雑誌掲載原稿・大法輪04.11月号

仏教イコールビハーラ

 

プロローグ

2012521日、浄土真宗本願寺派首都圏宗務総合センターに、浄土真宗ビハーラ伝道研究所ビハーラが開設された。このビハーラ研究所は、2007年に同宗派によって東京都下に設立されたビハーラ病棟において実践されてきた、“苦しみは、新しい成長の扉を開らく”という苦しみの中にこそ、より大きな成長の糧があるという視点から取り組まれてきたビハーラ活動をより発展的に推進していくために設立された研究所である。

 近年、浄土真宗の布教伝道のあり方が、ともすると人びとの苦しみを概念化し、現実の人々の苦悩に即した場での活動とかけ離れた傾向であると懸念されていた。しかし、この研究所の目指すところは、現実の苦しみに直面している人と共に、苦しみは新しい扉を開く意味ある営みという伝道のあり方でへの展開であり、宗門門信徒中心の教化活動から、ひろく大衆に向けて、仏教の「苦悩の解決」という原点に立った活動として注目されている。

 ビハーラ研究所長は、その抱負を次のように語ってくれた。「仏教界は、江戸時代初期に成立した檀家制度に支えられてきました。逆にこの檀家制度への安住は、人びとの苦しみに即した伝道から儀礼中心、限られた一部のメンバーに対する教化、また専門用語や上から下へといった教化者意識が許される土壌を培ってきたとも言えます。 その反省と、門徒制度の行き詰まりから2007年に開設された宗門立のビハーラ施設での活動は、老病死に起因する苦悩は、不要なもの、否定されるのもではなく、その人が新しい扉を開く重要な意味のある営みなのだという視点から、苦しみに寄り添い、その苦しみの中から、ありのままの自分を受け入れる心、資質、智慧と言った人類普遍的な真理に覚醒していく伝道のあり方が確立されてきました。このビハーラ伝道を通して、念仏のみ教えを、全宗門規模で、全世界の人に、人類最高の教養として発信していくことが、この研究所の役割です」。

 過日、ビハーラ研究所訪問の折りに、研修生より感想を語ってもらった。

A氏「死の自覚は、その人を達成へと向かわせる。死は人を覚醒させる最も大きな要因であることを学んだ」

O氏「苦悩は教えによって除かれるものだと思っていたが、ここでの研修を通して、苦しみがあってこそ、新しい扉は開かれることを実感した」

K氏「がん疾患が終末期に至って、生きる意味を見いだし、尊厳を持って生きている姿に、常に人と比べあいの中に生きている自分の薄っぺらな生活が思われた」

S氏「死について、書物で読んだことがあったが、短い時間でしたが実際の知り合った人の死を通して、死は喪失の体験が伴ってこそ実感できるものであることを体験した」等々。

 このビハーラ活動を通して、寺院が本来の機能を発信する場所として生まれ変わりつつあるようです。(仮想新聞記事)

 

ビハーラとは、僧院・安住を意味するインドの古語です。1985年、田宮仁氏によって西洋のホスピスに代わる言葉として提唱され、より広がりをもった仏教活動として現代に至っています。ここではビハーラの原点である、ビハーラの理念を考えてみます。

 

死ンでゆくことを大切にする

 終末期にある人へのケアと、延命を望める老人や患者へのケアとの一番の違いは、「何かしてあげることがあるか、ないか=vということです。

通常、患者へのケアは、医師は医師の立場で何かを提供します。同様に看護師は看護師の立場で、ボランテイアはボランテイアの立場で何かを提供します。しかしいずれしても、命の終わりに臨んで何もしてあげられないステージを迎えます。この何もしてあげられない状況下では、「何かをしてあげられる」余地は全くなく、そのまま見護るしかありません。もしこの「何もしてあげられない」場を共にすべき人があるとすれば、それは「何もしてあげられない」人をも大切にし、敬っていける人です。ここに、いのちの尊厳を計量的数量で価値付けない仏教者本来の面目があります。

ビハーラとは、死という現代において最も、無価値・無意味・無生産な出来事と思われている現実の事柄を通して、最も意味のあることに触れていこうとする信仰運動だと私は考えています。死の自覚は、〜できる(量)・比べ合い(客観的)・欲望の満足(治癒)という有限性への希望から、〜できなくても可(質)・如来と等し(主観的)・現実(死)の受容という自己が無限性へと開放されていく最も大きな要因となります。その無限性への開放に関心を持ち、そのための具体的な行動がビハーラです。ビハーラは、弱いかわいそうな人に何かをしてあげる活動ではなくて、私が、あなたが、社会が、終末期にある人との関りを通して、質の高い希望の重要さに心を寄せ、苦しみと混乱の中から、質の高い成長に開かれていく活動なのです。

 

