18.3.16日 仏教タイムス掲載原稿

「尊厳死」法制化へ 浄土真宗本願寺派 西原祐治

「尊厳死」の法制化に向けた論議が活発化している。今月9日の東京新聞によると、昨年二月、超党派の国会議員による「尊厳死法制化を考える議員連盟」が発足し、議員連盟は法案を作るために定期的にヒアリングを続けているという。今月一日に開いた会合では、厚生労働省や法務省の担当者から説明を受け、意見交換。ある議員の「長期間、植物状態が続いて治療費がかさみ、田畑を失うような事例もある」などと、立法化の必要性を訴える意見が掲載されていた。

尊厳者は、現在の約十一万人の会員をもつ一九七六年に設立された尊厳死協会の働きかけを受けての結果であることは明白です。

尊厳死協会は、「尊厳死の宣言書」(リビングウイル)で大量に会員を獲得した協会です。

 宣言は、(1)不治で死期が迫っていると診断された場合には徒(いたずら)に死期を引き延ばす延命措置は一切断る(2)苦痛を和らげる処置は最大限に実施するよう求める(3)数カ月以上いわゆる植物状態に陥ったときは一切の生命維持措置をやめる−の内容ですが、協会の根幹は【「死」についての権利と、「自己決定権の確立」をめざして活動を推進しております】(尊厳死協会協会ホームページより)とあるように、死の権利、つまり、自己決定権は、死まで及ぶという「死ぬ権利」の獲得を目指した団体です。無駄な延命は拒否するという一点で、会員登録している人がほとんどですが、「延命の拒否」と「死ぬ権利の獲得」では、内容に雲泥の差があります。尊厳死をいえば聞こえがいいのですが、安楽死であり、人命を「殺」という形で認めることの権利獲得獲得運動もあります。

もちろん法制化への反対の声もあります。「法制化すると、重度障害者や重病人に『早く死ね』というような心理的圧力が加わりかねない」「命ある限り精いっぱい生きぬくべきだ」等、また昨年六月には学者、患者団体役員などが「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」が設立されています。

ところが仏教会からの意見が希薄なのはどうしたことでしょうか。私は尊厳死、つまり死の自己決定には反対です。その理由はいくつかありますが、大きく言えば三つです。
 一つは、死の自己決定は、知性への信頼により成り立っています。はたして、人間の知性は、自分の死をゆだねるだけ信頼できるのか。
 二つには、自分の命だから自分で決めるという、命の私物化を助長してしまうのではないかという疑問。

それと、苦しみは何も生み出さないという現代の苦しみを否定した幸福観への疑義です。

人類の歴史は苦しみを通して成長し、老や死という回避不可能な苦を通してトランス・フオーメーション(質的転換)を成し遂げてきました。苦しみを否定した社会の未来に何があるというのでしょうか。
 また法制化への危惧として、近年、癌の告知や終末期の介護保険の適用など、医療費をどう低く抑えたらよいかという価値基準で医療の動向が左右されている傾向があります。経済の論理で、死の自己決定を法制化したのでは人類の汚点です。

この尊厳死(安楽死)の問題は、現代にはじまった問題ではありません。大正五年、森鴎外が発表した「高瀬舟」は安楽死を扱ったもので、医者である鴎外自身、高瀬舟縁起の中で「ユウタナジイ」という言葉で、医療における安楽死の問題をして記しています。もうこの時代に、医療の世界で安楽死が論じられていたのです。

社会の倫理の問題、人情、生命の尊厳、死、そして人類の普遍的な理想、尊厳死の問題は、ことの善悪や問題点を指摘するだけにとどまらず、仏教の考え方や価値観が問われているといっても良いでしょう。また仏教を社会に布教する絶好の機会でもあります。そして

もっとも厭うべきは無関心です。