川上清吉師からの手紙

      

       西原祐治


仏教讃歌 分陀利華

作詞 川上清吉

作曲 山田耕筰

一、よしあしの 間(はざま)をまよい

より処(ど)なき 凡夫(ただびと)すらや

みほとけの

誓いをきけば
二、おおいなる みむねをうけて
   現世
(うつしよ)の にごりえに咲く
   かぐわしき 

分陀利華(しらはちす)かも
三、世のひとの うちにすぐれて
   上もなき 人とたたえん
   みほとけの 

かくこそは告(の)

 


分陀利華とは、白色の蓮の花のことです。インドの古語であるサンスクリット語プンダリーカからきています。汚泥のなかから清らかに咲く白蓮華はお経に好んでとりあげられ、『観無量寿経』では、阿弥陀仏の誓いを信じ念仏をよろこぶ人を「人々のなかの分陀利華である」とたとえています。

親鸞聖人も「分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり」を讃えられています。ここから浄土真宗の篤信の人を妙好人といわれるようになりました。

仏教讃歌「分陀利華」の作者である川上清吉師の名を初めて耳にしたのは父からだと思います。残念ながらその時の話の内容は憶えていません。現代、素晴らしい見識を持っている人は多くいますが、学徳兼備となるとそう多くはありません。その点、川上清吉師は写真から受けるお姿から、またその経歴からも誠実さが伝わってきます。

島根県の浜田町に生れ、中学を卒業すると尋常小学校代用教員としてつとめ、尋常高等小学校正教員となり、試験検定により中等学校教育科教員免状を受けると中学校教諭へ、そして高等学校高等科教員検定試験に合格されます。佐賀県立鹿島中学、佐賀師範学校、県立津和野中学校長、県立浜田第一高等学校長、そして国立島根大学教授へと就任されています。尋常高等小学校代用教員から国立島根大学の教授へ、日々努力の方でもあったようです。

川上清吉師の真宗の信仰については自ら二十歳前後のことを“私は数人の友と一しょに無神論者になってしまったことがある。仏とか来世とかを、まるで愚かなことだ。…そういう状態から、後に宗教へと転じた私の小さな経験は、なにか意味があるように思う”(信仰と疑念)とあります。ひとりの人間の悲しみや苦悩を通して研ぎ澄まされる知性は、万人のこころの響きわたるということがあります。科学的な知見に染まっている現代にあって、ご自身が抱く疑問は、現代人の疑問でもあるとの心念から思索を深め、それを多くの文字にして発表されました。時を同じくする多くの知識人や青年たちが感化を受けことであろうと推察します。

師の著作には『石見の善太郎』『才市さんとその歌』など島根県石見地方の妙好人をあつかった大作があります。こうした妙好人を排出した石見の土徳が師のうえに信心の華を咲かせたとも言えます。

師の『ふんだりけ』(『信仰と疑念』)のいう小品文のなかにいま書き留めていかなければ忘れるであろう市井の人が数人紹介されています。

金築ハルさんという方について次のようにあります。

 

そのひとは、七十ほどのお婆さんなのである。竹原さん、田中さんなど、私の知っている方々の家をまわって針仕事の手伝いなどして渡世している。

 そしてハルさんは家を持たない。人の好意で家を借りたこともあるそうだけれど、家がなくて困っている人のことを聞くと、その大にゆずってしまって、また一処不住にかえってゆく。

 自分で餅をつくこともあるそうだけれど、気の毒な人を見るとすぐに分けてしまう。

自分のものは、何でも人に施してすこしもこだわらない。

まったくの衣のみ衣のままで無所有を行じている。

…ハルさんは年に一度お寺で法供養をする。賃仕事でかせいだお金を、相当な講師を招じて公開の聞法の集りを開く資にするのである。一信会の人々もその法施をよろこんでうけている。してみると、真宗の同行に多い独善的な人ではなくて、人と共に歓びを共にせずにはいられない人である。

 人を訪ねても、法の話か出ないとさみしくてすぐ帰ってゆくのだそうである。

なにか悟りきった高徳の禅僧のような行動である。それが平凡な市井のお婆さんによって淡淡として行じられているのである。それが念仏の中から、じねんに湧いて来ているのである。

