「がん患者・家族語らいの集い 01.2.10講話内容レジメ

「新・がん患者・家族語らいの集い」への思い
  お話は、私 西原祐治です

 一昨年、父が食道がんを患いました。その折り、色々なことを学びました。当初、気になったのは、「何ヶ月の生命か」です。しかし同時に、かけがえのない生命を何ヶ月という数量ではかる。それは大変に不遜なことだという思をもちました。生命を一ヶ月二ヶ月という数量にしたとたん、一ヶ月より二ヶ月、二ヶ月より三ヶ月の生命の方が価値ありという生命が物に転落してしまうからです。
私たちは一日より二日、二日より三日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど、一日の重みが増していきます。そして、その極みが「今のひと時」です。ここに立つとき、「今という時は二度と巡ってこない」という永遠に巡り会えないという質をもった生命であることに気づかされます。限られた命の時を告げられることは、長い生命のうえに幸福を感ずる価値観から、生命の短さの中に、永遠を感ずる考え方に回心する最良の時でもあるのです。現実生活の場で、そのことを教えてくれるのが先に死んでいく人たちなのだと思います。

本当のことを語る
一九八八年八月から、毎月一回、欠かすことなく築地別院のご好意で「がん患者・家族語らいの集い」を開催してきました。この3月で164回を数えます。
まずは当集いの歩みを見てみます。

○ 昭和62年8月
仏教ホスピスの会主催として第一回開催
当初仏教ホスピスの会は、仏教情報センターの一部門の会であり、開催当初は、各宗の僧侶が参加していました。
○ 平成6年4月
仏教情報センターから「東京 仏教ホスピスの会」として独立して、第81 回「がん患者・家族語らいの集いを開催。
 その間、毎月、仏教ホスピス通信発刊。その通信をまとめた記念集が「第1集」〜「第5集」まで発刊。また春秋には旅行会を開催し、その他新年会・世話人研修会などが開催されてきました。
 また当集いは「東京仏教ホスピス会」主催でしたが、平成6年4月より、浄土真宗東京ビハーラとの共催という形式で集いが継続されてきました。
 
 集いで大切にしていることは、「本当のことを語る」ことです。告知に代表される本当のことは、辛く苦しみを与えるケースの方が多いのが実際です。しかしそのつらさや苦しみを通してしか、見えてこない視点や気づきがあります。
 この「本当のことを語る」ことは大変に大切なことです。すこし角度を変えて考えてみましょう。
 近代ホスピスは、1967年、英国のロンドン郊外に創設された聖クリストフアーズ・ホスピスの開設に始まります。シシリー・ソンダースによって始められた、がん末期患者への新しいケアの実践です。そのキーポイントになったのが、麻薬を用いた鎮痛剤です。肉体的な苦痛の除去によってなにが起こったのか。それは肉体の苦痛の裏に隠れていた人間の苦悩や死んでいくという現実が視野に入ってきたのです。それは肉体的な苦痛によって見えていなかった自分の中に起きている本当のことと向き合うことだったのです。
 そして人間の苦悩や死という現実が、その人を変容させ、その人を自己実現に向かわせるということを、体系的・意識的に明らかにしてきたのが近代ホスピスの歩みなのです。
 先のシシリー・ソンダースは、ホスピスの使命について、1997年5月、来日の講演で次のように語っています。
「物質的の世界に向けて、ホスピスが伝える最終メッセージは、人間の精神の逆境におけるしなやかさと言うことです。何度も、何度も、私たちは、人間の内からも外からも品格が現れてくるのを見たよう思います。人間の本質について、真の成熟や究極の現実について、私たちは伝えることがあるのです」。
 ホスピスで重要なことは、弱い人を看護するという、博愛の精神ではなく、その人の自己実現という成長であり、歓迎されることのない状況にあっても、人は喜びを感じ、今を受容できるというしなやかな心の達成なのです。ホスピスは、治る治らないといった、物質的な可能性を目標とする場ではなく、人はどんな逆境に至っても、その時を受容し、熟成の喜びに至ることができる。そうした人間の可能性を伝える場がホスピスだというのです。「本当のことを語る」。辛いことですが、ここから始めなければ何も生まれないのです。
その人を評価しない
この13年の歩みの中で、大切にしてきもう一つのことがあります。それはありのままのその人を評価することなく受け入れることです。悲しみも悩みも、そのことがその人の今に、大切な意味を持っているのだと思います。また混乱や悩みを通して人生の質は深められていくのだと思います。その人を評価しないとは、具体的には、相手を変えようとしないことです。
 