ビハーラの核心

 近代ホスピスは、1967年、英国のロンドン郊外にシシリー・ホンダースによって創設されたがん末期患者への新しいケアをめざした聖クリストフアーズ・ホスピスの開設に始まります。
 ホスピス・ケアとは何か。まずケアの内容について、ミルトン・メイヤロフは「ケアの本質」(1971年出版・1987年みゆる出版)の中で次のように示しています。
「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」。
 ケアの本質は、看護人の自己満足であったり、必要に応じた労力の提供や不足している部分の補いではないのです。
 また先のシシリー・ソンダースは、ホスピスの使命を、19975月、来日の講演で次のように語っています。
「物質的の世界に向けて、ホスピスが伝える最終メッセージは、人間の精神の逆境におけるしなやかさと言うことです。何度も、何度も、私たちは、人間の内からも外からも品格が現れてくるのを見たよう思います。人間の本質について、真の成熟や究極の現実について、私たちは伝えることがあるのです」。
 ケアの本質は、その人の自己実現という成長であり、歓迎されることのない状況にあっても、人は喜びを感じ、今を受容できるというしなやかな心の達成なのです。
 欧米におけるホスピス・ケアの歴史は、終末期のがん患者のケアを通して、臨終期にあっても輝きを失うことのない存在に対する感性や品格がある。そうした人間の可能性を明らかにしてきた歴史なのです。
 いのちの尊さを「〜できる」「〜できた」という数量の上に見ない仏教本来の教えと、「精神の逆境におけるしなやかさ」を大切にするホスピスの方向性は重なります。この方向性こそ、ビハーラの方向性でもあります。
 ビハーラ(注1)やホスピスを、『臨終期にあっても輝きを失うことのない存在に対する感性や品格がある』ことを大切にする活動と定義した場合、現代の日本で実践されている現状は、理想とはほど遠い言わなければなりません。終末期は宝の山を掘り当てる実りある場ではなく、かわいそうな意味のない生を生きる現場という理解です。その一つの査証としてセデーションの問題があります。

セデーション sedation とは、「鎮静。また,鎮静剤を投与すること。特に,モルヒネなどでは症状を緩和できない末期癌(がん)患者の苦痛を取り除くため,鎮静剤を投与し,患者の意識レベルを意図的に低下させて眠らせること」(注2)です。

 セデーションの背景には、終末期のいのちを、無意味で非人間的な生と理解し、セデーションによって、人間としての尊厳ある死を迎えさせるということです。

ここに欠落している価値観は、

1.苦痛も人間の尊厳の 1 つという考え方。

2.苦痛や苦悩が人に心の成長をもたらす可能性。

ということです。それは同時に人間の知性を第一とする考え方です。このセデーションの選択は、ビハーラやホスピスが成し遂げようとしていることと対極にあります。あらゆる緩和病棟でセデーションが普通にされている現状は、ここにはビハーラやホスピスの理念は存在しないといっても言い過ぎではありません。

 

ビハーラの現場

ではビハーラの本来あるべき姿、その実践活動をお伝えしたいのですが、残念ながら現在、私が所属する東京ビハーラ(事務局・築地本願寺内)では、終末期の人をケアする施設を持っていません。主として実践されているのは「がん患者・家族語らいの会」です。この会のささやかな活動から、ビハーラが大切にしているものをご紹介します。

 この会は、1988年から継続していますので今年で16年目です。毎月一回(第2土曜日、1時半より4時半)、築地本願寺において開催されています。ゲスト講師(医師・僧侶・患者他)の講話後、10人程度のグループに分かれて、参加者の患者や家族の苦しみに耳を傾けます。死の自覚は、その人を成長(回心・達成)へと向かわせる最も大きな機縁となります。そのためには苦悩に耳を傾け、苦悩を共にする人や場所が不可欠です。苦悩は、新しい自分へと生まれわる意味のある営みだからです。

この会で大切にしたいことは、【本当のことを語る】【評価しない】【信頼する】ことです。

病気の現実や不安恐れなど、本当のことを話すことによって、本当のかかわりができます。本当のことの中で一番の大きなことは「この病気で死んでいく」ことです。生の断念は、その方の生き方に方向転換をもたらします。死の自覚、すなわち延命への断念と共に、思い通りになったことの中に安らぐという自我へのとらわれも断念することになります。

次に「評価しない」とは、「あなたはあなたのままでた大切です」ということです。評価されない場の中でこそ、無力な自分を肯定することが可能となります。苦しみや混乱の中から新しい秩序を見出すためには、評価しない傾聴と、質の高い希望への信頼の場が不可欠です。

そして、苦しみや混乱の中から見出されていく質の高い希望は、個人的な経験にとどまらず、すべての人にとって意味のある内容を持っています。だからこそ、そこに関わるボランテイアや世話人は、その関りの中から多大なものを得ていくのです。死んでいく人を大切にできる。それはその死に関りを持ったとが得る恵みでもあるのです。

以前、あるがん患者(女性)が、肺がんを病み「癌を患って得たものと失ったもの」を語ってくれたことがあります。

病気になって失ったものは「右の肺1つ」。病気になって得たものは、人とのより深い繋がり。個人個人の多様性を受け入れられるようになったこと。見返りを求める行為ではなく、違う見方が出来るようになったこと。自分が死ぬことを認識した。なにげない自然や、花などをいとおしく、価値あるものと思えるようになった。時間は今しかないと感じられる。とのことでした。

病気になって得たものは、普通の人でも、生きる上で大変重要な気づきであり、人生を豊かにする事柄です。私たちは苦しみの中で、その苦しみや悩みを通して、今まで気づかなかったことに気づき、より深い、より豊かなものと出会っていくということがあります。その苦しみを通して、より豊かなものと出会えたとき、その苦しみが意味を持っていきます。

死は今まで築きあげたものが支えとならず、空しく終わっていく時です。その空しく終わっていく命の中で、空しく終わっていく命を支え、潤し、意味付け、安らぎを与えてくれる質の高い希望に出会っていける最良なときでもあるのです。

 

1 現在、緩和ケア病棟を併設する仏教系ビハーラ病院としては、長岡市に長岡西病院がある。

2 三省堂「デイリー 新語辞典」