「伝道」2010 NO73 (浄土真宗本願寺派)

苦悩の除く法 布教使 西原祐治

 

苦しみに対応した布教

 

私は首都圏開教を志して24年になる。首都圏においても布教の課題は、浄土真宗以外の人への伝道です。しかしこれは首都圏だけの問題ではない。門信徒以外の方々へどう浄土真宗を伝えていくか、これは宗門の将来へ向けての死活問題でもある。そのためにはまったく新しい伝道モデルの構築が待たれます。その伝道モデルとは苦しみに対応した布教になるはずです。

 ここではその導入として苦しみと悲しみを機縁として、門信徒でない方々への布教について考えてみたい。ここでいう布教とは講談形式の法話やカウンセリング、座談会等による布教を想定している。法話といった場合は、従来の講演形式の法談をいう。

布教は時代と場所と対象によって、いろいろと展開される。思い通りにならない根源的な苦しみは時代によって変わるものではないが、時代背景やその時の価値観によって、何を苦しみとするかは異なる。布教もその時代の苦しみに対応した展開がなされなければならない。

新潮45213月号に「はじまった「地獄」をどう生きるか 五木寛之」と題する記事がありました。
 (以下記事からの転載)

 一九四五年の終戦から、「所得倍増」「日本列島改造論」と戦後の「噪の時代」が五十年近く続き、ハブル崩壊後に十年あまりの空白状態が訪れました。ちょうど遊園地のジェットコースターが頂点で一瞬止まったようにみえて下降しはじめる時に似ています。その状態が十年ほどたったところで二〇〇一年の「9・
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同時多発テロ」が勃発した。以来、世界は大きなデプレッション=鬱の時代に突入しました。「噪の時代」が五十年近くも続いたわけですから、「鬱の時代」がそう簡単に終わるわけはありません。(以上)

 そして鬱の時代の生き方を提言された記事でした。私も同様な思いを持っていた。それは時代による苦しみの違いです。戦後の高度成長期、行け行けどんどんの時代における苦しみは、病・貧・争に代表されるように、健康、豊かさ、平和など失うことであった。そうした中での布教内容は、失っても救われる世界があることで、死んで(失って)往ける世界があることの提示でよかった。それは希望に向かって時代が動いているので、死は希望の断念であり、失う方向に苦しみのベクトルがあった。だから失っても救われる世界があるという布教になるのです。
 ところが経済の成長が閉塞し、自殺者も増加の一途をたどっていく時代になると、浄土の生まれるという死の肯定は宗教的なニーズに合わなくなった。苦しみが失うことではなく、居場所のない悲しさや拒絶感や孤独感、生きている無意味さや不愉快といった生きることそのものが苦しみの対象になる。すなわち失うことではなく「ある」ことが苦しみとなる。
 こうした現代の世相での布教は、安心して死んで往ける世界ではなく、安心して生きて行ける世界があることを説くことに布教の重点がなければならない。失ってもいいから、あってもいいという布教になる。五木氏の言葉を借りれば「鬱の時代」の布教の切り口は、生きることの意味を提示することです。これが、現代の一般大衆に向けての布教の切り口だと思う。

もう少し大ざっぱに苦しみ悲しみの渦中にある人への布教を考えてみたい。

まず苦しみへ対応する布教を考える場合、苦しみをどう理解するかが重要です。苦しみを否定するのではなく、苦しみを通して、その苦しみの根底にある自我の闇があきらかになっていく布教のあり方です。

たとえば死によって起こる苦しみを考えてみましょう。私たちの命のありようは、平生であっても、そこで終われば死であり、常に臨終を生きている。また終末期において体験される死ぬことに起因するさまざまな苦しいは、すべての人が抱えている問題でもある。そのことに無自覚に生きているとことに凡夫の営みがあり、その凡夫であることを自覚していないところにさまざまな苦しみがあります。だから死を取り巻く苦しみは、凡夫であることの苦しみであり、真摯に生きようとすることから来る痛みであり、それは宗教的要求であり浄土真宗的に言えば、如来の催促だとも言えます。苦しみが回心のターニングポイントとなるという苦しみの理解です。

 