 私はわざわざこの人に逢ってみようとは思わない。この人の神聖な平凡さを珍らしいもの扱いにすることに冒涜をさえ感じるからである。縁あればお目にかかって話すこともあるであろう。

 

 師は「神聖な平凡さ」と表現しているが、まことにその通りだと思う。『華厳経』には、蓮の花が備えている四つのすばらしさ、香り、清らかさ、柔軟さ、愛すべきことをあげています。当時の石見地方には、こうした妙好人が多くおられたに違いない。それが石見の土徳というものであろう。その小品文に次のような名もなき人の話もある。

 

私と肩をすり合せているのは、七十位の山村の老人である。長い間、封建制の重圧の下にあった先祖から遺伝されたのか、骨のかたまらない子供の時から、薪など負って山坂を上下した結果か、その脚が、膝から下が短く、それが内輪に曲っている。これはかって小藩であり、平野の全くない石見の地方に、いつもみられる典型的な農民の姿態なのである。

この女性の一団の中の最年長の四十四、五位な人と、この老人との間に向いあっての会話がはじまった。見栄だの飾り気だのを、全然もち合せていない海の女性と山の老人との会話は、万歳よりもはるかに自然なユーモアがある。さびしい冷気が凝りつめている車内に、それが温気のような賑かさをそえる。失笑がわく、横槍が入る。邪気なき人々のエロばなしは、魚肉のようになまぐさくなくて、乾草の匂のようなぬくもりがある。

 ところが、会話をきいているうち老人は十何年前に連合いが死んでおり、おかみさんの方も数年前からの後家であることがわかった。そこで、二人をいしょにさせたらという動議が車内におこった。むろん、みな爆笑をあげての賛成である。       

 話がここまで来ると、老人は急に声をひくくして言った。

「やれやれ、人間もこんなに恥しい気がなくなったら、もう、おしまいだ。若いうちが花だ。」

すると女性の中の一人が言った。

「おじいさん。そう言うても、あんたも、十八が貰えたら、まだ悪くはあるまいがな。」

この時である。おじいさんの皺くちゃな顔が急にひきしまった。

 「十八。十八。―そうだ。十八さえ頂けたら、この年よりは、ほかには何にも望みは無いがな。」

 それから、となりの私の耳にだけ聞えるような念仏の声である。

 すると、前の女性の一人か、「とうとう、おじいさんが、おかし涙を出してしもうた。」と言って、また爆笑がわいたが、その老人も、それに釣りこまれるように笑ったが、杖の上にかさねた両手の上に、その額をつけてしまった。念仏の声である。

 私は粛然とした。「十八」の意味内容が両者でちがっているのだ。わたしも深いものの中に沈みゆくような思いで、み名をつぶやいた。

 

「十八」とは阿弥陀如来の本願のエキスである念仏往生を誓った十八願のことです。名もなきおじいさんのかすかな念仏の声に、無量寿・無量光という広大な阿弥陀如来の躍動を感じ、その躍動に同調するようにみずからの口で念仏にふれたようです。

 

島根県には世界文化遺産となった石見銀山があります。鎌倉時代末期に発見され、十七世紀には徳川幕府直轄地としてその財源をささえる重要な銀山になりました。石見銀山街道は、銀を搬出する御用輸送路として開かれ、銀の他にも多くの人や物資が往来し、文化交流の道としても繁栄しました。「銀山日記」(十七世紀初め)によれば、人口二十万人、家屋数約二万六千軒を数え、日本有数の都市として栄えていたことがしるされています。最盛期には、この銀山の谷の中にあった寺の数が百を超えていたとのことです。その人口を支えるための食料や物を作る人たちが石見地方全域に広がっていたようです。

現在でも島根県には本願寺派だけでも四百二十ヶ寺をこえる寺院があります。しかし昨今は過疎化がすすみ寺院の存続は、寺は消えるから村が消える事態になっています。その過疎化の渦中に山々にかこまれた浄円寺という小さな寺に父は生まれました。そして父は十六歳の折、母親は十八歳の時に逝去しています。

