私たち夫婦には、2人の娘がいます。今はもう上の子も中学生になって、生意気ざかりなのですが、小さな頃は、「目の中に入れても痛くないやろ」と言われると、「もう入れてます」と冗談を言うぐらい、可愛がっていました。
  教会長になって半年の頃、教養係の御命を頂きました。所属する河原町大教会では三ヶ月間おぢばへ伏せ込みます。2月24日、詰所に到着。26日、事務所で面接の準備をしておりますと、妻がひょこひょこと歩く1歳と3歳の娘を連れてやってきました。少し話をして、帰る段になって、お別れを言うと、私と一緒に帰れると思った上の娘が、突然大声で泣き出しました。事務所前の広場。多くの人たちが気づき、こちらを心配そうに見ています。しばらくしてもおさまらず、妻は泣き続ける娘を連れて帰りました。夜電話をするとそれから毎晩、娘は「お父ちゃんいつ帰ってくるの」と聞きます。毎日毎日聞き続けます。しかし、ある日「お父ちゃんはおぢばで何をしているの」と聞きますので、「お父ちゃんはな、おぢばで修養科の人たちの先生をしてるんやで」と言いますと、「へえ、そうなんや」と答えて、翌日からは「帰ってきて」とは言わなくなり「シューヨーカの先生してるんやろ」と嬉しそうに話すようになりました。子供心に、お父さんはおぢばで何か良いこと、人の為になることをしているんだとわかってくれたのだろうと思います。それから二ヶ月がたって、3期目の中頃、自教会の月次祭に帰りました。片付けを終えて、詰所へ戻ろうとしている時の事です。座って荷物の準備をしている私の肩を娘がポンポンとたたきます。「もう行くの?」と聞きますので、「そうや、もう行くで」と答えますと、娘はニコッと笑って「もう、お父ちゃん帰ってきてとか言うて、泣いたりせえへんからな」と言ってくれたのです。私はこの言葉を聞いて本当に嬉しく感じました。このひと言で、三ヶ月間伏せ込んだ事が報われたような気がしました。それは、娘の成長を感じることができたからです。子供の成長はこんなに嬉しいものかと、少し親の心がわかったような気がしました。
  今年の9月25日。「陽気」編集部から原稿依頼の電話を頂きました。翌日の本部月次祭。その日は、10年前、私が教会長のお許しを頂いた日でした。
  私が教会長にならせて頂いた日は、教祖百二十年祭を一年余り先に控えた頃とあって、お運びがとても多く、まだまだ暑い中、教祖殿の御用場は人でいっぱいでした。
  真柱様からお許しを戴いて、無事教会長とならせて頂き、詰所でご挨拶をして、集まって下さった方々と軽い食事をとり、自教会へ戻りました。
  それから、お風呂に入り夜食を食べてるときの事です。急に腰のあたりが痛くなってきました。家族は楽しそうに食事しているので、心配させてはと思い、隣の部屋で横になっていますと、益々痛くなってきます。まるで太い針で背中を突かれているようになってきました。そして気がつくと、私は脂汗にまみれ、まるでエビのように背中を丸めて苦しんでいました。
  それを見つけて妻が来てくれ、御供さんを頂いて、「おさづけ」を取り次いでもらいました。「あしきはらいたすけたまえ」一度目。そして二度目の「あしきはらい」の途中から痛みがひきはじめ、おさづけの終わる頃には全く痛みは無くなっていました。
  私は、あっけにとられて座り込んでいました。わずか一時間足らずの出来事でしたが、前日でも後日でもなく、教会長にならせていただいたその日の夜に「親神様の自由の御守護」を実感させていただきました。教祖が私の背中をつねって、「どうだ、私はちゃんとここにいるだろう」と知らせてくださったように思いました。
  そして、その時、私はある話を思い出しました。それは、二週間ほど前、教会長任命講習会の終講の時にある先生がおっしゃった言葉でした。「あなた方はこれから蝶になるのです、会長という蝶になるのです」。先生は、「これから皆さんはいつも人に見られる立場になるので、心して通りなさい」という意味でおっしゃったのだと思うのですが、この夜の痛みが去ったとき、この話と共に心に浮かんだお言葉は「蝶や花やというたとて息ひとすじが蝶や花である」というおさしづでした。「これから教会長となっても、おごることのないように。親神様が息をさせてくださっているから生きることができ、また教会長としてもおられるのだ」ということを、その日に親神様に教えていただいた気がしました。
