【枯れた木の葉は散らない。落葉は生きている証です】

 裏庭に赤に花をつけるさるすべりの木がある。昨年、台風の為か、気がついたときには太い枝が折れ、ぶら下がっていた。冬が来て、木の葉は落葉しても、折れぶら下がった枝の葉は、運命共同体のように、折れた枝と共に枯れていき落葉することがなかった。落葉は木が生きている証なのです。
「木はおしっこをする」と、生物の先生から聞いたことがあります。おしっことは排泄物を身の外に出すことです。落葉樹でない木も、排泄物を葉にため、その葉を落葉させることによって排泄するのだそうです。落葉は、木が生きているいのちの営みなのです。
 私たちも無常の命を生きています。無常という自然の道理からいえば、死は必然であり、生こそが偶然の営みのようです。死ぬときが来たら、すべてを阿弥陀さまにゆだねて、握りしめている手をパッと開いて、落葉する葉のように終わって往けたらいいですね。どのような落ち方をしても、そこは阿弥陀さまのみ手の上なのですから。

【闇があればこそ星の輝きが見える】

 過日、ある少年院の生徒の思いを綴った作品集「母へ父へ」を頂きました。最初の項の初頭にMさんの言葉があります。
「母さん、お元気でしょうか。あんなに嫌いだった煮物が食べたいです。帰ったら作ってください」。
 普段のあいも変わらない食卓の煮物、その煮物には、母の愛情がいっぱい詰まっていたことに初めて気づきます。施設での生活はMさんとって母の暖かさを知る大切な環境のようです。
 Tくんは、父への思いを綴っています。
「どんな思いで審判の席に座っていたのか。どんな思いで、「少年院で頑張ってこい」と言ったのか。本当にごめんなさい」。
 願われている自分に気づくと言うことがあります。父や母のまなざしの中にある私の存在への気づきです。
 人は、思い通りにならない状況の中でこそ、尊い存在に気づいていくようです。 


【苦しみは、成長の扉を開く意味ある営みである】

 人は、強く明るくいきいきと生活できる環境の中で、自分の知識や経験に信をおき、自信満々な歩みを闊歩します。
 逆に自分の知識経験ではどうにもならない状況の中で、自分の小ささを知り、より大きないのちの営みの世界に開かれていきます。 Iさんはがん疾患を患っていました。肺がんで命の終わりを知らされ、限られて命を生きる生活でした。ある日、私は「今の心境はいかがですか」と尋ねたことがあります。Iさんは「毎日がジャンボ宝くじに当たったような気持ち」のいわれます。その意味を聞くと、ジャンボ宝くじに当たると、この世で欲しい物が手に入る金額が手に入ること。朝、目が覚め一日を迎えた喜びは、今最も欲しいと思っている1日が手の中にある。その喜びをジャンボ宝にたとえたのでした。
 命の終わりが視野に入ったとき見えてくる命の輝きです。人は苦しみを通して、より大きな世界に開かれていきます。

【私の都合通りになる。これは私の知恵。
私の都合から開放される。これは仏の智慧】



 チンダル現象という現象があります。煙霧質などに光を当てたとき、その微小な粒子によって光が散乱され、光の通路が一様に光って見える現象です。映画館で、映写機の光の筋が見え、障子の隙間から差し込む朝日の中に、無数の塵の粒子が見える現象です。
 光が塵などの粒子に当たって、光の姿を現し、塵の粒子も光によって、塵の姿を現します。この関係は、凡夫と仏の関係に似ています。凡夫は仏の真実に触れ、自身が凡夫であることが明らかになります。仏は、凡夫によって、仏の願いを発動して、教えとなり、念仏となって、仏の姿を凡夫の上に現します。
 思い通りになる。これが幸せだと思っていたのが、仏の教えを聞き、思い通りにならなければ承知しないという自分の愚かさが明らかになる。ここに仏の智慧に照らされた世界があります。
 仏さまが明らかになるとは、私の本当の姿が明らかになることなのです。


《死は必然、生は偶然》

 ラジオの文化講演会で漬物の話をしていた。ぬかみそ漬は、ぬかどこのビタミンBが、野菜には豊富に入ってくるので、ビタミンが多い。よくかき混ぜると、乳酸菌がより発酵して多くなる。この乳酸菌は癌の予防にもなるし成長作用もある等々。
 さて漬物といえばたくわん漬けです。たくあんは、沢庵和尚が発明したことは存知のこと。なぜ、沢庵和尚の手柄になったかと云うと、沢庵和尚が出るまでは、糠(ぬか)は漬物に使えなかった。江戸時代以前は、ご飯は玄米を食べていたので、糠は、女性のおしろいとして用いていた。それが江戸時代となり、世の中が平和になり、中国から殻臼(カラウス)が入り普及して、白米を食べるようになる。白米を食べるので糠が豊富になった三代将軍の頃、沢庵和尚が糠に大根を漬けて、それが普及したとのこと。かくて、沢庵和尚は、沢庵漬けの創始者の如く、仏教以外の漬物の世界で有名となるに至ったとのことです。
 国民が白米を食べ糠が豊富になる。その国には漬物の歴史があり、自ずから、糠に大根を漬け、大根漬けが生まれる。これは歴史の必然のように思われる。ところが、丁度その頃、生まれ合わせ、漬物に興味がった男が、糠に大根を入れてみたら、うまい漬物が出来た。これは偶然です。
 この世の中は、必然と偶然の織りなす絵巻物のようです。ところが私という意識の中では、歴史の必然は、意識になく、偶然の出来事を、すべてが自分の手柄の如く評価する傾向があります。必然をお蔭様と喜び、偶然を有り難しと受け入れる。これが幸福の秘訣でしょう。そのためには、自分を課題評価しないことです。


