●ある書籍に「患者を尊重する」という文脈がありました。「患者を尊重する」とは、胡散臭い言葉です。なぜ胡散臭いかといえば「患者を尊重する」とは、どういうことなのかが示されていないので、いかようにも取れるからです。●「患者を尊重する」とはどういうことなのか。たとえばもし私が「こんなことを言えば傷つく」「終末期の彼に死の話題は避けるべきだ」などの配慮をしたとすると、これは相手を信頼していないこという事です。相手は弱い傷つきやすい人であるとその人を貶めてしまっています。欠落しているのは、落ち込んでしまった彼も大切な彼であるという信頼です。もちろん実際には配慮は必要です。●「患者を尊重する」とは、患者のすべての可能性ふくめて尊重することです。すべての可能性を含めて患者を尊重できるのであれば、ありのままの自分で偽ることなく接することができるはずです。小難しい話になり恐縮ですが、「患者を尊重する」ことの中で問われるのは私自身だということです。「患者を尊重する」ことと「私を尊重する」ことは同じことです。その2つのことを可能とさせるものが、すべてのことが許されて存在する。浄土真宗用語で言えば、弥陀の大悲の中にある自分(あなた)に開かれているということです。ビハーラとは、共に阿弥陀如来の大悲に出会っていく活動です。(N)
過般『自分らしくがんと向き合う』(ジミー・C・ホランド、シュエルダン・ルイス共著、ネコ・パブリッシング刊)を読みました。アメリカの精神医学者であり、がんの心の専門家です。530ページに及ぶ本ですが、その中に「心理療法」の章があり、カウンセリング、リラクスゼーション法、瞑想、イメージ療法、芸術療法などが紹介されていました。しかしこの本の一貫した考えは、結びに「病気という貴方の重荷を軽くすることができたら」とあるように、苦しみを軽くするという考え方です。この軽くするという考え方の背景にあるのは、苦しみは非生産的なことであり、故に撲滅すべきこと≠ニいう理解です。苦しみを軽くするという考え方は、苦しみのなかった状態に近づくということであり、苦しみを通して価値観や考え方が変わるという成長の概念はありません。ビハーラケアで大切にしていることは、苦しみを通して、それまでの思い通りになる世界の中で安心を得てきた自己中心、物質偏執の自分であったことに気付いていくことです。苦しみを軽くするのではなく、苦しみの体験を通して自分が変質していくことです。
「苦しみの体験には意味がある」そう思うようになってから、相手の苦しみを解決する具体的な手立てはなくとも、苦しみを聴く場に自分の身を置くことができるようになったように思います。*いろいろな精神療法でも、苦しみ→苦しみがなくなる≠ニいうAからBへの地点移動という考え方がほとんどです。一般の仏教でも、迷いから悟りへ≠ニいうAからBへの地点移動の考え方に立っています。しかし浄土真宗の考え方は、迷いから悟りへ≠ニいう地点移動ではなく、我は迷いの存在そのものなり≠ニいうことが明らかになることです。Aでしかありえないという凡夫であることの気づきです。この凡夫の気づきは、日常生活が平々凡々と営まれている場合には起こり得ません。そのことが起こる人生の場は、「思い通りにならない」という場であり、苦しみの場です。その最も大きなウエーブが生命の危機です。浄土真宗をバックボーンとする東京ビハーラが、がん患者とのかかわりを大切にしている核心がここにあります。*集いは誰方でも参加いただけます。苦しみに耳を傾けてみませんか。
1988年8月、第1回目の「がん患者・家族語らいの集い」が築地本願寺で開催された。以来、当時、国立がんセンター婦人科医長であった種村健二朗先生を中心に、今日まで集いは継続されてきました。集いはこれからも先生のアドバイスを頂きながら開催されますが、種村先生は8月より世話人の立場ではなく、ビハーラ会員としてご協力頂くことになりました。まずは今までのご指導に感謝申し上げます。よってこの編集後記の執筆担当も代替わりとなりました。
「がん患者・家族語らいの会」は、ビハーラ・ケアを実践する場です。ケア(care)とは「@ 注意、用心A心づかい、配慮B世話すること」と辞書にありますが、決して強者と弱者といった上下関係の中で、相手に不足する部分を補ったり、相手のニーズに応えるといったことではありません。精神科医のメイヤロフは「その人自身の成長を助けることがケアの本質」と語っていますが、人間の成長に関わるのがビハーラ・ケアの本質です。なぜケアが成長と結びつくのか。この頃よくキュア(cure=治療)からケア(care=看護)へなどという言葉を耳にしますが、「キュア」は病気や死を否定的に捕らえて治さなければならないとする考え方であるとしたら、ケアは病気や死を否定的に考えるのではなく、病気や死を抱えるありのままのその人を大切にすることであり、病気や死を否定しない考え方に立っています。このキュアからケアへの変更は、病気や死を否定的に見ることから、病気や死も必然であると肯定する考え方への変換であり、いのちを量から質(いのちの尊厳を見出せる心)を大切にすることへの転換でもあります。病気や死を抱える、ありのままのその人(私)が大切にされる。ここに成長のフイールドがあるのだと思います。いのちの質への転換は多くの場合、キュアの断念によって実現していきます。この断念に伴うのが苦しみです。ですから具体的なビハーラ・ケアの実践は、その人自身の苦しみに耳を傾けることになります。苦しみは新しい成長の疼きであり、成長の扉を開く意味ある営みだからです。