今なぜビハーラなのか ービハーラのめざすものー
          西原祐治(浄土真宗東京ビハーラ機関誌「ビハーラ23号掲載12.11.1)

いのちの尊厳
 昨年、阿弥陀如来のお姿について理解を深めました。それは医療者を交えた会合で、「いのちの尊厳」が話題になったときのことです。
 終末期における人間の尊厳をどう考えるか。その会に出席された医療者は、人間の尊厳を「ひとりでトイレに行ける」とか「最後まで何々」とか「〜できる」という、形の上に見ているようでした。それは治療を使命とする医療者としては当然かも知れません。
 私はその医療者の言葉を聞きながら親鸞聖人の阿弥陀仏の理解を思い出しました。それは「顕浄土真実教行証文類」の「化身土巻」にあるお言葉です。
 謹んで化身土を顕さば、「仏」は「無量寿経仏経」の説のごとし真身観の仏これなり
*化身土ー真実の仏土に導くための手だてとして、人のそれぞれの心に応じて変化して現れた化の仏身と仏土
真身観ー「観経」に説く十六観法の第九観・「仏身の高さ六十万億那由他恒沙由旬なり」とあり
とあります。化身土の仏とは真実でない仏さまのことです。また真身観の仏とは、阿弥陀如来を数量で示した仏さまのことです。数量で示された仏さまは真実の仏ではないと示されているのです。
 阿弥陀如来のアミダとは「無量寿」と訳します。「無量」とは「はかれない」ということで量の世界を超えたものです。すべての存在やいのちあるものを「かけがえのない」存在であると受け入れて下さる仏さまです。この阿弥陀仏を本尊として仰ぐとは、いのちの尊さを「〜できる」「〜できた」という数量の上に見ないということでもあります。
 病気が治った。儲かった。成功したなど、日常生活では結果を重視します。結果は多く、数量で示されます。数量で示した途端、かけがえのなさや、唯一という尊厳が失われ、相対的な価値に埋没してしまいます。結果以上に、課程の中に、生きているかけがえのなさや、生の実感があります。苦しみ、悲しみ、楽しみ、喜び、そのすべてがかけがえのない、私の人生であり、その今に頷きが与えられる。ここに浄土真宗の教えの真価があります。

希望と感謝
 さて、生き方には2つの道があると仏教では教えています。それを「自力と他力」とも言います。他力と言っても、人を当てにするということではありません。自力は、自分の努力や能力で可能性を開発していく道です。可能性の内容は、無量寿の世界への覚醒です。他力は、阿弥陀如来の本願力のことであり、阿弥陀如来の働きや力にゆだねていく道です。具体的には、阿弥陀如来の救いを受け入れていきます。阿弥陀如来の救いを受け入れるとは、私の本質が、覚醒の可能性のない救われなければならない存在であり、その私故に阿弥陀如来の慈しみであると、阿弥陀如来の慈しみの中にある私であると信知することです。 この二つの道は、私たちの日常生活の上においても当てはまります。一つは、理想を希望とし明日に向かって歩むという希望を拠り所とした生き方であり、片や、未来にではなく恵まれし今に心が開かれるという感謝の生活です。しかしながら、希望を拠り所として生きる生活は、私の人生のすべてを肯定できる生き方にはなり得ません。希望は現在への不足を内容量としているからです。この世における希望は、希望実現への許された時間があってこそ成立します。希望を持って生きる。明るい肯定的な生き方であるようですが、希望を実現する時間が許されない臨終期の命の支えとはならないのです。

