会報 がん患者・家族の語らいの会 編集後記06
06.12月号

湯河原への秋の旅行、20名弱のこじんまりとしたグループでしたが、その分、ゆったりとした旅でした。朝食のとき同席したKさんが、「嫌な人に対したとき、その人を観音さまだと思ってみる」と話してくれました。ある朝私も、布団の中で都合の悪い人を思い浮かべてやってみました。短い疑似体験でしたが、観音さまと思っただけで、自分のおごりや作為といったよからぬものが見えてきました。★映画館で光の筋の中に無数の粒子(ごみ)が見える現象をチンダル現象といいます。粒子に反射して光が姿をあらわし、その光によって粒子が浮かび上がってくる現象です。★相手を観音さまと思ったら、自分のおごりが見えてきたことはチンダル現象に似ていると思いました。★阿弥陀さまの浄土は「これより十万億仏土を過ぎた」(『阿弥陀経』)処にあると説かれています。その距離を計算した人がありますが、浄土は場所的概念ではないので距離を計ることは無意味です。★『梵網経』によるとビルシャナ仏の蓮華には千の葉があり、その一つ一つの葉に百億の国があって、百億の一つ一つの国に釈迦如来と同等の仏様がいて教化をしているとあります。千かける百億で十万億仏土です。これは釈迦如来の教化の行き届く世界なのだそうです。その釈迦如来の教化に漏れた人々の希望の光になる。それが「十万億仏土を過ぎる」との表現の内容です。★浄土は明日と似ています。「明日はどこにあるか」といって、タンスの後ろを探す人はいません。明日は場所の概念ではなく、まだ到来していない今のことです。浄土も同じことです。私の煩悩の闇がなくなったとき開かれていく今のことです。★親鸞聖人は弥陀の浄土を「無量光明土」と讃えておられます。浄土とは光の世界だというのです。無量ですから、如来のましまさないところはないと語られるのです。★その浄土の光が、観音さまやお経の言葉、都合の悪い人や都合の悪いこと等々の現象となって私の煩悩の闇に降り注いでいる。★そう考えると、己の愚かさを直視することが尊い営みのように思われてきます。★当会世話人(副会長)でありました景方さんが、諸般の理由で世話人を止めました。次期役員改選までの任期中、西原が副会長代行を務めます。




06.11月号

●ある書籍に「患者を尊重する」という文脈がありました。「患者を尊重する」とは、胡散臭い言葉です。なぜ胡散臭いかといえば「患者を尊重する」とは、どういうことなのかが示されていないので、いかようにも取れるからです。●「患者を尊重する」とはどういうことなのか。たとえばもし私が「こんなことを言えば傷つく」「終末期の彼に死の話題は避けるべきだ」などの配慮をしたとすると、これは相手を信頼していないこという事です。相手は弱い傷つきやすい人であるとその人を貶めてしまっています。欠落しているのは、落ち込んでしまった彼も大切な彼であるという信頼です。もちろん実際には配慮は必要です。●「患者を尊重する」とは、患者のすべての可能性ふくめて尊重することです。すべての可能性を含めて患者を尊重できるのであれば、ありのままの自分で偽ることなく接することができるはずです。小難しい話になり恐縮ですが、「患者を尊重する」ことの中で問われるのは私自身だということです。「患者を尊重する」ことと「私を尊重する」ことは同じことです。その2つのことを可能とさせるものが、すべてのことが許されて存在する。浄土真宗用語で言えば、弥陀の大悲の中にある自分(あなた)に開かれているということです。ビハーラとは、共に阿弥陀如来の大悲に出会っていく活動です。(N



06.10月号

「がん患者・家族語らいの会」開催時、世話人の共通認識の一つに「信ずる」ということがあります。「信ずる」とは「ありのままのその人」に対する信です。「ありのままのその人」に対する信とは分かりぬくと思いますので解説します。●信について、アイデンティテーという概念や言葉を生み出したH・エリクソンの考え方が参考になります。エリクソンは人間の心の成長を明らかにされた方です。身体の成長は首が据わり→おすわり→ハイハイ→歩く――と順を追って成長する。心の発達も同様に順を追って達成されていく。まず乳児期(02歳)には基本的信頼を学ぶ。その基本的信頼は親があるがままの乳児を肯定することによって育まれる。具体的には、いつでもどんな時でも否定することなく受け入れてあげる。大きな愛の中にあることへの安心です。この基本的な信頼があってはじめて、自分を信ずることができるのだそうです。そして自分を信ずるという基礎の上に、人は希望をもつことができると説いています。●ありのままの自分を受け入れてくれる人がいることへの安心は、死に際しても同じことなのだと思います。終わり往くいのちの中で自分を信じられるのは、ありのままの自分を受容してくれるものがあるという体験の上に成り立つということです。自分を信ずるとは、どのような自分になっても自分は自分であるという自分への信頼です。エリクソンの幼児期の体験と違うところは、すでに余分な経験や知性を身につけてしまっているので、自分の知性や力への断念が伴うということです。その断念の過程が苦しみなのだと思います。●この自分の力への断念の上に信が成立するという構図は、浄土真宗の教えの中にある「二種深信(にしゅじんしん)」――救われようのない自分が救われていくこと≠フ構図と同じです。●最初のテーマである「ありのままのその人」に対する信とは、ありのままのその人を受け入れてくれる世界(慈悲)を信ずるということなのだと思います。

