がん患者・家族語らいの会 通信 平成22年4月号


ビハーラは仏道そのものです

人は極限の状況の中で、人間の本質的な部分に触れることがよくある。ところが触れることができた人間の本質であっても、その本質の中に人間のあるいは生命の普遍性に触れていくことははなはだ稀です。

過般、読売新聞(22.2.11)の医療ルネッサンス(高梨ゆき子)の記事は「闘病ブログに思い込め」という題で膵臓がんを病む東京都大田区の木下義高さん(61)の紹介記事でした。以下は記事からの抜粋です。
 直腸がんの切除後は、半年間、人工肛門の生活を送った。その後、腸をつなぐ手術を受け、再び自分の肛門で排せつできるようになった時、「生きていてよかった」と涙が出た。「2度もがんになり命拾いしてわかったのは、目の前の生活をいかに豊かに生きるかが一番大切だということ」。それが、患者仲間にぜひ伝えたいメッセージでもある。(以上)

20年前、「がん患者・家族語らいの集い」を開催し始めたころ、がんセンターのT医師(当時)は、独自にがん患者の会を中央区民会館にて200人規模で開催されていた。ある日、喫茶店で開催理由をお尋ねすると「がんを患いいのちの危機に至ると、いのちの尊さや当たり前のことが至高のことだったり、ある種のまなざしの転換に至る。ところが病気が治って平生の暮らしに戻ると、まなざしの転換も色失せてしまう。そのまなざしの転換という気づきを、もっと大きな気づきにするために開催している」(意趣)という意味のことを言われたことが記憶にあります。

人は、いのちの危機にひんして大方ふたつに大きな気づきをもつように思います。それは「後悔」と「感謝」です。後悔の感情が自覚までに深まっていくと慚愧となります。この2つは実は同じ普遍的な事実に依っています。それは二度のない人生をうかうかと生きてきた過去への後悔であり、二度とない日々を生きていることの感謝です。この2つの思いは、迫りくる死によって「自分自身に対する過信や慢心」が否定されたとき起こる感情のようです。

この「自分自身に対する過信や慢心」の否定がまなざしの転換にとっては不可欠なものです。真宗的にいえば自力無効です。

病気や死の自覚という経験の中で体験される「自分自身に対する過信や慢心」の否定を一過性のものではなく、その体験の底にながれている「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし」という人としての真実に触れていくことがビハーラ活動に携わる私の最も関心のある部分です。その気づきを可能にさせるのが「ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して」、あるいは歎異抄であえば「如来よくしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」という、苦悩の衆生海の中にあって巧みなただ手で持って凡夫の私に働きかけ下さっている如来の智慧の働きなのだと思います。

スピリチュアル・クライシス(人生の危機・試練)という避けるすべのない人生の事実の中で、その危機を否定するのではなく、その危機の中で最も大切なものを成就していく。それがビハーラに課せられている課題です。この如来の智慧に出遇う場が、お寺の法話会でありビハーラ活動なのです。だからビハーラは、お寺の本来の活動であると思っています。