お墓へのお供え(西原祐治)
 
 10年前のことです。図書館で「いのちよ・ありがとう」(註1)という本に出会いました。著者はかとうみちこさん(註2)でした。それから数年して、早朝の「心の時代」(註3)というラジオ番組で、かとうさんご自身の声に接しました。その声を聞いた感慨は「この方まだ生きているんだ」という思いでした。詩人である彼女は、高校2年のとき無腐性壊死という難病に冒され、何度か死の影に触れる体験を持つ人です。そうした病歴が、私にそうした思いを持たせたのだと思います。

 早速お手紙を書き、お寺の講演会に来て頂きました。まだ会ったことない方でしたので駅にお迎えに行ったときは、車いすだろうか?とトンチンカンな思いをもっての出迎えでした。

 そして講演。本に書いていないことで一番印象に残った話しは次の話しでした。二十歳過ぎ、病の中、どうにもならない状況の中で師と出会います。その師が、富士山の絵を描いてごらんと告げられる。富士山の絵は、三歳の子どもでも歴史に名を残す人でも、構図自体は同じです。あの三角の富士山です。そんな絵を思い描いていると、その師は◎(二重丸)の丸い富士山を描かれたのだそうです。真上から見た富士山の絵です。その時の思いを「驚きました」と語ってくれました。富士山も見方によって想像もしなかった形がある。その時、百パーセント病身であると思っている私以外に、両親から見た私、天から見た私、みんなから見た私など、百パーセント病身でない私があることに気づいたとのことです。

 自分で自分を見るという状況があります。少し成長すると、他人から見られている自分を意識します。そして精神的に成長すると、他人が見ていなくても自分の行為に恥じらいを感じます。これは天から見られている自分を意識できる人かも知れません。そしてもっと深まっていくと、仏様のまなざしの中にある自分を意識します。これは、仏様から見られている自分に心が開かれている人です。

 さて本題のお墓の話しです。お墓という場所は、自分が自分を見るという意識を越えて、亡き方や仏さまから見られている自分に出会っていける空間です。「このひと月、どんな生き方でしたか」と亡き方を通して自分に出会っていく場所、それがお墓です。

 そのお墓へのお供えです。お供えと言えば、きっとリンゴやみかん、おはぎやぼた餅をイメージされていることでしょう。その他にお花やお線香もお供えです。

 お焼香と言えば、過日、「浄土真宗ではお香をなぜ頂かないのか」(註4)と聞かれました。「なぜするのか」という質問が多い中、「なぜしないのか」は面白い質問です。

 浄土真宗では、お焼香の折りお香を頂きません。しかしその他のことでは頂く場合があります。それは経本を開いたり袈裟類を着用する場合です。共に頂いてから身に添えます。ところがお焼香や花、仏飯類は頂かずに供えます。他宗の方が、なぜ香を頂くのかと言えば、心をこめるのです。真心を込めてお供えするのです。ところが浄土真宗は、私の心は汚染(註5)されているとの自覚から心を込めることをしません。

 袈裟や経本は、仏の側に所属する類のものです。だから頂きます。本尊を奉るとき、仏をいただいて奉ります。これは心を込めるのではなく、尊敬の念から頂きます。

 話しを戻してお墓へのお供えです。過日、友人の住職とお墓のお供えの話しとなりました。その住職いわく、お墓にお花を供えるのに、手前を裏にして立花の正面がお墓側に向くように供えてある花があるとのこと。「へー、そんな人がいるんだ」と聞いていましたが、これは笑い事ではないようです。葬儀の折に、弔辞を手前を頭にして、尊前側に向くように供えてある場合を多く見かけます。これも発想自体は同じです。お花をなぜ、参拝者側を表向きにして供えるのか。阿弥陀さまの働きは、常に私に向けられているから、それをお供えしたお花で表現すると私向きになります。このお花の向きについて、過日先輩から有り難い話を聞きました。その先輩が坊守さんから『仏さまに供えるお花は、なぜ仏さまに向かってではなく、私向きに供えるのか』と問われたのだそうです。その方いわく『『南無阿弥陀仏』(念仏)の仏さまに供えるから』と答えたそうです。阿弥陀如来は『南無阿弥陀仏』(念仏)と称えられる仏になるという如来です。私が口にする『南無阿弥陀仏』こそ仏そのものです。その私の口に届けられている『南無阿弥陀仏』の仏さまに供えるのだから、花を私向きに供えるという理解です。

 お供えの原点に考えるとき、知人のHさんのことが思い出されます。Hさんはがん体験者で真言宗のご縁のあった方です。乳がんを患い治療、その後転移し病気が落ち着いた頃、お母さんと死別します。

 そのHさんが、ある日、新聞広告で四国四十八ヶ所巡りを見つけます。その時、「よし、お母さんに、これをお供えさせて頂こう」と思ったのだそうです。そして四国四十八ヶ所を巡り、その旅の話をして下さいました。そうしたご縁が積み重なったのでしょう。過日、真言宗で得度をしましたとのお手紙を頂きました。

 四十八ヶ所巡りをお供えさせて頂く。その行為を通して、私の信仰生活が豊かになる。私はこれが仏さまへのお供えの原点のように思われます。今日は父の命日、仏壇の前で心静かな時を持たせて頂く。それをお供えとする。今日は母の命日。今日一日、腹を立てないことを実践する。それをお供えとする。今日は祖母の命日。行譜の正信偈をお勤めし、それをお供えてする。そしてその極まりが、阿弥陀如来のお慈悲を喜ぶことです。何故にそれほど、阿弥陀如来のお慈悲を喜ぶことが重要なのかと言えば、阿弥陀如来のお慈悲を喜ぶことは、いつ、いかなる私であっても、その私を大切にできる世界がそこに開かれていくからです。

 お墓の前で、お花を飾り、供物を供え念仏を申す。お墓は私の命の源泉である先祖を追慕する空間です。その一連のお給仕やお勤めを通して、仏さまのお育てを喜び、浄土真宗のみ教えの有り難さ、浄土真宗の教えを聞く境涯に誕生し、念仏のご縁を育んで下さった先祖のお徳を讃える。そのことすべてが、仏さまへのお供えなのです。仏さまへのお供えは、私が仏さまに向かって物や心を捧げることですが、それはそのままが仏さまから私への恵みでもあります。お供えは「してあげる行為」ではなく、「させて頂く行為」、亡き方や仏さまからの賜りものなのです。

 
註1
いのちよ、ありがとう
かとうみちこ /日新報道 1987/10出版 195p 19cmX13cm NDC :916 \1,050(税込) 入手不可
註2かとうみちこ
1949年埼玉県に生まれる。高校生とき難病にかかり、その後入退院を繰り返し生死のはざまを3度さまよう。「無腐性壊死」と病名がついたのは発病して10数年後。今なお難病と共生しながら、詩作、講演、司会業に打ちこむ。詩集に『しあわせのかくしあじ』(地湧社)、『いま、生かされている私』(装神社)、『みちこ、笑ってごらん!』(モラロジー研究所)、その他多数がある。

註4宗派別のお焼香の作法
・天台宗 1回または3回(特にこだわらない)
・真言宗 3回
・臨済宗 1回
・曹洞宗 2回(1回目は額におしいただき、2回目はいただかずに焼香する)
・浄土宗 特にこだわらない
・浄土真宗 本願寺派 1回(額におしいただかずに)
・真宗 大谷派 2回(額におしいただかずに)
・日蓮宗 1回または3回
・日蓮正宗 3回


註5 顕浄土真実教行証文類

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染
  にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。