06.9月号

過般『自分らしくがんと向き合う』(ジミー・C・ホランド、シュエルダン・ルイス共著、ネコ・パブリッシング刊)を読みました。アメリカの精神医学者であり、がんの心の専門家です。530ページに及ぶ本ですが、その中に「心理療法」の章があり、カウンセリング、リラクスゼーション法、瞑想、イメージ療法、芸術療法などが紹介されていました。しかしこの本の一貫した考えは、結びに「病気という貴方の重荷を軽くすることができたら」とあるように、苦しみを軽くするという考え方です。この軽くするという考え方の背景にあるのは、苦しみは非生産的なことであり、故に撲滅すべきこと≠ニいう理解です。苦しみを軽くするという考え方は、苦しみのなかった状態に近づくということであり、苦しみを通して価値観や考え方が変わるという成長の概念はありません。ビハーラケアで大切にしていることは、苦しみを通して、それまでの思い通りになる世界の中で安心を得てきた自己中心、物質偏執の自分であったことに気付いていくことです。苦しみを軽くするのではなく、苦しみの体験を通して自分が変質していくことです。
「苦しみの体験には意味がある」そう思うようになってから、相手の苦しみを解決する具体的な手立てはなくとも、苦しみを聴く場に自分の身を置くことができるようになったように思います。*いろいろな精神療法でも、苦しみ→苦しみがなくなる≠ニいうAからBへの地点移動という考え方がほとんどです。一般の仏教でも、迷いから悟りへ≠ニいうAからBへの地点移動の考え方に立っています。しかし浄土真宗の考え方は、迷いから悟りへ≠ニいう地点移動ではなく、我は迷いの存在そのものなり≠ニいうことが明らかになることです。Aでしかありえないという凡夫であることの気づきです。この凡夫の気づきは、日常生活が平々凡々と営まれている場合には起こり得ません。そのことが起こる人生の場は、「思い通りにならない」という場であり、苦しみの場です。その最も大きなウエーブが生命の危機です。浄土真宗をバックボーンとする東京ビハーラが、がん患者とのかかわりを大切にしている核心がここにあります。*集いは誰方でも参加いただけます。苦しみに耳を傾けてみませんか。




06.8月号

19888月、第1回目の「がん患者・家族語らいの集い」が築地本願寺で開催された。以来、当時、国立がんセンター婦人科医長であった種村健二朗先生を中心に、今日まで集いは継続されてきました。集いはこれからも先生のアドバイスを頂きながら開催されますが、種村先生は8月より世話人の立場ではなく、ビハーラ会員としてご協力頂くことになりました。まずは今までのご指導に感謝申し上げます。よってこの編集後記の執筆担当も代替わりとなりました。

「がん患者・家族語らいの会」は、ビハーラ・ケアを実践する場です。ケア(care)とは「@ 注意、用心A心づかい、配慮B世話すること」と辞書にありますが、決して強者と弱者といった上下関係の中で、相手に不足する部分を補ったり、相手のニーズに応えるといったことではありません。精神科医のメイヤロフは「その人自身の成長を助けることがケアの本質」と語っていますが、人間の成長に関わるのがビハーラ・ケアの本質です。なぜケアが成長と結びつくのか。この頃よくキュアcure=治療)からケアcare=看護)などという言葉を耳にしますが、「キュア」は病気や死を否定的に捕らえて治さなければならないとする考え方であるとしたら、ケアは病気や死を否定的に考えるのではなく、病気や死を抱えるありのままのその人を大切にすることであり、病気や死を否定しない考え方に立っています。このキュアからケアへの変更は、病気や死を否定的に見ることから、病気や死も必然であると肯定する考え方への変換であり、いのちを量から質(いのちの尊厳を見出せる心)を大切にすることへの転換でもあります。病気や死を抱える、ありのままのその人(私)が大切にされる。ここに成長のフイールドがあるのだと思います。いのちの質への転換は多くの場合、キュアの断念によって実現していきます。この断念に伴うのが苦しみです。ですから具体的なビハーラ・ケアの実践は、その人自身の苦しみに耳を傾けることになります。苦しみは新しい成長の疼きであり、成長の扉を開く意味ある営みだからです。