キュア(治療)とケア(看護)
 この希望と感謝は、医療の分野においても同様です。キュア(治療)は、未来に向かってあるべき姿を求めるという希望を内容とする方策です。それに反し、ケア(看護)は、未来のではなく今への満足に関心を持って施されます。ただ残念ながら現代日本においては、ケアが治療の補助的役割となっています。本来、ケアは、治療のための補足的なものではなく、独立したものです。そのケアの本質が明らかになってきた歴史が、ホスピス・ケアの歴史でもありました。
 近代ホスピスは、1967年、英国のロンドン郊外にシシリー・ホンダースによって創設されたがん末期患者への新しいケアをめざした聖クリストフアーズ・ホスピスの開設に始まります。
 ホスピス・ケアとは何か。まずケアの内容について、ミルトン・メイヤロフは「ケアの本質」(1971年出版・1987年みゆる出版)の中で次のように示しています。
「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」。
 ケアの本質は、看護人の自己満足であったり、必要に応じた労力の提供や不足している部分の補いではないのです。
 また先のシシリー・ソンダースは、ホスピスの使命を、1997年5月、来日の講演で次のように語っています。
「物質的の世界に向けて、ホスピスが伝える最終メッセージは、人間の精神の逆境におけるしなやかさと言うことです。何度も、何度も、私たちは、人間の内からも外からも品格が現れてくるのを見たよう思います。人間の本質について、真の成熟や究極の現実について、私たちは伝えることがあるのです」。
 ケアの本質は、その人の自己実現という成長であり、歓迎されることのない状況にあっても、人は喜びを感じ、今を受容できるというしなやかな心の達成なのです。ホスピスは、治る治らないといった、物質的な可能性を目標とする場ではなく、人はどんな逆境に至っても、その時を受容し、熟成の喜びに至ることができる。そうした人間の可能性を伝える場がホスピスだというのです。
 欧米におけるホスピス・ケアの歴史は、終末期のがん患者のケアを通して、臨終期にあっても輝きを失うことのない存在に対する感性や品格がある。そうした人間の可能性が明らかになってきた歴史なのです。

ビハーラとは
『いのちの尊さを「〜できる」「〜できた」という数量の上に見ない』という浄土真宗の教えと、『臨終期にあっても輝きを失うことのない存在に対する感性や品格がある』ことを大切にするホスピス・ケアの方向性は重なります。この方向性こそ、ビハーラの方向性でもあります。
 「如来の大悲 短命の根機を本としたまえり」(覚如上人・口伝抄)(意訳・阿弥陀如来の隔てのない大いなる慈しみは、今まさに命終わらんとする人が救われることを本意としたものです)。これは阿弥陀如来の救いの相手を示した言葉です。阿弥陀如来の救いの対象は、仏になる可能性の絶たれた、具体的には命の終わりにある努力の可能性の絶たれた人なのです。阿弥陀如来の救いを信知することは、仏になる可能性のない私であることを信知することでもあります。そこに仏になる可能性のない私のままに、安住しその私に頷いていける世界がもたらされるのです。
 慈しみや優しさは、弱い、壊れそうな、小さな存在によって発動していきます。これ以上ない最大級の慈しみは、これ以上ない弱い存在によって生み出されていきます。これ以上ない弱い存在へのうなずきは、これ以上ない最大級の慈しみとの出遇によって可能となるのです。弱い存在は、無意味な劣った存在ではなく、量から質へといった転換をもたらす大切な意味を持っているのだと思います。
 人はどのような状況であっても、そのいのちを肯定していける感性があります。その感性を、浄土真宗では「仏性」「信心」「一如」という言葉で語ってきました。その感性は、愚かで弱い人や、病気や臨終期に至って、鈍化するものではなく、ますます輝きを増していきます。その感性と出遇いこそ、至福の時であり、病気や苦悩や死が無駄なものではなく意味あるものとして見いだしていけるかけがえのないものなのです。そうした感性がすべての人の上に存在していることを信頼し、関心を持つ。ここにビハーラの目指す方向があります。
 以上は、浄土真宗におけるビハーラ活動の方向性についての私論です。ビハーラを進めていく上で、浄土真宗の教えに即した理念と実践が望まれます。終末期の人たちとの関わりの中で、浄土真宗の教えの真実性を検証していく。それがビハーラ活動の役割の1つだと考えます。