鴨川

 人生、黄昏の頃ともなると思い出すことばかり多くなる。京都の街を流れる鴨川、桂川そして宇治川。思えば私はこれらの川とともに人生を送ってきたように思う。
 ちょうど七歳の頃だったろうか、京都、出町柳の布教所に父母とともに住んでいた頃、何しろ食べるものが粗末だった。しかし私は生来「ふくよか」な体質なので、食べものの割に痩せてガリガリなんてことは今まで一度もない。ある日、父が「今日は魚釣りに行こうか」と私を連れて鴨川に行った。しかし一向に釣れる気配はない。きっと魚も食糧難から少なくなっているんだろうな、と思ったとき、なぜか上流から数匹のうなぎが固まるようにして流れてきた。父は大喜びして、捕まえて家へ持って帰った。その夜は「うなぎの蒲焼き」にありついたのだが、あのうなぎは本当に生きていたのか、と今でも疑問に思う。あれから最近まで、あのヌラヌラとした感触と色合いが気持ち悪くて、うなぎは大嫌いだった。
 あの頃父は布教のかたわらある会社で勤務していた。戦争中のこと、自転車などなかなか手に入らない時代に、どこで工面してきたのか古い自転車で社員の食料を運んでいた。ある日、その自転車が盗難にあって無くなってしまったのだ。父の悲しそうな様子に私も一緒に探して廻った。しかし、自転車は見つからず、私は親神様に、なんとか自転車が見つかるようにお願いした。しかし母は、「これは親神様からのお知らせ、自転車は無いほうがいいんです」と涼しい顔をしていた。布教一筋に生きていた母には何か悟るところがあったのだろう。しかし、私は子供心に「なんでやろ」と不思議に思った。
 父のしつけは厳しかった。これは「平安西流」であったのだろうが、口を大きくあけてものを食べるな、音をならして食べるな、ご飯は一粒も残すな、残った醤油はお茶を入れて飲め。と事々にうるさくて、少し反発すると箸箱で肩をたたかれた。あれから今日まで何十年、他の誰からも叩かれたこともなく日々結構に暮らさせていただいているのは父のしつけのおかげだと思っている。
 八才の頃、母が九州の炭鉱へ三ヶ月間ひのきしんに行くことになり、私は平安西分教会に住む祖父母に預けられた。母は炭鉱で大きな御守護を頂いたことをその後、講話で話をしている。炭鉱を走るトロッコがどうしたはずみか行路をはずれ母の腹部に直撃したのだ。母はその場で意識不明となり生死の間をさまよった。しかし、先生方の真実のおたすけにより鮮やかに御守護を頂いたのである。まさに九死に一生をえたのだ。
 そんなこととはつゆ知らず、私はその頃京都で何気ない生活を送っていた。私はそのとき、京都高野にある国民学校の一年生。朝、平安西分教会を出て二条から百万編まで電車通学。帰りはそのまま出町柳の布教所へ行き、木戸をよじ登って家に入り神様にお供えしてある干しバナナなどをお下げして、それを食べながら平安西へ帰る。母がそんな目に遭っていることなど全くしらずに、母が帰ってくる日を指折り数えていた。   平安西には優しいおばちゃんたちもおられるし寂しい思いをすることは無かったけれども、時々母が送ってくれるハガキや手紙、絵まじりの文字が涙で読めなくて、お婆ちゃんに「ともちゃん、読んで聞かせて」と言われて「ちょっと字が難しいねん」とごまかしたことを思い出す。
 出町から御池へと水遊びの楽しさを与えてくれた鴨川。この優しい川の流れが私に水泳も教えてくれた。
 懐かしいあの頃の若き日は水の流れと同じように、戻ってくることはない。