| 故 郷 発 見 2 (宇多津篇) |
![]() 聖通寺山から見た瀬戸大橋
|
宇多津は私の生まれ故郷だが、母方の先祖は足利尊氏の命で室町時代に、父方の先祖は水戸藩と高松藩の関係から江戸時代に讃岐に派遣されてきたため、厳密には先祖伝来の地というわけではない。 宇多津という地名があらわれたのは7世紀頃で、「鵜足(うたorうたり)」郡の船着き場「うたの津」から発したと言われ、承平年間(931〜937)の『和名類聚抄』には「宇多利」、『播磨風土記』には「宇達」とある。1617年発行のブランクスの日本地図に讃岐で唯一「宇多津」の地名が載っているように、かつては年貢米の輸送港や金比羅街道の入り口の一つとして賑わっていた。 私が生まれ育った平山には、1362年に讃岐史に登場する聖通寺城(聖通寺山の麓にある868年開基の壺平山宝光院「聖通寺」の名に由来)を中心に、室町時代に京都から移ってきた数多くの寺社が建ち並んでいた。ところが、生駒氏が1588年に高松城、1597年に丸亀城の築城に着手し、1601年に平山と御供所のうち280戸の住民が丸亀の西平山・北平山・御供所に移され、丸亀に六ヶ寺、高松に四ヶ寺が移転したため、中世以来、宇多津の重要な発着港として繁栄した平山は急に寂れた。 現在、宇多津には十の寺社があるが、その中の「本妙寺」が藍川家の菩提寺である。もっとも私は父が亡くなるまで宗派すら知らなかったという不届き者なのだが、「本妙寺」は京都「本能寺」の末寺で、高松松平藩主が法華経を信奉していたため、士族を檀家に持つ。江戸時代の藍川家の墓所は、ちょうど父の墓と相対する位置にあって、大きな桜の樹が生い茂っている。そして伯父が建ててくれた父のお墓の後方にも、小ぶりながら桜の木があったので私はとても嬉しかった。ご住職さまの御高配に感謝申し上げたい。 「本妙寺」の隣に78番札所「郷照寺」がある。二日前に79番札所「天皇寺」を訪れたのを機に初めて行ってみた。 次に反対方向へバイクを少し走らせて30年ぶりに「宇夫階神社」へ。鳥居をくぐって階段を上ると、左に「宇夫階神社」、右に「塩竈神社」の鳥居がある。この記憶からか、仙台に移り住んだ時に最初に「塩竈神社」に行き、なぜか亡き祖母の名で瓦を寄進した。男手のない戦時中、塩田の重労働に耐えた祖母のために、そうしたかったのかも知れない。 宇多津の「塩竈神社」は塩田が消えたのを機に「宇夫階神社」に合祀されたのだとか。それを知ったとたん、竹の小枝を階段状に吊るした枝条架を伴う流下式塩田が燃やされた日のことが蘇ってきた。塩田について何も知らないのに、塩田が燃えるのを見て私は泣いた。そして昭和47年1月30日、230年にわたって宇多津を支え、日本一の規模を誇った塩田・製塩事業の全ての操業が停止された。塩業従事者は町民の三分の一にも及んでいた。今では広大な塩田跡地に新しい街が築かれているが、羽をもがれた「宇多津」は本当に癒えたのだろうか。いたたまれない思いを抱えつつ産業資料館に向かった。全国で唯一、実際に塩づくりを体験できるように復元塩田を作り、小学生などの学習の場として提供しているときいたからだ。そこでは復元塩田で作った天然塩「宇多津万葉の塩」が販売されていて、私は少し救われた気がした。 さて「宇夫階神社」には永和年間(1376年頃)に「神宮寺」が創建されたが、明治の神仏分離で廃寺となったため、本尊の十一面千手観音菩薩(重要文化財)や大般若経等は「聖通寺」に移された。その「聖通寺」では、西暦868年から連綿と続く聖通寺市が毎年4月に開かれる。 そして秋は「宇夫階神社」と「塩竈神社」の例祭だ。さきほど宇多津町のHPで、久しぶりに秋祭りの太鼓台を見たら、私の中の「宇多津」が覚醒した。私がどこのお祭りにも心を動かされないのは、無意識に宇多津らしさを求めていたからなんだ! |
![]() 宇夫階神社と塩竈神社
|
|---|