農協に勤めていたが退職して妻子を島根へ残して広島仏教学院へ、そして四ヶ月後にはひとり東京の仏教学院へと転向していきます。昭和三十二年のことです。

見知らぬ土地、知り合いもない大都会でのこと、三十歳そこそこの父はどれほど心細かったであろう、と想像すると涙が出てきます。それから三年を経た昭和三十五年、父は母と兄とわたしを松戸市に呼び寄せた。時に、わたしは五歳でした。

父は上京して以来、当時、島根大学の教授であった川上清吉師から何度か励ましの手紙をいただいています。それらの受け取った封書の住所表示がみな相違していて、父の苦労が偲ばれます。

その清吉師からの、昭和三十二年十月二十九日付けの手紙には、以下のようなことが認められています。

 

 上京しての勉強には恐れ入りました。まったく頭が下がります。しかし、真宗は京都のような静かな過去の町で過去の教学で勉強しても「大衆と共に救われていく」(あなたのことば)道は見つかりません。……自分一人が救われるということと、「親鸞一人がため」というのは根本的に相違します。前者は「自利」であり、後者は主体性の自覚です。

あの雑踏の中に立ちつつ考える人生、そこから真宗は学ぶべきものではないでしょうか。その意味から、あなたの上京に深い喜びを感じます。文字を会通するのは、文字からではなく自分の肉体でして下さい。聖教にあたるには、街角に立って考え味わって下さい。それでなければ、江戸時代の農民の無自覚の上に立って煉られたお説教や教学では、今日の民衆は絶対について来ません。

 
 「あなたのことば」とあることから、父が清吉師に認めた手紙の返信のようです。熱意に燃えた若き父が目に浮かびます。信仰に生きる清吉師からの手紙に、どれだけ勇気づけられたことでしょう。

そして数通の手紙をはさんでの最後のハガキは、師の夫人・川上ミツさまから昭和三十四年六月五日付けでいただいた、印刷された死亡通知でした。

後半の書き出しに、「川上清吉儀、去る六月一日午後四時、無事浄土往生いたしました」とあります。「無事浄土往生」の言葉が輝いています。その前半には、川上清吉師が、生前に用意しておられたと思われる挨拶文があります。

 

謹啓 生前は、いろいろお世話になりました。厚く御礼申し上げます。このたび、私もいよいよ久遠のみ仏のくにに参ります。

六十三年の間、わたくしとしては努めて来たと思いますし、後の事もこころにかかることはありません。この期にのぞんで、今さら、仏の教えの深さを讃えずにはいられません。どうぞお幸せに。

昭和三十四年六月一日

 

清吉師は、その年の一月四日に大阪大学病院に入院され、がん腫にかかった胃を全摘されています。がん告知を受けたのは、その前の月のことでした。

清吉師の、昭和三十三年十二月二十七日付けの日記(死を前にして)には次のように記されています。

 

わたしは、そこから琵琶町に出る田圃道の時雨にぬれたぬかるみを歩きがら思った。――この平静さはどうしたことだろう。同じ道を来たときとちっとも異わないではないか。むしろ、今のほうが胸のうちが澄んでいるではないか。この平静さ、というよりも、むしろ豊かに湛えた水のような状態はどうしたことだ。そう思ったとき、これは長い間、仏の教えに育てられたそのおかげではないか。――そうと思ったとき、わたしは瞼があつくなった。やっぱり浄土はあるのだ。その浄土につらなっているからこそ、この歓びが来るのだ。いま、私の胸には絶望や悲しみのかげだにないではないか。そればかりではない。ふかぶかとした温かいものさえ満ちてくるではないか。

 

「瞼があつくなった」とあるその素朴な信仰心に打たれます。がん告知を受けて、動揺していない自分に気づき、その背後に如来のお育てを拝し深い喜びに浸っておられるのです。

清吉師から父へ届いた最後の年のお便りが、二通残っています。

 

正月 旬、大阪医大で胃の全体を切りとられ、やっと癒えると松江市の日赤病院で二月十八日大手術をうけ、生死の間を二度もくぐりました。

少し元気づきかけたので山積みする通信をよみ、その中であなたの手紙で大きく動かされました。私はまだ自分の力で立つことも小便する力もありません。けれど手の力をしぼって御礼を申します。大きな力を与えて下さいました。私は私の体力の最低ではじめて親鸞に逢いました。運よくこのままよくなれば、これを伝えずにいられません。                            合掌 