  それから3日後、トイレに行った時に少し違和感があったので底を見てみると、直径4ミリくらいの黒い石が沈んでいました。痛みの原因もしっかりお見せ頂き安心させていただきました。それから今まで全く再発の兆しなく通らせていただいています。
  教養係が終わり、教会へ帰ってしばらくすると、前会長でもある母親が身上になりました。うつ病。明るい性格の母がそのようになるとは信じられなかったのですが、一日中寝てばかり。一歩も外出できなくなりました。病院での受診をかたくなに拒み、それから一年が過ぎたある日、看護婦をしている私の妹が、入院の段取りを組んで、内科を受診するからと説得し車に乗せて精神科へ連れて行きました。診察を受け、そのまま入院。もうその日は家へ帰れないと知った母が連れて行かれる時、「私を家から放り出すつもりか」と叫んだ言葉が今でも耳に焼き付いています。医師からは、「投薬などにおいてごくまれに、非常に深刻な事態になることがある」との説明をうけ、それに了承する書類にサインをします。「このまま、母親が家へ帰れないようなことがあればどうしよう」。私は切実で深い心配にかられました。
  その頃、私は就任3年から5年の教会長さんを対象におぢばで開催される「教会長おやさと研修会」で世話係の御用を頂いていました。ある時の研修会で私は、直接参加者の世話取りをする「班付」をつとめていました。2日目の夜は、皆さんが集まって食事をしながら、話を自由に交わすことのできる「受講者の夕べ」というプログラムです。あちこちのテーブルで笑い声や歓声があがり、会場は騒がしくも楽しい雰囲気に包まれています。私の班でも、楽しい会話が持たれていたのですが、ふと、ジュースやコーヒーを取りに行く方が席を立ち、ある参加者と二人きりになりました。その方は七十歳を過ぎて事情教会を持たれているという会長さんでした。私はその時、思わずその方に自分の悩みを打ち明けました。教会長として私はやっていけるのか。おたすけに自信が持てない。まだまだ新米会長だった私は不思議なくらい素直に打ち明けていました。話を聞き終わってその方は、少し笑ってこう言いました。
「清水さん。。。自然体でいいじゃないですか。」
  私は、この言葉を聞いて、身体中から重いものがすーっと離れていく気がしました。「そうか、私はこのままでもいいんだ」「親神様、教祖はいつも、ありのままの自分の姿を見守って下さっている。」「信じて、まかせて、もたれて行けばいい。」私は今でも、親神様がその方を通して、優しく声を掛け、励まして下さったように思っています。
  母親は入院中、処方された薬が劇的に効果を現し、ひと月で退院。以前と変わりない状態まで御守護いただきました。思えば、薬が効く効かないも相性があり、たまたま良い薬にあたった事を思うと、これも親神様の御守護だと感謝しています。気分の安定しない日もありますが、私にしかできないおたすけがあると、病気のことも入院経験も笑いながら皆さんに話しています。この身上も又、それまで母親に頼りきっていた自分を少しでも一人前の教会長にしてやろうという、親神様、教祖の親心であると感謝してます。
  私たちの周りには、親神様が多くのよろこびの種を用意して下さっていると思います。
しかし、それに気づくことができないと、喜ぶことはできません。ほんの些細なひと言でも、それに気づくと深く喜ぶ事ができるものです。私たちは自ら求める態度、「御守護を御守護と感じる努力が大切だ」と教えられます。また、時には、今の結構さを忘れて、先々の不安に駆られ心を曇らす時もあります。しかし、今を喜び、しっかりと親神様、教祖を信じきって通るならば、どんな中も結構にお連れ通り頂けると思います。「先案じの心を捨てて、素直に。」教祖百三十年祭に向かう今は「おたすけの旬」。この1年を悔いの無いように感謝と喜びの心で力いっぱい歩ませていだきたいと思います。