これから
 この四月からは、今までの集いを解散して、浄土真宗東京ビハーラ主催として、新に世話人、理念などを一新して歩み始めることになりました。
 「本当のことを話す」「その人を評価しない」。今までの13年に歩みの中で大切にしてきたこの二つのことは、その人が成長・回心するために大切な大切な環境でした。その環境によって何が達成されるのか。4月からの再出発では、前記に加えて、あなたの、そして私の成長・回心・達成そのももに焦点をあて、そのことに関心を持ちつつ取り組みたいと考えております。
新しく集いを始めるに当たって、有志による準備会を何度か開催しました。
決定ではありませんが、そこで話し合われ一部を列記します。

● 大切にしたいもの・理念
 人は終末期にあっても、その存在を肯定していける資質があります。その資質を仏教では智慧として伝えてきました。智慧は、知性や知識ではなく、病気や苦悩や死に意味をあたえ、生死のより所となるものです。
 この智慧という資質がすべての人の上に存在していることを信頼し、関心を持ち、お互いの違いを認めあっていくことを願っています。
 そのためには、まず私たちは、病気や死の現実の中で、安心して私の身の上に起きている本当のことを語り合える場所と、人と人との出会い、それを可能にする人間関係や考え方を大切にしたいと思います。

(平等の原則)
新集いに関わるすべての会員および、世話人は、身体的、社会的、宗教・宗派の有無などの理由により、お互いを差別してはならない。互いに尊敬し、対等の立場で意見交換し、協力して会を営む。

 今までの集い同様に、宗教・宗派の有無に関わらず、どなたでもご参加になれます。
第1回目は
4月14日(土)午後1時30分より
ゲスト講師 武蔵野女子大学学長 田中教照
です。

最近思うこと
 最近思うことを一つお話ししたます。人は因から果という方向、つまり結果を期待して暮らしています。今は過去の果であり、未来の因となります。一般的に、今・現在の価値は、社会の常識や過去の経験によって決定されます。病気や苦しみは、不幸なことと烙印されるがごとくです。
 しかし因果の道理で言えば、因は果によって、その値打ちが決定されていきます。一つ例話を引いてみます。 
 伊勢に「乞食月遷」(ゲッセン)という画家がいた。なぜ乞食と呼ばれるのかと言えば、画は上手なのだが、すぐ「いくら出す」とお金をすぐに持ち出す。
 ある時芸者が画をたのみに来た。いつものように「いくら出す」という。「いくらでも金を出しますが、お金さえ出せば何でも描くのですか」と絵描きその態度をためした。「良いよ。お金さえくれれば何でも描くよ」と一笑。「一両出します。そんなら私のおこし(腰巻き)を描いておくれ」とからかった。「一両とは有り難い」と、あきれる芸者の赤いおこしを拡げたといいます。
 当時「大雅堂」という大画家が京都にいた。この画家が月遷の画を見た。「乞食」とさげすまされている人が、こんな美しい画をかけるか。こんな澄んだ色彩が出せるか。と不思議に思って、意を決して伊勢に月遷を訪ねた。
 「教えて頂きたい。あなたのことを皆は乞食と言うが、あなたの画には品格があります。線もきれいだし画も見事。何か考えておられることがあるのではないですか」と尋ねた。
 「はい、それではお教えいたしましょう。私は伊勢に参りまして、伊勢神宮へお参りいたしました。その時五十鈴川の橋を渡りましたが、その破損は何とも言えず、これはいかん。なんとしても橋をかけ直す。そう発願しました。お金はもう少しでございます」
 話を聞いた大雅堂も、感心して二人で鈴川に美しい橋がつくったという逸話です。
 一見、価値の劣った行為であっても、大きな理想、清浄なる願いに連動していると、劣った行為と思われることでも、より高い値打ちへと昇華します。月遷の乞食と言われた行為が、尊い行為であったようにです。
 因の値打ちを決定するのは結果なのだと思います。すばらしい結果が成就する。その因は、たとえ常識的に見劣りしていることでも、大切な意味を帯びてくるのです。
 病気や苦しみは、常識や経験からして、不幸なことかも知れません。しかし、この因果の考え方から言えば、因の値打ちを決定するのは、社会の常識ではなく果のなのです。たとえ不幸なことと思われることでも、そのことを通して成長が気づき、達成がなし遂げられた時、全く違った意味や値打ちを持ってきます。
 人間としての成長や達成が、病気や苦しみに意味を与えるのだと思います。病気や苦しみを社会的な評価だけでレッテルを貼らず、そのことを通して、よりハイレベルなものと出会っていくことが大切なのです。
 新しい集いでは、その出会いそのものを大切にしたいと考えております。
(13.2.10)