三月三十日 

松江市日赤病院にて 

 

三十歳も年下の、一青年の言葉に心を奮いたたせておられる師の純真さに、頭が下がります。

生前の父に、川上清吉師について尋ねたことはありませんでした。清吉師は島根県浜田市に在住されていたので、同じ郷里のさほど遠くない田舎で暮らしていた父はたぶん、川上先生のご講演でも聴いた縁で交流が結ばれたものかと想像していた。

父が浄土へ往って満五年、母が「遺品を整理していたら出てきた」と、浜田局の消印が昭和二十七年四月二十一日付けの手紙と、年月無し二十七日付けの返信が認められた手紙を届けてくれました。年月が無く、「二十七日 川上清吉」の署名だけがある手紙には、「学校をやめて以来、せわしない日暮しです」と近況が認められているので、国立島根大学教授を退職された昭和二十八年四月一日以降の、さほど時日を経ていないころのお便りかと思われます。そこには、すでに両者の交流に隔てのない親しさが読み取れます。

それに先立つ昭和二十七年の、おそらくご縁を得て、といっても父からの一方的なアプローチだったのでしょうが、間もないころと思われるお手紙には、こんなことが書かれています。

 

西原正念様

 

私は今日、浜田の自分の家におります。今は静かな雨です。

今日は私が五十六歳になる日です。あなたの年の二倍にもなるでせうか。

松江から回送して来た手紙を見まして、いろいろ思ふことがありました。しかし、いろいろ心の中を語りかけて下さることはうれしいことです。

あなたは限りなくいい素質をもった方です。もっともっと自身を大切にしなければならないと思います。しかしあなたの胸に湧く宗教への憧憬は、あまりにもロマンチックであります。美しい世界を夢見ておられるように見えます。

あなたは「体験」という言葉を使われます。これがすでに甘いひびきをもった言葉です。善導大師は「自身は現に是」と言われています。自身の「身」はこの肉体です。「現に」とはこれも強い現実でしょう。

宗教は体験とやらではなくて、私の「現実的な」この「肉体」の上の問題です。「実存」の問題です。山の中に「仏」を求めたりしても、そんなこところには美しい「○」があるだけです。「仏」はありません。山に入っても、寺に住んでも、職場にあっても、あなたの肉体の存在するところに、煩悩があり、苦悩があり、矛盾があり、さみしさがあり、罪悪があるのです。そして、そこに仏もまたましますのです。

私は仏名のあるところに仏を感じます。称名するところ、それがそのまま如来の私への働きです。そのほかには何もありません。それが私の「ただ念仏して」です。

返事にもならない返事を書きました。私の雑念の日々にこんな手紙を書くことをたのしく思います。自重して下さい。                                          合掌 

二十七、四、二十  

川上清吉  

 

清吉師の誠実さや人柄が読み取れます。文中の“宗教は体験とやらではなくて、私の「現実的な」この「肉体」の上の問題です”という言葉には少し解説が必要かもしれません。

思い通りにならないという苦しみの中で、思い通りになることを絶対とする自己中心性が明らかになり、自己のg愚のリアリティー(真実性)が明らかになる。それが肉体の問題ということでしょう。

 

師は、だれに対しても平座で正面から向き合っておられたようです。それは、師の書き物やエピソードからも伺えます。

『愚禿譜(ぐとくふ)』という本の「あとがき」に、次のような文があります。この本は、昭和二十三年十一月に出版されていますので、それより以前、中学校の教員か校長時代のことと思われます。

 

夜明であった。病人が寮の人に逢いたいという電話がかかった。私は偶然早く出勤していたので、自転車で病院に走せつけた。胸が不規則に大きく波打って実に苦しそうである。もう臨終なのである。

 その母の声でわずかに目を開いたNは、私の顔を見定めると、やっと「ながながお世話になりました。」といった。私は思わず、病人の片手を両手でしっかり握りしめた。そしてこんなことをいった。「N。お父さんの処へいけるんだぞ。これだけは間違いないんだぞ。」