死別の悲しみ

 次に死別の悲しみについてです。グリーフワーク。死別の悲しみからどう自分自身を取り戻していくか。「悲嘆の作業」とも訳されます。私はこの言葉を「深い悲しみ、悲嘆の中から新しい秩序を見出す行為」と翻訳している。死別の悲しみの中から、悲しみの事実を忘れたり悲しみを否定して、その悲しみから回復していくことではなく、悲しみの経験を通して、悲しみの持つ意味や、新しい秩序、信心に開かれることによって、日常性を回復していくことです。

 悲しみの渦中にある人に対しては、その悲しみを否定する行為、たとえば仏教こそ老病死の苦悩が解決される教えだからといって、仏教の教えに立って安易に慰めたり、考え方を強要したりすることは禁物です。その悲嘆の苦しみと共に「ある」「いる」ことが大切です。では何もしてはいけないのかと言えば、それもまた消極的過ぎます。故人の思い出や、ご遺族の悲しみに耳を傾け、積極的に傾聴することも重要です。もしご遺族が、浄土真宗の門徒であれば、今まで聞かせて頂いたみ教えを共に味わうこともよいでしょう。

 その基本的な考え方は、何かしてあげることへの関心から、何もしてあげられないことをも許容できる関わりが求められます。「何もしてあげられない」という場に身を置くことは、次の重要な積極的な意味があります。

 一つは、苦しみは悲しみは新しい扉を開く意味ある営みであるとする理解です。

私たちはこれまで、布教の現場の中で、安易に苦悩を否定してきた感があります。人には苦しみの中にあっても、その存在を肯定していける資質があります。その資質を私たちは信心の智慧として伝承してきました。その資質が、死別の悲しみや苦悩に意味をあたえてくれます。

「何もしてあげられない」ということは、共に苦しみの中に身をおくことであり、当事者が苦しみと混乱の中で新しい秩序を見出していく意味ある営みでもあります。

二つ目には、人は、あなたはあなたのままで大切であるという評価されないこころの中に、無力な自分が肯定され、無力なままに身をゆだね、自己の執着から解放され、心を開いて生きることが可能となります。「何もしてあげられない」ということは、相手をあるべき方向にコントロールすることの放棄であり、大切な意味を持っています。

 この2つのことは、法話を考える上でも通ずることです。阿弥陀如来は、私の罪悪性を否定せず、私に理想的な生き方を求めず、ありのままの私を摂取して下さる。その願いと働きと重なります。

 

苦しみ悲しみの渦中の人への法話

人は苦しみや悲しみの中で仏力によって、苦しみや悲しみの底に流れている一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし」という人としての真実に触れていくのです。その「清浄の心なし」の体験こそが、苦悩の衆生海にあって巧みに凡夫の私に呼びかけ続けている阿弥陀如来の働きの賜物でもあります。浄土真宗の布教は、その真実の阿弥陀如来の告げることに極まります。

 阿弥陀仏の本願は、ぬぐうことのできない人の悲しみ、また避けることのできない苦しみに喘ぐ人々を見捨てることができずに起こされたのですから、浄土真宗の教えの中に、その悲しみ苦しみを越える道があります。 法話の内容としては、話す人の経験の深さや故人や遺族との関係の相違によって色々です。いくつか大切な視点を列記します。悲しみを苦しみと置き換えても同しことです。

1.悲しみが悲しみだけで終わるほど虚しいことはないことが伝わる法話。

2.悲しみの中でしか出会っていけない世界があることを告げる法話。

3.悲しみが悲しみのままで終わらない世界があることが伝わる法話。

4.阿弥陀仏の慈悲は、この私の苦しみ悲しみを否定するものではなく、この苦しみ悲しみによって起こったこと伝わる法話。

5.私がみ教えを聞き、み教えに出遇うことこそ、故人への最高の追悼であることが伝わる法話。

6.死は自然なことであり、人生は一期一会であることを、故人の死から学ぶべきであることが伝わる法話。

7.勤めをするお経の言葉を通しての浄土真宗の教えを伝える法話。

8.故人が残してくれた一番大切なものが仏縁でありみ教えであることが伝わる法話。

などが考えられます。一緒にその教えに頭を垂れ聞かせて頂くという心構えが大切です。