いのちの学び164号(06.6月号)
163号
1項 表紙

原始仏典より
 
 昼夜は過ぎ去り
 生命は滅びる
 死すべきものの寿命の尽きることは
 あたかも小川の水のようなものである

 住職訳

 日々のいのちの過ぎ行くすがたは、あたかも小川の流れのようにとどまることがありません。すべての小川が流れゆき大海の潮になるように、すべてのいのちは仏さまの慈しみの中に、安らぎの中に、豊かさの中に摂め取られていきます。

2項  ミニ説法
            住職

 民話には、物語にからめて教訓を伝える話が多くあります。話の面白さによって、大切な心が次の時代へと伝承されていきます。

イソップ物語に「金の卵を産むにわとり」の話があります。
とある田舎に、働き者だが貧しい老夫婦が住んでいた。ある時、少しずつお金を貯めて、やっと一羽のニワトリを買ってきた。「毎日一個ずつでも、卵を産んでくれるとありがたいね」と思っていたのだが、ニワトリは毎日1個、金の卵を産み始めた。驚くやら嬉しいやらの老夫婦。ある日、二人は相談した。「金の卵を産むニワトリのお腹には、金の塊が入っているに違いない」と思い、ニワトリの腹を割って見てみた。するとどこにも金の塊はなかったという話です。この物語は「足ることを知る」大切さや、人間の愚かさを見事に語っています。

 金の卵を産むニワトリといえば、イングランド地方の民話であるジャックと豆の木が有名です。
 怠け者のジャックが、自分の牛と交換に豆を手に入れる。そしてその豆は芽を出し、一晩のうちに空高く伸びてしまう。豆の木を登ったジャックは、空の国にたどり着き、巨人が父親から奪った竪琴と金の卵を産むニワトリと金の袋を奪い返す。そして、巨人を退治するという話です。

 この話は少年の勇気と決断力を伝えています。大きな鬼が退治される愉快さは弱肉強食に逆行する痛快さなのかもしれません。

 しかし鬼を主人公として物語を書いたら、悪賢い小僧の話となります。勝者がつづる歴史と同様に、いいとこ取りも感じます。

 さて浄土真宗も、弱肉強食の論理では成り立っていません。

 親鸞聖人は、教行証文類に、ケン飛蠕動の類までもが、阿弥陀仏の光明にあって慈心歓喜したと、お経の言葉を引いて喜ばれています。
ケン飛蠕動(けんぴねんどう)の類とは、飛び回る子虫やうごめくうじ虫のことです。そうした生き物までもが阿弥陀如来の救いの対象だということです。 

 近年は転生という生まれ変わりのことは、あまり言いません。しかしエネルギー不変の法則からいえば、肉体は姿を変えて生まれ変わるといった方が科学的です。 

エネルギー不変とは「宇宙に存在するすべてのエネルギーは、かたちを変えても、その総量は不変である」という法則です。寒い時に手をこすりあわせると摩擦によって手が温かくなります。それは、「運動エネルギー」が「熱エネルギー」に変化しただけで絶対量に変化がないという考え方です。

 この法則に立って私の命を考えてみましょう。私の肉体が焼かれて、沢山な粒子の水蒸気や粒子となって、この地球の大地や大気圏に放出されます。気体となった私は、風となり、雨となり、空気の一部となって、虫や獣、あるいは魚や鳥に吸われて、その生命体の一部となっていきます。また大地にまかれた固体は、草や木などの緑となって生き物の命になってきます。ある種の生まれ変わりの成立です。

 ここからが有難いところですが、その生命体も阿弥陀さまのお慈悲の対象であり、阿弥陀さまが重大視されたいのちであるということです。

 他の生命体が、、阿弥陀さまの願いの行き届いた命であると聞くと、命の終わりの先が、どうなっていっても、安心してお任せできます。

 金欲しさにヘマをした老夫婦も、鬼退治をしたジャックも、とんまな鬼も、虫や獣も、みな阿弥陀さまが大切にされた命であるというお経の言葉は、とてつもなく大きな世界観を語っています。


 仏事アラカルト

Q 献杯のときの注意点は。
A 最近よく聴く言葉にこの献杯があります。乾杯から派生した言葉です。まずこの乾杯ですが、慶応大の故池田弥三郎教授は、「そもそもわが国で乾杯とは、杯を上げて干す動作を云う言葉であって、乾杯という言葉を出して杯を干すことはなかった。当然『おめでとう』でなければならない。おめでたいからみんなで杯を干すのであるから『おめでとうございます』が正しい日本語の言葉である。不祝儀の場合は献杯で、黙って故人に杯を献じ冥福を祈るわけで言葉は出さないものだ。」とのことです。乾杯自体が近年始まったものですが現実に即してお伝えします。
 
さて献杯ですが、「冥福」「霊前」の言葉を使いません。浄土真宗は阿弥陀如来の本願力により、お念仏をいただいた人は即得往生する教えです。ですから冥福(死後の幸福)を祈る必要はありません。ですから「ご冥福を祈り」と言わず、「故人のご恩を感謝し」とか「これからも私たちを正しい方向に導いて下さることを念願し」、あるいは「謹んで哀悼の意を表します」などの言葉が適当です。


住職雑感
● 日曜日の朝、法務への出勤の途中、車のラジオから佐々木正美師の声が聞こえてきました。先生は人間の心の発達を研究する博士で、私の子どもが幼稚園のとき、父母会長として先生を推薦し講演会へ来ていただいたご縁がある方です。

 その放送は後で調べると「響きあういのちを育てたい」というNHK深夜便の再放送でした。

 先生はバロンコーエンの心の理論を引いて講演されていました。バロンコーエンは、子どもの心の発達を年齢別に研究された大学者です。

 赤ちゃんが誕生する。そして対人関係は微笑の交換から始まる。そして心の発達は、親が赤ちゃんの側にいることを要求します。5〜6ヶ月になると、抱っこやお乳など、何かしてして欲しいと要求する。6〜7ヶ月になると、何かしてあげるだけでは不満で、親がそのことを喜んでしてくれることを要求します。ここに喜びの分かち合いというコミュニケーションが生まれる。佐々木先生がラジオで力説されていたことは、この喜びの分かちあい経験がなければ、悲しみを分かち合うことは成り立たないということでした。

 日本社会の子どものいじめの原因は、悲しみを共有できないことに起因するといわれていました。
 私は、日常生活で仏さまと共に喜びを共有することの重要さを感じながら、ラジオを聞いていました。