念仏者 川上清吉師のこと

在家仏教08.4月号 掲載

念仏者 川上清吉師のこと 

 

 

私は平成5年、柏市に西方寺(浄土真宗本願寺派)を設立した。宗派が行なっている都市開教の一環です。

 私の父・西原正念(19272003)も昭和48年、松戸市に新寺院を設立している。父は島根県邑智郡に生まれ昭和32年、妻子を島根県に残し東京へ上京し、浄土真宗の念仏道場を開設すべく始動した。見知らぬ土地、知り合いもない大都会でのこと。30歳そこそこの父がどれほど心細かったろうかと想像すると涙が出ます。そして昭和35年、母と兄と私を松戸市に呼び寄せた。時に私は5歳でした。

父は東京へ上京してから、当時、島根大学名誉教授であった川上清吉師から何度か励ましの手紙をもらっています。受け取った宛て先が転々としていることからも父の苦労が偲ばれます。

昭和321029日付けの清吉師からの手紙です。


【上京して勉強には恐れ入りました。まったく頭が下がります。しかし、真宗は京都のような静かな過去の町で過去の教学で勉強しても「大衆と共に救われていく」(あなたのことば)道は見つかりません。自分一人が救われるということと、「親鸞一人がため」というのは根本的に相違します。前者は「自利」であり、後者は主体性の自覚です。

あの雑踏の中に立ちつつ考える人生、そこから真宗は学ぶべきものではないでしょうか。その意味から、あなたの上京に深い喜びを感じます。文字を会通するのは、文字でなく自分の肉体でして下さい。聖教にあたるには、街角に立って考え味わって下さい。それでなければ、江戸時代の農民の無自覚の上に立って煉られたお説教や教学では、今日の民衆は絶対について来ません。】とあります。 
 「あなたのことば」とあることから、父が清吉師に認めた手紙の返信のようです。熱意に燃えた若き父が目に浮かびます。信仰に生きる清吉師からの手紙に父はどれだけ勇気づけられたことでしょう。

そして数通の手紙をはさんで最後のハガキは、昭和3465日、師の連れ合いである川上ミツさんからの印刷の死亡通知です。

 後半面の書き出しは「川上清吉儀、去る61日午後4時、無事浄土往生いたしました」とあります。「無事浄土往生」の言葉が光ります。その前半面は川上清吉さんが、生前用意していたと思われる挨拶文です。

【謹啓 生前は、いろいろお世話になりました。厚く御礼申し上げます。このたび、私もいよいよ久遠のみ仏のくにに参ります。

63年の間、わたくしとしては努めて来たと思いますし、後の事もこころにかかることはありません。この期にのぞんで、今さら、仏の教えの深さを讃えずにいられません。どうぞお幸せに。

  昭和3461日】 

清吉師はその年の14日大阪大学病院に入院し、癌腫にかかった胃を全部切り取られています。がん告知を受けたのは、その前の月です。昭和331227日の師の日記に次のように記されています。

【わたしは、そこから琵琶町に出る田圃道の時雨にぬれたぬかるみを歩きがら思った。−この平静さはどうしたことだろう。同じ道を来たときとちっとも異わないではないか。むしろ、今のほうが胸に内が澄んでいるではないか。この平静さ、というよりも、むしろ豊かに湛えた水のような状態はどうしたことだ。そう思ったとき、これは長い間、仏の教えに育てられたそのおかげではないか。−そうと思ったとき、わたしは瞼があつくなった。やっぱり浄土はあるのだ。その浄土につらなっているからこそ、この歓びが来るのだ。いま、私の胸には絶望や悲しみのかげだにないではないか。そればなりではない。ふかぶかとしたあたたかいものさえ満ちてくるではないか。】

「瞼があつくなった」という素朴な信仰心に打たれます。がんの告知を受けて、動揺していない自分に気づき、その背後に如来のお育てを拝し深い喜びに浸っているのです。

清吉氏から父へ届いた最後の年の通信が二通残っています。

【正月旬大阪医大で胃の全体を切りとられ、やっと癒えると松江の当院で218日大手術をうけ、生死の間を二度もくぐりました。少し元気づきかけたので山積みする通信をよみ、その中であなたの手紙に大きく動かされました。私はまだ自分の力で立つことも小便する力もありません。けれど手の力をしぼって御礼を申します。大きな力を与えて下さいました。私は私の体力の最低ではじめて親鸞に逢いました。運よくこのままよくなれば、これを伝えずにいられません。合掌 330日松江市日赤病院にて】

30歳も年下の青年の言葉に心奮える師の純真さに頭が下がります。都市開教に従事して20年、父が師の言葉に励まされたように、私もいま師の純真さに学びたい。

川上清吉(かわかみ せいきち)明治291896)年〜昭和341959)年

島根県に生まれ、佐賀師範学校教授、浜田第一高校校長、島根大学教授を務める。親鸞聖人の教えを現代人に紹介し、その弘通に身を勤める。若い時から短歌などの創作をし讃歌「芬陀利華」は現在でも歌われている。信仰の人として多くの人に影響を与えた。

著書「青色青光」「才市さんとその歌」「歎異鈔私解」「現実と未来との間」「愚禿譜」「教育の宗教的反省」「光を聞く」「川上清吉選集」

仏教賛歌「芬陀利華」
作詩 川上清吉 作曲 山田耕筰

よしあしの 間をまよい
より処なき 凡夫すらや
みほとけの 誓いをきけば
おおいなる みむねをうけて
現世の にごりえに咲く
かぐわしき 芬陀利華かも
世のひとの うちにすぐれて
上もなき 人とたたえん
みほとけの かくこそは告れ