在の意味を明らかにして下さる物語のことです。少しアレンジしてありますが、法蔵菩薩の物語として示される「いのちの実話」に耳を傾けてみましょう。
それは遠い昔むかし、錠光如来という如来の時のことです。すべてのいのちあるものは、その如来の光のなかに調和し、喜びに満ち尊厳の光を放ち、お互いのいのちを讃え合い自らの尊さの中に安住していました。それは偉大な作曲家の奏でる音楽が、一つひとつの音が全体のハーモニーにとけあい、心地よい和みをもたらすように、それぞれのいのちが輝き共鳴し、存在の喜びをたたえ合っていたのです。
そうしたいのちのハーモニーを讃える光の働きは、次から次へと如来として出現し過ぎゆきました。
それは世自在王仏が世にお出ましになったときのことです。その世自在王仏もまた、過去の如来と同じように、あらゆる存在と合い和し輝きを讃え、あらゆるいのちの存在の意味を明らかにし、それぞれの尊さの中に安住させる、こうごうしい光を放っていました。その光によって、すべての存在は自由自在の安住を得て喜びに満たされていたのです。
その世自在王仏の光の感動した、法蔵という完全な光を求める修行者が、仏の理想を極めたいという願いを起こしたのです。
なぜ法蔵という修行者が、完全なる光を求めたのかといえば、宇宙をよぎる光線が、その光の行く手を遮る星によって、光が光としての姿を現すように、その修行者の視野の中に、闇と苦しみに沈むいのちの姿があったからです。しかもその苦しみは、他者からの暴力や原因によって生じたものではなく、自らの闇によって作りだされたものであることから、その修行者は、その苦しみの原因である闇を照らす光になることを願われたのでした。
そしてその修行者は、闇に沈む苦しみの中に、身を置き、最高の理想や、闇に沈む者の可能性をつぶさにご覧になり、すぐれた願をおこしたといいます。その願は、過去・現在・未来に及ぶすべてのいのちの苦しみと闇に応じ、すべての人の安らきと喜びになることを自らの存在の証とし、欲と怒りと愚かさを治め、慈しみによって満たすという深く廣く豊かな内容でした。
その修行者の願は単なる願に終わらず、すべてのいのちの上に働く光となり、慈しみに満ちた言葉として完成されました。
その願は、賢い者も愚かな者も、男も女も、心の澄んだ人もそうでない人も、分け隔てなく抱き取り、裏切ることのない豊かな世界に摂取する慈しみとして完成され、その慈しみは、すべてのいのちあるものを無条件の救う阿弥陀如来として成就されたのです。
過去・現在・未来のあらゆる如来は、その阿弥陀如来の存在に感動し、その働きを讃え名を呼び共鳴し、阿弥陀如来の光に同化したといいます。
これが「仏説無量寿経」に法蔵菩薩として示された「いのちの実話」です。
この阿弥陀如来の願いは、他の如来に超えた願いであると自ら宣誓しています。釈尊の言葉によって示された他の如来の願いは、仏として体験される豊かな世界を目指し、悟りを求めるという私自身に向上的変化を求めたものでした。ところが阿弥陀如来の願いは、そのような人格の形成や目覚めを期待できない人も、捨てることなく摂取する慈しみを救いとして示されたことです。
何故、「救い」が示されたのか。それは人間の弱さや不完全さ、どうすることも出来ない状況化にあって、泣き過ごすしかない受動的ないのちの営みは、人間性そのものであること。また常に救われなければならない存在のあり方こそ人間の本質的なものであるとご覧になり、その人間存在そのものに光を当てたいという慈しみから如来の願いが起こったからです。
この慈しみとの出遇いは、人から仏へという歩みではなく、仏から人へという方向においてのみ実現され体験されて行く。この如来との出遇いは、「ああ、慈悲よ」「阿弥陀仏よ」「広大なる豊かさよ」と私が豊かさを求めるのではなく、豊かさに身をゆだねるという営みの中にのみ体験される。その営みこそ他力の念仏なのです。
親鸞聖人は、どうにもならない人間であることの悲しみを直視したとき見えてきたのが、自分が悲しむより遥か以前に、この私を悲しみ、哀れみ、いとい、慈しんで下さっている光の存在があったと言うことです。
「いのちの実話」法蔵物語は、私に真実の実りを届けて下さる如来の存在を告げる物語であり、単なる説話ではなく、阿弥陀如来の存在そのものなのです。