Nはよわく微笑して私の目を見た。そして非常に呼吸が楽になった。そして今一度母にお別れの微笑みせて、そのまま親身の人々の念仏のうちに、息を止めた。

 今まで枕もとで誰よりもたくましく、たのもしげにしていたNの母の嘆きは、また誰よりも深くあわれでさえあった。

 しかし「おかげさまでいい往生をさせてもらいました。」と私にいった。そのときに思った。もし私が仏の教えを聞かせてもらう身でなかったならば、どんなことをして、この教え子の死を送ったであろうと。先生の義務的な感情で、「しっかりしろ」といったような気休めを言うほか仕方なかったのではあるまいか。私は、本当の教師としての最後の勤めを、一人のNだけには尽くしたような気がした。私は、帰り道を、願正寺によった。私は何かしら如来さまにお礼をしたいような気がしたからであった。

 

また「しぶ柿問答(『光を聞く収蔵』)という文章からも、師の誠実さは伝わってきます。

 

ある友人が、こんなことを、私にたずねた。

T君は宗教に入ったということだが、全体、宗教というのは、何を求めるものなのか。

それに対して、私はこんな答えをした。―何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、しかし、その「求める」ということの無くなるのが、それが宗教だということが、このごろわかって来た。

では、宗教は何の役に立つものなのか―と、その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが宗教だということは言っていいと思う―と答えた。

信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、ほんとうか。―

そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、ほんものの信仰でないということだ。

信心というものは、苦しい時の慰めになるというようなものなのか。―
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。

しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたりするのは、信心を手段にしているので、誰もが一番警戒しなければならない。あやまりだと思う。

仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。―という突っこんだ言い方をしてきた。それで 自分が信じるとか、信じないとかいうことが問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった世界に居てのことだから、答えられない―と、私もはずむような気持ちになった。

それでは、仏というものは、存在するのか―という。

存在する―と、きっぱりと答えると、

何処に―と、追っかけるから、

その、君の「問。」を起こさせている力として存在しているのだ―と言いはしたものの、現在の私としては少し、早すぎる言いぶりではないかしらと、ひそかに思った。

しかし、よく金ぴかの木像など、拝めるね―

うそでは、拝めない。

だけれど、私にはこんなふうに思えるのだ。前に置いて私が拝むものは、うしろにあって私を拝まさせているものだ。

外にあって、私が合掌するものは、内に来たって私を合掌させるものだ。

 

川上清吉師の書籍は現在、古本でしか手に入らない現状です。しかし師の、生きることのへの誠実さ、念仏者としての現代に対する視座は、時代を超えて届き響くものがあります。

 

 

川上清吉(かわかみ せいきち) 明治二十九(一八九六)年〜昭和三十四(一九五九)年。

島根県に生まれ、佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務める。親鸞聖人の教えを現代人に紹介し、その弘通に挺身。若いころから詩歌などの創作をされ、仏教讃歌『芬陀利華(ふんだりけ)』は今も歌い継がれている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。

著書に『青色青光』『才市さんとその歌』『歎異鈔私解』『現実と未来との間』『愚禿譜』『教育の宗教的反省』『光を聞く』『川上清吉選集』『川上清吉先生を偲ぶ』ほかがある。

 

西原正念(にしはら しょうねん)

昭和二年二月十三日島根県邑智郡浄円寺に生まれる。島根県立川本高等学校、島根県立農業技術員。昭和二十三年六月十五日得度、三十二年九月広島仏教学院より東京仏教学院転校後卒、昭和四十六年八月宗教法人天真寺設立初代住職、平成四年七月住職退任、平成十五年十一月二十八日往生 著書『煩悩を転ずる』(法蔵館)

 

西原祐治 (にしはら ゆうじ)  千葉県柏市 西方寺(さいほうじ)

昭和二十九年島根県生まれ、龍谷大学卒。

著書:『いのちの学び』(百華苑)、『ありのままの自分を生きる』(徳間書店)『脱常識のすすめ』『光 風のごとく』(探求社)、『浄土真宗の常識』、『親鸞物語―泥中の蓮花―』(朱鷺書房)