| 故 郷 発 見 4 |
![]() 鼓岡神社
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崇徳上皇の讃岐での足跡を追うため、配流直後のお住居「雲井御所」と、約3年後に遷られた「木(の)丸殿」のある「鼓(ヶ)岡神社」を探してみることに。 狙いを府中あたりに定めて、古びた原チャリで旧国道11号線を高松方面に向かって走る。JR「坂出」「八十場」「鴨川」を過ぎ、「讃岐府中」駅の手前で「鼓ヶ岡神社参道入り口」の看板を見つけ、迷わず右折。踏切を越えるとすぐ左手にこんもりとした杜が見え、緑に惹かれるように左折すると、そこが「鼓岡神社」の入り口だった。階段を上ると、右手に「擬古堂」とある。どうやらこれが「木丸殿」と称ばれた御所跡らしい。 崇徳上皇はこの地で都からの便りを待ちつつ約6年を過ごされ、長寛2年(1164)に崩御されたと伝えられているが、近くに上皇が暗殺された場所というのがあったのには驚いた。(すると、上皇の怨念は、都を逐われただけではなかったのか!?) その案内地図に「讃岐国府跡」とあったので踏切の方へ戻ると「国府跡」という小さな道標があった。「国府跡」といっても石碑が建っているだけで、真後ろに「鼓岡神社」のこんもりとした杜が見えた。思わずシャッターを押したものの、逆光で杜は暗かった。ところが、帰宅後、画像を見ると「鼓岡神社」から光が……!? 府中のこの場所に上皇の御所があったということは手厚く遇されていた証拠……などと考えながら、田圃道を綾川の土手に向かって走った。さっきの案内地図に「雲井御所」が出ていなかったため、取り敢えずJR「讃岐府中」の次の駅「国分」にある第80番札所「国分寺」に行こうと決めたからだ。これで宇多津近辺の78〜82番札所を制覇(?)できる。 舗装されていない綾川の土手を通り、旧国道に出るとほんの5分ほどで「国分寺」に到着。「国分寺」の本堂は昭和16年に国宝に指定されたが、現在は重要文化財なのだそうだ。大化改新後、今の坂出市府中町に国府がおかれ、「国分寺」と「国分尼寺」が建立されたが、「国分尼寺」は現存しない。 さて、「雲井の御所」だ。「国分寺」を出て坂出方面に戻ったが、府中を過ぎても「雲井の御所」のヒントとなるような看板は見つからない。と思っているうちに「第79番札所高照院入り口」に着いた。白峰宮と天皇寺は4月2日に訪れたばかりだが、八十場の「ところてん」を食べていない。久しぶりに八十場の湧き水の横にある「ところてん」屋さんに行き、昔と少しも変わらない様子と味に感動していたら、やはり二百余年の伝統を守り、独自の手法で造っておられるとか。 「雲井御所」の方角を教わって出発したが、目印はない。綾川の土手を走りながら不安になったので再び道を訊ねると、もう一つ先の橋を越えて右に下りたところだという。それは白峰寺に行くときにいつも通っていた道だった。結局、何の道標もないため、気づかず通り過ぎてしまっていたというわけか。 菊の御紋の飾りがついた門の中に入ると、碑と蘇鉄があった。この碑は上皇の旧居跡が荒廃していることに心を痛めた高松藩主松平頼恕(水戸斉明の兄)が、自ら撰文して天保6年(1835)12月に建てたもので、蘇鉄はこの地で上皇に仕えた豪族・綾氏の子孫が植えたという。 かつて、「雲井御所」以北から青海町にかけては白峰山塊に湾入した入海だったが、青海川の沖積とその後の干拓で平地になった。この入海は阿益(綾)の港として、海路による国府への交通の要衝として栄えていた。また、讃岐国の旧「阿益(あや)」郡と「鵜足(うた・うたり)」郡の海岸沿いのいわゆる中讃地方には、古くから人類が居住していて、洪積世には先土器文化がさかえ、サヌカイト(讃岐石・カンカン石)製の打製土器が多数出土している。 |
![]() 国分寺
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