《伽羅の木は、自身を燃やして香りを残す》

栂尾の明恵上人は、親鸞聖人と同じ年(1173年)のお生まれです。その明恵上人の逸話です。
 ある時、弟子がなずなを摘んでみそ汁をつくり上人にさしあげた。上人はそのみそ汁を口に含んだのち箸を置き、左右を見られる。そして戸口のふちに残っていたホコリをつまんで、みそ汁に入れた。「どうして…?」という問いに、上人は恥ずかしそうにつぶやくように答えられた。「あまりおいしいので…」。またある時、上人が松茸が大好物だと噂が立ち、檀家の人が苦労して松茸をご馳走した。それを知った上人は、恥じ入って以後絶対に松茸を口にしなかったといいます。
 美味しいと思う心に恥ずかしさを感じたのは、「美味しい」と思う心と「不味い」と思う心とが同根であることを知っておられたのでしょう。
 自分の愚かさを知る智慧が、香りのように漂っています。智慧の香りは、仏の功徳でもあります。


《永遠の命を生きるとは、二度とない今を生きることです》

父が食道がんを患った時のことです。当初、気になったのは、「何ヶ月の生命か」です。しかし同時に、かけがえのない生命を何ヶ月という数量ではかる。それは大変に不遜なことだという思をもちました。
 生命を一ヶ月二ヶ月という数量にしたとたん、一ヶ月より二ヶ月、二ヶ月より三ヶ月の生命の方が価値ありという生命が物に転落してしまうからです。
私たちは一日より二日、二日より三日と生命を量ではかり、その数量の多さに幸せを感じていきます。しかし実際は、三日より二日、二日より一日と、短くなればなるほど、一日の重みが増していきます。そして、その極みが「今のひと時」です。ここに立つとき、「今という時は二度と巡ってこない」という永遠に巡り会えないという質をもった生命であることに気づかされます。


《星空に宇宙に浮かぶ、わが星おもう》
 
以前「地 球 カ レ ン ダ ー」が話題となったことがあります。
46億年前、地球の誕生を1月1日午前零時とすると、約35億年前の生命の誕生(海の中)が、3月末〜4月上旬、約3億年前の生物が上陸が11月末、人類の出現は、なんと12月31日午後3時38分頃で、人類の歴史は、わずか8時間余りにすぎない。その中で高度な文明社会を持ったのは、午後11時59分59秒99だと聞きます。
 長い時間をかけて、この地球という星に人類の文化が開花し、私の命が生み出された。 これを「涅槃経」「法華経」「雑阿含経」に「盲亀の浮木」の譬えとして示されています。盲目の亀が大海の中にすんでいた。百年に一度だけ水面に浮かび上がり、水面にただよっている一本の木の穴に入ろうとするという寓話です。人間に生まれ仏教に出会うことの難しさと有り難さが思われます。


《結果を生きがいとせず、今を生きる》

マハーパリニッバーナ経に、釈尊最後の言葉が説かれています。
 釈尊の最晩年に、ラージャグリハ(王舎城)から入滅の地クシナガラまでの最後の旅を始めます。
 その旅の途中で釈尊は重い病にかかり、死を予感します。しかし、釈尊の侍者アーナンダをはじめとする弟子や信者たちにとって、釈尊が入滅するということはまったく予想しなかった事態でした。
 弟子たちの動揺を静めた後、釈尊は最後の言葉として弟子たち全員に「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」と言い残したとあります。
 私はこの「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ」と言う言葉を、「結果を生きがいとせず、今を生きる」と頂いています。
 結果は評価で示され、評価は比較の価値観です。かけがえのなさや二度とない命といった思いは今という中にしか出会えません。


《偉い人より尊い人になれ》

 わが子が小学校一年生の時、「お父さん、ラクガキチョウ(落書き帳)って偉いの」と聞いてきたことがあります。「何で」と尋ねると、「先生が、長が付くと偉いんだって言ってたよ」とのこと。校長、会長の長を言ってるようです。それから偉い人ってどんな人という話となりました。
 偉い人には、人が頭を下げます。その偉さが社会的な地位であったり、学問であったり、色々です。では尊い人は。どうも尊い人は、人が頭を下げる人というよりも、自分の頭が下がる人ではないでしょうか。
 どんな地位が低く、学問もなくても、万物に頭を下げるとこを知り、今に合掌礼拝できる人は、尊い人だと思います。
 阿弥陀さまは、凡夫の私を尊い存在と摂取して下さいます。お経にはこれ以上尊い方はないと、無上尊と讃えらています。


《死は必然、生は偶然》

 ある人が師に尋ねた。「もし事半ばで死んでしまったら」。師は「それは考え違いである。もし死んだらではなく、もし生きて居たらと考えなさい」と答えた。
 何かの本で読んだ話です。私たちは、生きていることはあたりまえであり、死はあってはならないという思いから、不幸な出来事であると遠ざけます。
 しかし事実としては、死は百パーセントの確立で誰しもに平等に訪れるが、一年後に生きている補償はありません。その意味でも、死は必然であり、生こそ偶然の賜だといえます。
 私は以前、何かをすべき以上は、結果に責任の以て事に当たるべしと考えていました。今でも、日々の出来事はそうあるべきだと思います。しかし、大きな願いや理想に向かって生きるときは、結果は、阿弥陀さまに任せて、力の限り尽くすことが大切です。生は偶々の出来事なのですから。悔いることのないように。

「続・真宗オリジナル伝道句集」四季社刊原稿